第11話 たった一つの冴えたやり方 2
答えは出なくても時間は過ぎ、日常は日常として続いていく。
俺は悩みを抱えながらも、日中はサークルの練習に顔を出し、一人でトレーニングに励んでいた。
白球を握り、投げ込んでいる間は、何も考えなくてすんだ。
それは夜のジョギングと同じ、逃避に過ぎないと分かっていたが、それでも。
俺は繰り返す。
ボールを投げられる。
一球投げるたびに、野球ができることの喜びが、俺を蝕んでいく。
他の夢を追う人間は、当たり前のように夢を追っているのに、何故俺だけが夢を追うことすら許されなかったのか。
今の状態はむしろ、当然の状態ではないか。
次第に脳裏に浮かぶのは都合のいい自己弁護が多くなっていた。
俺が助けなければ、こうなっていたんだ。
澪が選んだのだから、俺に責任はない。
次第にそう思うことが多くなっていった。
そして、約束の日、クリスマス前の週末、12月22日土曜日。
俺の選択を、決定付ける人が現れた。
その日、俺は今年最後の試合に登板させてもらい、自責点ゼロの完璧なピッチングをした。
試合勘も戻ってきている。悪くない。
まったく、悪くない。もう、高校時代に劣るところは何もない。
確信を持って、そう思う。
試合に出られる満足感。
落ちている体力を振り絞り、完投しきった達成感。
何よりも、ミットに白球を投げ込むことができる、充実感。
それらに満たされ、俺は、野球ができることの幸せを、その価値を、改めて実感していた。
そうして打ち上げ前に一旦家に帰ろうとした俺の前に、その人は姿を見せた。
グラウンドの土手から声をかけてきたその人は。
俺に名刺をくれた、スカウトの人。
「久しぶりだね、天原君」
ずっと見ていたのだろうか。この試合を。
――もしかして、俺を?
「いや、話を聞いたときはまさかと思ったんだけどね。信じてみるもんだ」
1年前と変わらない、人を安心させる笑み。
「ここは冷えるし、ちょっと暖かいものでも飲みながら話さないかい?奢るよ」
その笑みのまま、俺に誘いの言葉を放る。
俺は一も二もなく、頷いていた。
「いや、絶望だって聞いてたからね。本当に驚いたよ」
「奇跡が起きたんですよ」
口にしたコーヒーがやけに苦い。返した言葉のせいか、と埒のないことが頭に浮かぶ。
スカウトの人はニコニコと続けてくる。
「私も気にしていたんだ。せっかく見つけた選手だからね」
「ありがとうございます」
どこで知ったんですか、と尋ねると、それがさ、と口調がおかしそうなものに変わった。
「ある人にさ、天原仁って奴が大学野球に復帰したって知ってたか? って聞かれてね」
俺はいまいち事態が飲み込めず、続きを待つ。
「言ってきたのが芸能関係の記者でね。天原君のことを知ってるなんてどこのソースか聞いたんだよ」
まさか、と俺は思う。芸能関係といえば、思い当たるのは一人しかいない。
「そしたら日野リサって、新進のダンサーに頼まれたっていうんだ。その記者が凄くその子に入れ込んでいてね。今のうちにつなぎを作っておきたくて、頼みを聞いたって」
予想通りの名前が出てきて、まず感じたのは嬉しさだった。
あの帰り道で、亀裂が出来てしまったリサだが、それでも。
夢を掴みかけているのが、嬉しかった。
今の俺を否定しないのが、嬉しかった。
――俺の夢を応援してくれるのが、嬉しかった。
俺の内心を知らず、言葉は続く。
「何か曖昧なソースだし、どうかなー、って思ったんだけど。君は惜しい逸材だったから、騙されたと思って来てみたんだよ。いや、来てよかったよ」
そこまで言って、表情が変わったことに俺は気づいた。
でも、と否定から始まる言葉が紡がれる。
「ブランクがあったから仕方ないのかもしれないけど、ちょっと落ちてるね」
その評価に、俺は殴られたような衝撃を受けた。
自分では、まったく劣っていないと評価したのだから。
「球威は悪くないけど、何か身体のバランスがね。一試合見ただけだから決め付けはよくないけれど。何か前は凄く計画して筋肉つけてたけど、今は筋肉のつけ方が適当なのかなあ。ボディバランスがねー」
計画的な、トレーニング。
「あと身体も硬くなったように思うな。柔軟とかも見てたんだけどね。ちゃんとマッサージとかもしてたのに、何でかなあ」
筋肉をほぐすための、マッサージ。
「余計なお世話かもしれないけど、偏った食事にも気をつけてね。スポーツ選手は栄養バランスも気にしないとね」
バランスの取れた食事。
それらをすべて、整えてくれていたのは誰だったか。
いつの間にか、俺は俯いていた。
「じゃあ今日は帰るね。きついこと言ったけれど、君の復帰は本当に嬉しいんだよ。あ、これ新しい名刺。また見に来るよ」
俯いてしまった俺に、露骨なフォローが入る。だがスカウトの人が支払いを済ませて帰っても、俺は顔を上げられなかった。
否応なく、気づかされた。
夢は間違いなく、俺のもの。
けれど、今まで夢に向かって進んでいた道は、いつの間にか俺だけの道ではなくなっていたんだ。
俺だけでは、ここまで来れなかった。
いや、この人と出会うことさえ、できなかったんだ。
――澪!
今更ながら、身を尽して支えてくれた、俺と共に歩いてくれた彼女という存在の大きさが、身に染みた。
そうだ、俺は一人で夢を追っていたつもりになっていた。
本当は、ずっと二人で追っていたのに。
彼女がいなければ、俺がここまで夢に近づくことはなかったんだ。
その澪を失って、夢が掴めるはずがない。
じゃあ、どうすればいい?
――決まっている。探すしかない。
奇跡は、起こらない。
すべてが上手くいくなんて、有り得ない。
そんなことは、分かってる。
とっくに、思い知った。
それでも見つけなければならない。
二度と間違わないために。
澪を手放さず、もちろん犠牲になんかせず――
俺たちの夢を追って、そして掴むための――
何もかもが上手くいく。そんな最高の結果を手に入れるための。
――たった一つの冴えたやり方、ってやつを、見つけなければならない。
* * *
唐突に、しかし流れとしては当然に、そいつはあたしの前に姿を見せた。
こんばんは、日野リサさん。
「何の用?」
あたしはそっけなく返す。用事なんて、わかりきっている。
秦野澪のことです。
その名前を出されて、あたしは向ける視線を厳しいものにした。そいつの言葉を待つ。
あなたの命と引き換えに、秦野澪を助けることもできます。
あたしは返事をしない。それはとっくに頭に浮かんでいたことだったから。
12月25日、あなたの返事も聞かせてください。
あたしは頷いた。どうせ仁と一緒にいくつもりだったんだから、何も変わらない。
そいつがいなくなって、あたしは改めて考える。
澪が自分を犠牲にして願いを叶えたのはあたしに言われたから。
理由のすべてではもちろんないが、それでも責任の一端はあたしにある。
その一方で、あたしは年明けからバックダンサーとしてのデビューが決まっている。フロントは日本で人気のグループだから、もちろんテレビにだって出る。
祖国アメリカから何もかもを捨ててここまできたあたしは、ようやく報われようとしている。
追い続けてきた夢の端は、もう手の届く場所にある。
足掻いてきたんだから、報われたい。それがたとえ傲慢だとしても。
でも、澪の命ももちろん大切だ。
彼女とは決定的にぶつかったけど、日本でできた、たった二人の友人なのだ。
また何もかもを失うか。
あるいは、失わないために夢を遠ざけるか。
「あと、2日、ね」
誰に言うともなく言葉を洩らし、あたしは再び身体を動かし始める。
夜の公園は、相変わらず静かで。
もちろん仁は、姿を見せなかった。
――あたしの答えはもう、決まっている。
* * *
その日の深夜、リサからの電話があった。
いつものように駅前で待ち合わせ、カップルで溢れかえる繁華街を俺たちは並んで歩く。
クリスマスソングをバックに、人一人分の距離を開けて。近づきすぎず、離れすぎず。
イルミネーションにも、一際ライトアップされたツリーにも、俺達は視線を向けない。
ただ、前だけを向いて、歩く。
「あたしが澪をけしかけたんだ」
ポツリ、とリサが零した言葉に、俺はそうか、とだけ答える。
深くは聞かない。言えない、と言っていたから。
この異性の友人が、強くて優しいことを、知っているから。
厳しさは、強さと優しさからきていることを、知っているから。
「責めないの?」
リサは視線を向けずに言葉を続ける。
俺はポン、と彼女の頭に手を置いた。
「悪かったな」
逆に謝る俺をリサが驚いた顔で見る。俺は彼女を見ずに、懺悔の言葉を口にする。
「俺がうじうじしていたから、ややこしいことになった」
今度はリサが答えない。
もともと俺たちは、お互いの言葉に答えを欲していない。
ただ、零れてくる想いを口にしているだけだ。
俺は続ける。
「もう心配ない。今日で全部、終わる」
リサは無言だったが、しばらく歩いてからそうだね、と頷いた。
俺は決意を胸に歩く。
知らないはずなのに、足が勝手に道を選ぶように進んでいく。
一軒の建物が眼の前に飛び込んでくる。
タイミングを合わせたように、携帯電話のアラームが、その日の終わりを告げる。
そして、訪れたのは2007年12月25日火曜日。
祝福すべき、聖なる夜。
今日のこの、運命の日。
俺は、一つの選択をする。
その選択が正しいかどうか、わからないが。
せめて最後には、笑えるように――
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