第9話 澪標(みをつくし) あなたの救いとなるために 2
仁と同じ大学へ進学してからも、わたしは毎日仁の前に姿を現した。
仁から会いに来てはくれないが、わたしが会いに行って逃げることはしない。
ただ、困ったような笑顔を浮かべるだけ。
その笑顔の下から、わたしにだけ聞こえる声がある。
お前のせいで――
お前を助けなければ――
その心の叫びにわたしはごめん、と心の中でだけ謝罪する。
償うことはできない。わたしにできることは、ただ前を向かせようとすることだけ。
でも前を向くことが出来た時、またわたしに振り向いてくれたら、嬉しいな。
それは望んではいけないことだけど。
どうしても望んでしまうこと。
大学では仁を無理矢理イベントサークルに入れた。効果はそれなりにあった。
仁は自分から動かない代わりに、人の誘いを特に断りもしなかったから。
時間の使い方を知らないから。
何とか毎日を普通に過ごしてくれるようになって、わたしは少しほっとしていた。
そして、わたしのしていることは間違いじゃないと思うようになった。
仁は時折走りに行く以外は段々と笑うようになった。
野球グラウンドには寄り付かないし、野球観戦の誘いだけは断っていたけれど、それは仕方ない。
わたしのしていることは、仁にとって一番いいことだと思うようになった。
それは、どこかで掛け違えたボタン。
間違いではなかった。けれど、最善ではなかった。
分かっていたはずなのに、痛みと共に知っていたのに。
いつの間にか勘違いしていたわたしは。
――もちろん罰を受ける。
それは、走りに出ている仁をようやく見つけたある日のこと。
仁の隣にいたのは、金髪の同い年くらいの女性。
すらりとして背は高く。モデルのように格好いい。頭にかぶった野球帽が、とてもよく似合っている。
仁と同じく傷ついて、ボロボロになって、何もかも失って。
それでもまだ――足掻いている人。
わたし達にとって眩しすぎる人。
わたしに鉄槌を下す彼女の名は――日野リサ。
それからしばらくがたって、リサに仁の腕のことを知られたわたしは、仁を前に向かせるために彼女に協力を頼むことにした。
彼女は積極的に仁を止める気はないようだったけど、それでも走っているのを見かけたらわたしに連絡をくれたり――
仁を遊びに連れ出したりしてくれた。
彼女は楽しそうに、仁と遊んだことを教えてくれた。
わたしはその度に彼女にありがとう、とお礼を言った。
わたしは、仁と野球場以外の場所に行ったことなんて一度しかないけど。
リサは何度だって、どこにだって行ける。
それが、わたしには羨ましかった。
いつしかわたしの胸に生まれていた感情は、嫉妬。
わたしは仁と笑って遊ぶことは出来ない。けれど彼女にはそれができる。
それは割り切らなければいけないことだったけど。
とてもとても難しかった。
ある日ついに抑えきれなくなったわたしは、リサと二人で会うことにした。
夜の文化公園。モニュメントの下。そこを指定してきたのは、リサだった。
「で、話って?」
「わかっているでしょ?」
どうということもなく尋ねてくるリサにイライラしながら、わたしは答えた。
リサは冷めた眼でわたしを見てきた。
「仁のために協力しろっていったのは澪でしょ?」
「それは、そうだけどっ……でも」
反論になっていない反論をするわたしに、リサは溜息をついた。
わたしはまだ気づいていなかった。
わたしこそが彼女の怒りを買っていることに。
自分と仁のことだけを、いや、自分のことだけを考えていたから。身を尽している相手は、仁ではなくわたし自身だったから。
そして、仁やわたしと同じように傷つきながら、でもたった一人で足掻きながら進んでいる彼女は牙を剥く。
仁を巻き込んで、螺旋を描くように堕ちているわたしに向かって。
不器用にもがく仁を、解き放つために。
「澪、あんた結局何がしたいの?」
――言われた。わたしはすべての事情を話していたが。それでも彼女は言ってきた。
わたしの過ちを、容赦なく断罪する。
「仁から野球を忘れさせたいなら。それだけを目標にするなら、黙ってなさい。その目的にはちゃんと協力するから。つまんない嫉妬はやめなさい」
わたしは言葉を失った。今までこれほど辛辣な言葉を浴びせられたことはなかった。
「もしも自分を見て欲しいなら、仁から野球を忘れさせようなんて馬鹿なことはやめなさい」
心の片隅にある、都合のいい考えを引きずり出される。
「あんたと野球は、仁にとって切っても切れないもの。彼は分けられない。眩しすぎる思い出だから」
弾劾の言葉は続く。わたしは震え始めていた。
「もし本当に仁の幸せを願うなら。仁の眼の前から消えなさい。それが、彼にとっては最善の手」
地面にへたり込みそうになる。けれど、わたしは踏ん張った。
彼女に、負けたくない。
その容赦ない言葉から感じる、強烈な仁への感情に、負けたくない。
それだけが、無様に過ちを犯していたわたしを、まだ立たせているものだった。
「もしも仁のことを本当に想って、仁の命と夢の両方を助けたいなら」
リサはわたしへの敵意を、叩きつけてくる。
「澪、あんたの命を賭けなさい。その、守ってもらった命を」
「え…?」
「賭ける気があるならわたしが教えてあげる。願いの叶う場所を」
間違いなく、その言葉にわたしは一瞬気を失った。
わたしが死んだら、わたしは仁の隣にいられない。
でも。もしもわたしが死んでも。
仁がもう一度夢を追いかけられるようになれば。
仁はわたしを赦してくれるんじゃないだろうか。
もし仁がもう一度、ちゃんと笑えるようになるのなら――
――いい。
――――わたしは死んでも、いい。
掛け違えたボタンを見つけた。それをはずして、正しい穴に掛けなおす。
もう二度と間違えない。
せめて、仁の命だけは――ではなく。
仁の命と、それからこぼれた夢を掬うために――
わたしは、彼に貰った命を、彼に返そう。
神様が叶えてくれない奇跡が命で買えるなら、買ってやる。
掛け直したボタンは、即ち正しく使う、掛詞。
澪標のように、彼の夢へと正しくつながる道を。
身を尽して、彼のためにもう一度、つなげよう。
――わたしのすべてを、彼のために捧げよう。
「教えて。その場所を」
わたしはリサを睨んだ。瞳に精一杯の力を込めて。
1ヶ月かけて、わたしはその店を見つけることができた。リサが教えてくれた、願いを叶える店を。
そこは、本当に叶えたい願いがある人にしかたどり着けないという。
まるで都市伝説のようなそれにすがる思いで、わたしは探し回った。
そして、ようやく今こうして眼の前まで来ていた。
ここをくぐれば、仁を助けることができる。
命を賭ける恐怖に、身体が震える。
それでも、わたしはもう間違わない。
尋ねた時のリサの驚いた顔を思い出して、恐怖を叩き潰す。
――負けない、絶対に。
――逃げない、もう二度と。
決意を胸に、一歩踏み出したその中は、一見普通の喫茶店。
けれど、お客さんは一人もいない。
いらっしゃいませ。
カウンターの人が声をかけてきた。黒一色の、変わった格好をしている。
わたしが、ここが願いを叶える店か尋ねると、肯定の頷きが返ってきた。
はい、ここは願いを叶える店です。
その人は、男にも女にも見えた。
ただし、代価としてあなたの命をお支払いいただきます。
その人は、わたしが震えとともに待っていたその代償を、冗談のようにあっさりと口にした。
けれど、まるでホラー映画のようなこの状態を、不思議と受け入れている自分がいた。
何故か確信がある。それは嘘ではないと。
命を捨てれば、仁の腕は治る。
彼は夢に向かってもう一度歩ける。
その時、わたしは隣にいれないけれど――
決めたはずのことに再び葛藤が襲ってくる。
わたしが黙っていると、その人は言った。
ごく稀に、願いを叶えて助かる人もいます。
即座に嘘だと思った。そんな都合のいいことはないと。
何もかも上手くいくなんて、ありえないって、知っていたから。
それでも、その言葉はわたしの中にするり、と滑り込んでくる。
その人はさらに続ける。
1ヶ月後、また来てください。
その時に、願いを聞きます。と続けられて、わたしは帰るよう促された。
わたしは頷くしかなかった。
どうして?
どうして、即座に頷けないの?
どうしてわたしは――
――リサみたいに、強くないんだろう。
店を振り返ることすら出来ずに、わたしは来た道をとぼとぼと戻っていった。
それから1ヶ月の間、リサには連絡を取らなかった。
仁にはもう2ヶ月会っていない。万が一にも気づかれないために。
気づいても、止めてくれると言い切れないから。
考えれば考えるほど、悩みだけが大きくなる。
わたしは自分を叱咤する。
決めたんだ。
わたしはもう二度と、間違わない。
命を賭けてでも、仁の夢を掬うんだって。
でも――
でも、その時、わたしがそばにいられないのは寂しいよ――
二つの本音がぶつかり合い、わたしの心が悲鳴をあげる。
心の天秤が、二つの錘でぐらぐら揺れる。
その時決まって、その言葉を思い出す。
ごく稀に、願いを叶えて助かる人もいます。
それは嘘だって、わかってるのに。
わたしを迷わせたいだけだって、聞いたときは思ったのに。
いつの間にか、その可能性に期待する自分がいた。
そして迎えた、2007年11月3日土曜日、文化の日。
その日が、わたしがかすかな希望を掴もうとした日。
奇跡を信じて迎えた日。
そして――
わたしがまた自分勝手な解釈をして、都合のいい希望にすがりついて。
――罰を、受けた日。
何もかも上手くいくなんてありえない、って。
ちゃんと、知ってたのに。
でも、これで。
――仁の腕は、治る。
それだけは、間違いない。
――仁。
わたしの最後の呟きは、誰も振り向かせることがなかった。
それを悲しいとすら思えずに――
わたしの意識は、闇へと溶けていった。
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