第8話 澪標(みをつくし) あなたの救いとなるために 1

 初めて彼と出会った時、わたしはただの一人のファンだった。

 より正確には、ファンの一人の友達だった。仲のいい友人に連れられていった野球場で、初めて彼を見た。

 もちろん、同じ学年だったから廊下で顔を合わすくらいはあったけれど、はっきりと注目したのはその時が初めてだった。

 彼は、決して強くないうちの高校を、4回戦まで連れて行った。

 その4回戦の後、友達に野球部主催の反省会。と銘打った慰労会に付き合わされて、彼と向かいの席に座った。

 わいわいと他の部員とファンの女の子達が喋っている仲で、彼は、隣の監督とばかり熱心に喋っていた。

 他の部員が女の子の気を引くのに熱心な中、彼だけが文字通りの反省会をしていた。わたしの友達や、他の女の子が話しかけてもほとんど聞いていない。

 彼は先だけを見ていた。大切な物を見据えて、逸らさない。

 わたしはそんな彼に興味を引かれて、思わず尋ねていた。

 どうしてそんなに頑張るの、って。

 彼は他の女の子がしない質問に驚いたようだった。わたしを珍しそうにじっ、と見てくる。

 そして返ってきた答えは、


「プロ野球選手になるためさ」


 一片の迷いもない、純粋な答えだった。


 彼の名前は天原仁。わたしの一番大切な人。




 それからわたしは友達に連れて行かれたり、一人で行ったりと試合の度に応援に行った。段々とそのひたむきな姿に惹かれている自分に気がついたけど、気がついた時には止められなかった。彼の一番近くにいたくなっていた。

 告白も、わたしからした。

玉砕覚悟だったけど、彼はわたしを受け入れてくれた。後から聞いたら、仁もちょっと気にしてくれていたけど、野球のことで頭が一杯で自分からそれ以上どうこうする気がなかったらしい。

 それを証明するように、デートといえば野球観戦ばっかりだった。これにはちょっと不満もあったけど、眼をキラキラさせて野球の話をする仁を見るのが好きだったから、それでもよかった。

 付き合うにつれて、わたしは仁がひたむきなだけではないことを知った。

 彼は、必死だった。

 それは文字通り。彼の努力に、周りは報いてくれていない。

 あまりやる気のないチームメイト。充分でない練習機器材。

 せめてわたしだけは、と彼のサポートのために色々な本を読んで、彼のためになることをしようとした。


 栄養バランスの取れたお弁当をつくった。

 ユニフォームを洗ったりもした。

 マッサージの仕方も練習した。

 身近にあるものでできる、効果的なトレーニング方法を学んだ。


 高校生活の最初の一年はこうして2人だけで頑張った。



 学年が変わると、わたしと同じくひたむきな彼に惹かれるように、下級生にはやる気のある部員が増えた。

 わたしは友達を巻き込んで、器材の充実を学校に訴えた。いくつかは認めてもらえた。

 身を粉にして動き回った甲斐あって、周りが、少しずつ仁に報いてきていた。


 2年生の夏の予選後、一人の男性が仁に名刺を渡してきた。

 プロ野球チームのスカウトだった。

 たまたま隣にいて、彼はプロ野球選手になれるんですか、と尋ねたわたしにスカウトの人はこう答えた。


「甲子園に出ないと、すぐにドラフトで指名とはいかないけどね。天原君には才能があるから、練習を怠らなければプロで通用する選手になれると思うよ」


 わたしと仁は、顔を見合わせて喜んだ。

 仁の夢はゆっくりと、確実に近づいて来ていた。

 その日初めて、2人で夕食を一緒に食べた。

 それは初めての、野球観戦以外のデート。


 わたしは幸せだった。

 この時が一番、幸せだった。

 それが終わるのは、更に1年後。

 3年生の夏の終わり。




 3年生になった仁は、夏の大会で決勝までいった。

 そしてそこで、彼の高校野球は終わった。

 仁も、みんなも、もちろんわたしも、できる精一杯をして、臨んだ大会だった。

 だから、それは偶然ではない。努力して努力して、でも足りなかったという事実。必然の結果。

 仁はもちろん悔しそうだったけれど、涙を見せずに受け入れた。

 大学でもっと練習して、プロになる。そう言った仁はやっぱり、ぶれなかった。

 うらやましいくらい、前だけを見つめていた。

 この人が光輝くのを見ていたい。そのためにわたしの力を尽したい。

 今更のことだけど、改めて強く思った。

 だって、わたしの名前は澪。標という一字を足して、身を尽し、と掛詞になる名前。

 彼のために身を尽くし。

 彼のための標となろう。

 それが、わたしの決意となった。



 受験勉強をしながらのトレーニングは難しい。それでも仁とわたしはそれを続けた。

 たどり着けなかった悔しさが力となり、また新たな希望を目指して進む。

 それは細くて頼りない、けれども未来へと続くいわば糸のようなもの。

 2人で糸車を繰って、それを縒り合わせて、太くて丈夫な綱にしていく。

 

 けれど、それは細い糸のまま――

 夏の終わりのある日、断ち切られた。




 その日、仁とわたしは買い物をすませて、家に帰る途中だった。

 信号が青に変わる。わたしは仁より先に歩き出した。

 不意に左側から光がわたしを照らした。振り向いたところにあったのは、一台の車。

 わたしは反射的に目を閉じた。ドン、という大きな音がして、次の瞬間には地面に倒れていた。

 けれど、それだけだった。

 わたしは立ち上がった。その立ち上がれた事実の異様さに気づかず、振り返る。


 ざわざわと、周囲の人の視線が集まっている。

 その中心には、一人の男が倒れていた。


 学生服に身を包んだその人は――

 常に前向きな高校生で、将来を期待される野球選手で、そしてわたしの恋人。

 一番大切な人。


 ――意識を失って地面に倒れるその人の名前は、天原仁といった。


 声にならない声を洩らしながら、わたしは地面に座り込んだ。

 誰かが声をかけてくれている。

 でも、何を言っているのかわからない。

 わたしは目を閉じて動かない仁を見つめるだけだった。


 世界のすべての音が聞こえなくなり、色が消えていった。


 断ち切られた糸は落ちていき――

 糸車だけが、からから、からから、と回っていた。




 手術は、夜明けまで続いた。

 あの時仁はわたしを突き飛ばしたらしい。左腕で。

 仁の命とも言える左腕は、わたしの身代わりになったことになる。

 わたしは手術室の前で祈り続けた。ただ2つのことを願う。

 


 神様――

 わたしにできることなら何でもしますから――

 どうか仁が無事でありますように――

 どうか仁から、夢を奪わないで下さい――



 仁の両親は、一言もわたしを責めなかった。

 事故だった。それはそうだ。どう考えても相手の車の信号無視。それは事実。

 でも、仁はわたしのかわりに事故にあった。それもまた、動かない事実。

 わたしが左右をもう少し注意していれば、こんなことにはならなかった。

 その事実が呼び起こす罪の意識がわたしを苛んだ。

 手術が終わって、仁が運び出されてきてもわたしは泣かなかった。

 泣くことは許されていないと思った。涙で悲しみを、この罪を流してしまってはいけない。絶対に。



 手術は成功、命は取り止めた、と聞いてわたしは胸を撫で下ろした。

 けれど――



 左手首が深刻だったと聞かされて、わたしは息を呑んだ。

 医者は言った。

 リハビリすれば、日常生活に支障はほとんど残りません。

 ――ただ、もう野球はできないでしょう。



 その言葉に、わたしは奈落へ突き落とされた。

 わたしが仁から、野球を奪った。

 罪の意識は先程までとは比べ物にならないくらい大きくなった。

 それでも、わたしは歯をくいしばるように、涙をこらえた。

 涙で流してしまってはいけない。この罪を、身体に、心に刻みつけなきゃいけない。

 

 仁と面会できるのは翌日とされ、わたしは一旦家に戻った。

 学校は休んだが、一睡もできなかったし、何も手につかなかった。

 翌日朝一番で再び病院を訪れ、個室に入るとそこには、左手をギプスで固め、ベッドで寝ている仁がいた。

 わたしが来たことに気づくと仁はこちらを向いて、ゆっくりと言った。


「澪、怪我はないか?」


 その言葉に胸がつまりそうになった。

 わたしが頷くと、彼はニッと笑ってみせた。 


「俺もすぐにリハビリして、復帰するからさ」


 その言葉に、わたしは耳を疑った。

 わたしはもう野球はできない、と仁に言わなくてはならなかった。

 でもわたしが医者の言葉を伝えても、仁はぶれなかった。


「大丈夫。絶対何とかしてみせる」


 仁は奇跡が必要なら、奇跡を起こしてやる、と言った。


 頼もしかった。仁がそう言うと、わたしも信じることが出来た。

 罪の意識はなくならないが、前を見ることが出来た。


 わたしたちは医者の宣告を超えて、奇跡を起こすべくリハビリに励んだ。

 医者が驚くほどのスピードで、仁は回復していった。

 奇跡の端を、確かに掴んだ。


 けれど、望んでいた奇跡は起きなかった。

 掴んだと思っていた端は、するりと手の中を抜けていった。


 ――神様が叶えてくれた願い事は、1つだけだった。


 


 ドラフト会議の日。

 仁はその日を、病院の検査入院で過ごした。

 左腕は治っていない。腕は動くが、握力が戻らない。

 物を掴むところまでは治った。それだけでも驚異的なスピードだと言われた。

 でもそれじゃ、ダメなのだ。それでは、足りないのだ。

 夢へつながる道へは、戻れないのだ。



 ニュースでドラフトの結果を見てから、仁はテレビを消した。

 ちょっと一人にしてくれ、と言われてわたしは病室を出た。

 夕暮れ時の病院の廊下は、珍しく誰もいない。

 ドアに背中を預けて、窓から夕日を見るともなしに見ていると。



 嗚咽が聞こえた。

 仁の病室から。



 チームメイトに恵まれず負けてしまっても、泣かなかった。

 最後の大会で、念願の甲子園に行けなくても、泣かなかった。

 わたしのせいで怪我をしてしまっても、泣かなかった。

 いつでも、前向きだった。希望を信じて疑わず、目標に向かってぶれなかった。


 ――その仁が、泣いている。


 わたしは全身の力が抜けて、座り込んでしまった。

 立てていた誓いは、もう守ることは出来なかった。


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――


 

 涙と共に謝罪の言葉が溢れてくる。

 一度決壊したものは、止められなかった。

 聞く人のいない謝罪が繰り返される。

 

 わたしのせいで、仁は怪我をした。

 わたしが、仁の夢を奪った。

 仁は、とうとう崩れてしまった。奇跡が起きないことを、理解してしまった。



 ならせめて――

 ならせめて――神様が叶えてくれたものだけは。

 仁の、命だけは。

 失わないようにしなければいけない。

 


 これからわたしは、仁から野球を忘れさせなければいけない。

 仁が野球のない人生を過ごしていけるように。澪標として。

 夢を追いかける彼をサポートしてきたように、身を尽して。

 わたしの名前、そのままに。

 


 次の日から仁はわたしを避け始めたけれど。

 わたしは気づかない振りをして、追いかけ続けた。

 そうして、命こそ絶たなかったが、毎日を無気力に過ごし。思い出したように時折走りに出るようになってしまった仁は、逃げるように街を出た。

 わたしは、それを追いかけた。親も、友人も、将来も。

 すべてを捨てて、仁を追いかけた。



 ――彼から野球を、消し去るために。

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