第10話 たった一つの冴えたやり方 1

 その店から戻って、数日が過ぎた。

 俺の頭では、未だに答えの出ない問題がぐるぐると回っている。

 良識で言えば、もちろん、澪の命が大事だ。半死人のような俺を何とか立ち直らせようと、大学まで追いかけてきたその恩は、返そうとしても返せるものではない。

 何よりも、命より大切なものがあるはずがない。

 俺の天秤は良心に従って、そう傾く。

 しかし、決まって反論が上がる。


 本当にそうか?

 本当に、命より大切なものはないと言い切れるのか?

 俺の夢は、そんなに軽いものか?


 この醜悪に過ぎる感情は、しかし間違いなく俺の中にある。

 だから逃げたのだ。両親から、後輩から、そして――澪からも。

 誰も彼もが、俺を心配するあまり、一番俺が認めたくないことを言ってきたから。


 野球は、もうできない。


 その事実を否定しようとしては、左手の痺れに屈する俺。

 奇跡は起きないと散々思い知らされた。

 

 それなのに。

 そのはずなのに――


 奇跡は、起きてしまった。

 他ならぬ澪の命と引き換えに。

 何故俺は疑わなかった? 奇跡に対価があることを。


 知っていたのだ。

 何もかも上手くいったりはしないと、知っていたのだ。

 堂々巡りの思いの中、ふと疑問が浮かぶ。

 俺はどこで間違えた?


 この奇跡を受け入れてしまった時か?

 何もかもから逃げた時か?


 あるいは――

 あるいは、澪をかばってこの腕を差し出した時か?



 俺は思い出す。

 あの時、澪をかばい、走った時。

 何かを考えていたわけじゃない。ただ、危ない、と思った時には、俺は既に澪に向かって駆け出していた。

 時間がやけにゆっくりと流れた。

 スローモーションのような、コマ送りのような、空間。

 はっきりと覚えている。

 ドラマのワンシーンのように、色々なことを瞬時に理解できた。

 ああ、間に合う、とも――

 あ、でもヤバい、とも――

 自覚して。けれど足は止まらず。止めようとも思わず。

 俺は、いつの間にかベッドの上にいた。



 とても憔悴した顔で謝罪する澪を安心させるように、俺は明るく言った。

「大丈夫、リハビリして、すぐに復帰するっての」

 俺の言葉に安心するように、澪は頷いた。

 だが、俺は、不安だった。

 軽いリハビリなんかではないことは、すぐにわかっていた。

 ニュースで見る野球選手は何人も、怪我を機に落ちていった。

 それでも、自分だけは何とかなると信じた。信じようとした。

 ニュースで見る、劇的な復活。

 それを信じた。

 信じてすがり。迷いながらももがき。不安を消し飛ばすように、リハビリに没頭した。



 ――だが、現実は甘くなかった。


 素晴らしい回復力と医者は驚いていたが、それだけだった。

 俺が欲しかった、完治には至らなかった。

 俺の感覚では遅々として進まないリハビリ。

 掴めない。どれほど遠いのかすら、わからない。

 奇跡までの距離は、縮まらなかった。




 ある日、一人になりたくて、両親も澪も追い出して、病室から見た夕焼けが、あまりに綺麗で。

 赤く燃える西の空が、俺の胸をきつく締め付けた。

 世界は、変わらない。

 待ってくれない。

 俺の都合のいいようには、動かない。

 そう思えた。思ってしまった。

 俺は自分がとてつもなく惨めになって、声を上げて泣いた。

 覚えている限り、初めてで。

 ただ一回の、悔し涙。

 その時、俺は決壊した。

 そして芽生えたのは、必ず復帰するという、前向きな感情ではなく。

 何故俺がこんな目に会わなくてはならないのかという、どす黒い感情。

 その感情が、最低なものは、わかっていたが。

 そう思っても、何も変わらないことは、わかっていたのだが。


 ――俺は、飲み込まれた。

 


 そして、澪を避けるようになり。

 俺は何もかもを捨てて、故郷から遠く離れた大学へと進学した。



 だというのに。

 一番逃げ出したかった澪は、付いてきた。

 彼女の成績ならば、いくらでももっといい大学に行けたのに。

 それでも、俺を追ってきた。

 俺はそれがありがたく、申し訳なくって。


 ――そして、どうしようもなく、疎ましかった。


 俺は澪を突き放すわけでもなく、ただ距離を置いた。

 澪もそれに気づいたのだろう。俺の態度に一つの不満も言わなかった。

 ただ、つかず離れず、俺の前から消えはしなかった。

 サークルを紹介してきたように、要所要所で現れ、制止するだけ。

 

 その澪の姿を見るたびに、俺は思い出さなくてはならなかった。

 その瞬間を。

 ――俺の夢が打ち砕かれた瞬間を。

 そして繰り返し、自覚する。

 その醜悪な感情を。


 ――どうしてお前のせいで、俺の夢が壊れなくてはならないんだ?


 頭に浮かぶ、その言葉。

 後悔に飲み込まれ、眠れない夜が何度も訪れた。

 そんな時は、走りに出る。

 目的も、目標もない。

 ただ、黙々と走っていると、黒い感情が消えていくから。

 汗とともに、何か嫌なものが出ていくのが、わかるから。

 俺は動けなくなるまで、走った。

 走った後、澪に会っても、黒い感情は沸いてこない。

 だから、彼女に従って止まることができた。

 だが、距離を置きたい気持ちは変わらない。

 俺は走る場所を何回も変えた。

 そして、ある日、出会う。

 金髪を揺らして、一人踊る。

 夢を追って、もがいている。

 鮮烈で、眩しい――日野リサという人間と。


 彼女が足掻く姿が、いつかの俺に見えて仕方なかった。

 そして、心底羨ましかった。

 リサと話をすることで、俺は自分の状態を再び省みるようになっていった。

 ――俺は、一体何をしている?

 自問しても、答えは決まっている。

 何も、していない。

 いや、していないんじゃない、できないんだ。

 俺の中の、黒い感情が問いかける。

 ――なぜ、できないんだ?

 

 そして、最悪な答えが浮かんでくる。


 ――澪のせいだ。澪をかばって、左手が動かなくなったせいだ。


 ――違う、あれは事故だ。


 自分で、その反論に力がないことがわかる。わかってしまう。

 じゃあ、あそこで澪を見捨てることができたというのか。


 ――そんなはずは、ない。


 ない、はずなんだ。



 延々とリピートを繰り返す曲のように、同じ疑問がぐるぐると回る。

 答えが出ないまま、時間だけが過ぎる。

 放っておいた分銅が赤く変色するように。

 澪の命と、俺の夢という2つの錘は錆付いていて。

 磨いても、元には戻らないのかもしれない。

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