第12話 天秤へ示す答え

 中に入った俺たちは、まずカウンターにそいつを見つけた。

 そして、テーブル席に視線を向けると、そこには以前来た時と同じように、澪が眼を閉じて座っていた。


 人形のように白い顔で。

 まさしく、眠るように。

 ――あるいは、死んだように。


 ようこそいらっしゃいました。本日は決断の日です。


 そいつは分かりきったことを言ってくる。

 だが、俺が口を開くよりも先に、そいつは続けた。


 日野リサ。貴方の答えから聞かせてください。


 その言葉に俺はリサを見た。

 リサはそいつに頷き、澪の方へと歩いていく。

 そっと、澪の頬に手を這わせ、その言葉を口にする。


「ごめんね、澪」


 リサが眼を閉じた。もう一度、澪に囁く。


「ごめんね、澪。あたしがけしかけたから」



 さて、ご回答を。


 そいつが促すと、リサは澪の側にたったまま、睨みつけるようにそいつを見つめた。

 

 秦野澪を生き返らせますか? 貴方の命で。


 その質問に俺は硬直した。

 そいつが淡々と口にしたそれは、あまりにも酷い選択の強要。

 リサの罪悪感を煽る。そして救いのない選択。

 彼女の身体か、心か。いずれかを壊すための選択肢。


 俺が再びリサを見つめると――


 彼女は、笑って見せた。鋭く、強く。

 眩しすぎるその姿。俺は自分の予感が誤りであったことを思い知る。

 たとえどんな選択をしても、彼女が壊れることなど有り得ない。

 絶対に、結果を受け止める。


 笑みはそのままに、彼女が紡ぐのは、3度同じ言葉。



   *   *   *



「ごめんね、澪」


 澪にもう一度謝って、あたしは口を噤んだ。

 あとはそれを言うだけなのに、言葉が出てこない。

 

 言わなきゃ。

 ちゃんと、言わなきゃ。

 その、言葉を。


 もう一度、全てを捨てて――

 夢だけを掴むために。


 あたしは深呼吸して、口を開いた。


「あたし、澪のために命を捨てる気なんて、さらさらないの」


 言った。言えた。


「あなたは友達だけど、あたしの夢に比べたら小石みたいなもんよ」


 自分の口から出る言葉が、あたしを切り裂く。

 でも、涙は見せない。見せちゃいけない。

 あたしは望んで、秤にかけたのだから。  



「仁、あんたのことは結構気に入っていたけど、あんたの夢とあたしの夢。比べるまでもないことくらいわかるでしょ?」


 無理にでも、笑え――

 徹底的に、完膚なきまでに、捨てろ。


 神様――

 あんたはもういらない。

 何もかもを捨てて、日本まで来て、また何もかもを捨てるんだから――

 あたしはせめて、ただ一つ、報われてみせる。

 他でもない、あたし自身の力で。


 あんたは黙って、見てろ!


「だから、これは当たり前の選択なの。わかってくれとは言わないけど、ゲストはおとなしく、退場してね」


 ここで格好つけて笑えば、それで終わり。



 でも、視界が歪む。でも、頬が冷たい。

 泣いちゃだめなのに。




 あたしはここで笑わなきゃ、だめなのに―― 


 溢れるものが、止まらない。

 どうして? ちゃんと決めたのに。


 ――わかっている。本当は捨てるのが辛いからって。


 でも、しょうがないじゃない。あたしは夢のために、日本まで来たのに。

 

 ――ここでぶれたら、本当のバカじゃない。


 さようなら、澪――

 さようなら、仁――


 色々きついこと言ったけど――


 本当は、貴方たちが大好きでした。



 涙で視界がぐしゃぐしゃになる中、ポン、と頭に手が置かれた。


「後はまかせろ」


 仁が、そこにいた。あたしと澪を守るように。

 

 わかっている。

 彼は澪の側に立っているって、わかっている。

 でも、それでも――


 あたし、全てを捨てなくてもいいの?


 たまらなくなって、あたしは仁にしがみついた。


 ホントごめん、澪。

 これで最後にするから。

 今だけ、仁を貸してね。


 あたしは仁の胸で泣き続ける。

 この涙が終わる時が――

 あたしの恋が終わる時。


 また掌から、たくさんのものが零れていく。

 掬った水が、残らないように。


 けれど、夢と大切な友人は、残る。



 それは、掌で懸命に受け止めた、雫のように――



   *   *   *



 リサが落ち着くまで待って、俺はそいつを睨みつける。

 もちろん、何の効果もない。

 ただそいつはこう言うだけだ。


 天原仁、あなたの選択は?

 秦野澪と引き換えに、夢を叶えるのか。

 夢と引き換えに、秦野澪の命を救うのか。

 どちらを選びますか?


「澪を生き返らせろ」


 俺は即答する。そいつから眼を逸らさない。


 あなたの夢は、その程度のものですか。意外と軽かったですね。


「軽いわけないだろ」


 皮肉とわかっているが、俺は応じる。


 秦野澪の命を救うために、夢を犠牲にするのですから、軽いでしょう。


 その言葉に俺は笑う。強く、強く、鋭く。リサに負けないように。


「なんで俺の夢が犠牲になるんだ?」


 その瞬間、僅かにそいつが揺れたのが、わかった。


 左腕は使えなくなるのですよ?また野球のない生活に戻るのです。


 その聞き飽きた事実にも、俺はもう動じない。

 聞き飽きた事実。


 ――誰が、事実だなんて決めたんだ?


 俺だ。

 俺が諦めたから、事実になったんだ。

 だから俺は、俺が作ったその事実を否定する。


「動くようにするさ。もう一度リハビリして」


 ――そもそも澪の命と俺の夢を天秤の両側に乗せるのが間違っている。


 どちらも大切ならば、それは天秤の片側に合わせて乗せるべきだ。

 そして、もう片側に乗せるのは、俺の人生すべて。


 そいつは俺の言葉をまた否定しようとする。


 無駄に終わりますよ。


「そうかもな」


 諦念を呼び起こすその言葉に俺は頷く。確かに、無駄かもしれない。

 俺の人生をもう片側に乗せても、澪の命と俺の夢を合わせて乗せた、片側には釣り合わない。

 だから――


「だけどお前に心配してもらう必要はない」


 もう俺はそいつを見ていない。

 視界にあるのは、澪の顔。

 

 だから、天秤のもう片側には俺の人生と――


「澪がいれば。二人なら何とかなる」


 ――澪の人生も、乗せてもらう。

 

 いつからか二人で歩いて来たのに、あの事故から一人ずつになってしまったから、俺たちは間違った。

 もう一度、二人で向き合えば。


 ――必ず、届く。

 いつか描いた夢の、その先へ――


「悪いけど、澪。お前の人生を、俺にくれ」


 そいつは、初めて沈黙した。

 常に淀みなく返ってきていた言葉が、止まる。 

 僅かに訪れた無言の時間を、断ち切るように再び口を開く。


 いいでしょう。やってみるといい。

 そして、後悔しなさい。

 またあなたたちが、後悔の果てにここにたどり着く時を、待っていますよ。


 その言葉と共に、俺の左腕から何かが抜け――

 澪の中に、戻っていった。

 俺は確信と共に語りかける。


「二度と来ないさ」


 傍らで眼を閉じて座る、大切な人に。

 ともに同じ夢へ足掻く、パートナーに。


「なあ、澪」

 

 俺の呼びかけに応えるように――

 彼女はゆっくりと、眼を開けた。


 俺はそれを、久しぶりに。

 本当に久しぶりに、心からの笑顔で迎える。


「お帰り」



   *   *   *



 声が、聞こえた。

 ふわり、ふわりとたゆたい、浮かんでは沈むわたしの意識に、染み込んでくる声が。


 彼女が泣いている。

 泣きながら、それでも夢を追うんだって。


 わたしは思う。泣かなくてもいいのに。それが、あなたの魅力なんだから、と。

 だから、わたしも仁も、あなたのことが大好きなんだから。


 続けて、彼が言う。

 わたしを元に戻せと。


 わたしは思う。それはとてもとても嬉しいけれど、絶対に許されないこと。

 だからわたしは拒否しようとする。


 けれど、彼が続けた言葉が、わたしを惹きつけて離さない。

 わたしを生き返らせて、また夢を追う。

 何もかも上手くいくことなんてないのに。

 それでも何もかも上手くいかせる、と彼は言うのだ。

 それは凄く凄く魅力的だけど、きっとまた絶望する。

 今度こそ、命すらなくしてしまうかもしれない。


 ――だから、いいよ。


 わたしはいいから、夢を追って。

 そう願うのに。ちょっと寂しくても我慢して、そう願うのに。


 彼は言うのだ。


 わたしの人生も、俺にくれって。

 ふたりで足掻いて苦しもう、って。


 それは酷い、プロポーズ。

 地獄までついてこい、って言ってるみたいな――


 優しくて、酷すぎるプロポーズ。


 だからわたしは眼を開けて、文句を言って、それから――


 はい。

 はい。わたしの人生を、あなたに捧げます。

 

 って返事しようと思ったんだ。


 そして、眼を開けた先に飛び込んできたのは――

 わたしがずっと見たかったもの。


 わたしの大切な、たった一人の、心からの笑顔。

 仁がその笑顔と一緒に、わたしに言ってくる。


 ――お帰り、って。


 そんなことを言われたら、何も言えないじゃない。

 文句なんて言えない。

 プロポーズの返事もできない。


 だからわたしが返すのは、お決まりの、たったの一言。


「ただいま」


 そして再び出会ったわたし達は――


 また絶望の底から足掻き始めるんだ。


 それはとても辛くて、苦しい、果てのない道だけど。

 未来は明るくなんてないけど。

 何もかも上手くいくとは限らないけど。

 

 それでももう一度、二人で頑張ろう。


 仁。大好きな仁。わたしの命よりも大切なあなたに――


 わたしの人生を、捧げます。



   *   *   *



 それから、しばらくが経った。

 俺と澪は大学を辞めて、地元に帰ってリハビリに励んでいる。

 奇跡なんかじゃなく。もがいて、苦しんで、でも二人で、確かに掴むために。


 ピッチャーマウンドに立ち、右手に持っていたボールを左手に持ち帰る。

 なんとか、持てるまでにはなった。

 それでも――

 振りかぶって投げたボールは、キャッチャーミットのまで分も届かずに、地面に落ちた。

 土に後がついて、ボールが無情に転がる。


 何度も何度も、数えるのも馬鹿馬鹿しいくらい繰り返してきた、いつも通りの結果。

 それでも、また俺は投げる。

 またボールは届かず、地面に転がる。


 焦りが、生まれる。後悔なんて、したくないのに。

 それでもじわじわとそれは、俺を蝕もうとする。


「仁、少し休憩しよう?」


 負の思考に落ちて行く前に、澪が止めてくれた。

 渡してくるのは、手作りの弁当。


「はいこれ。栄養たっぷりよ」

「悪いな、いつもいつも」

「何言ってるの。わたしの人生は仁のもの。だから当然でしょ?」


 幸せそうに笑う澪。

 俺の選択が誤りでなかったことを教えてくれる表情だった。


「本気か?」


 昼食をとりながら、澪が提案してきた内容に驚いて、俺は彼女を見つめた。

 澪はいたって真剣に、頷く。


「試せることは全部試さないと」

「……そうだな」


 俺では思いつきもしなかったが、二人で足掻くと決めたのだ。彼女の提案を試してみようと思う。

 進むべき道は、俺だけじゃない。澪と歩むのだから。

 彼女が示した方向に行く、と俺は決断した。



 昼食後、俺はいつもと違う力の入れ方に苦労しながら、数回シャドーピッチングをした。

 そして、振りかぶって、投げた。


 ボールは、あらぬ方向へ飛んでいった。


 俺と澪は、こうして今日も二人で足掻いている。

 明日も、明後日も、その先も――

 いつになるかわからないけれど――


 いつか、夢を掴めると信じて。

 じわじわと、蝕んでこようとする後悔に、負けないように。

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