「普人」天麻の声がする。

 初めて名前を呼ばれたな、と思った。

 天麻はこの世に対する怨念だ。多くの怪異が、人間が、社会への恨みを募らせている。有象無象のその中で、ようやく普人は個体として認知されたのだ。

「私は、今後も君に仕事を提供できる」

「……おかしな事件のなんでも電話相談員だろ?」

「そうだ」

 普人は力なく笑った。

「私は怪異が生んだ人類社会に対する怨念だ。だから先ほど言ったように、私は君でもある」

 天麻は普人をじっと見て、話を続けた。

「君の中にも私がいる。社会が異物を排除することへの激情が……そして、それはどうしようもならないという諦観が。そして、排除とともにある進化に恩恵を受けているのだという自覚が。それでも、我々は我々自身で、その存在を認めることができるはずだ。社会の中の異物として、ずっと存在し続けることができるはずだ」

 普人はようやく理解した。

 そのために、この仕事があるのだ。世の中の化け物から電話がかかってくる。彼らを納得させるというのは、彼らをありのままこの社会に置き続けると言うことだ。流れていく時代の中、異物を異物のまま存続させる――それこそが、煌びやかに上昇を続ける人類に対する、彼のたったひとつの反抗なのだ。

 おかしくてなにが悪いのか、そう叫び続ける。

 普人はうなだれて、それから言った。

「まー、一件につき百万円なら悪くないけどさあ」

 普人の言葉に、天麻は首を横に振る。

「今後、一切の報酬はない」と断言した。「君は、自分の能力で好きなだけ金を稼げるだろう。もうギャンブルの邪魔はしない」

「やっぱりあの落馬、天麻さんの仕業だったわけ」

 普人は恨めしげな目で天麻を見た。一方で、自分の馬を見る目がが間違っていたわけではないことには安堵していた。ただ、自分の判断を超える存在について、思いが至らなかっただけである。

「君がこの仕事に適しているか判断をするために、必要だった」

「それで、合格だった?」

「当然だ。君はよくやってくれている」

「それはどうも」

「できれば、今後も君のような協力者がいてくれたほうがいい」

 協力者、ときたか。普人は内心そう呟いた。

 普人が怪異のようだと言っても、突然妖怪の類になったわけではない。普人は今もまごうことなく人間のままである。

 天麻に協力することは、人類に利をなさない。むしろ、はっきりと害がある行為と表現してもいい。深海で暮らしている静かな怪異ばかりではないことは、今までの電話相談が証明している。人間の事情などお構いなしの怪異、人間の感情を食い物にする怨念、人間を拐かしてしまう者――そういった邪悪を容認する行為だ。

 もっとも、普人が何を選ぼうと、結果は変わらないとも思う。邪悪だと言っても、それは人間からの判断で、彼らにとっての行動はただの生存本能のようなものなのである。

 それに普人の助けがなくたって、彼ら怪異はこれからも存在して、また新しく生まれてくる。いくら普人が人よりも優れた能力があるとはいえ、そこでなにかを変えられるということはない。それは、普人が嫌というほど経験してきたことでもある。

 返答を考えながら、普人は言う。

「でも、対価がないなら、仕事って言わないんじゃないですかね」

「それは指摘の通りだ。だから」天麻は続ける。「今後は強制はしない。君が自分で決めるといい」

 そのとき、普人を見る天麻の視線は、いつもより数段鋭かった。視線だけではなく声色もひどく真剣で、なにからなにまで普人を射貫こうとしているようだった。

 天麻という男のことが、今は少しはわかる気がした。

 いや、いままで普人は天麻のことがわからなかったのではない、目をそらしていただけだった。ただ、今はもう、はっきりと見返すことができる。

 不意に視線がぶつかって、天麻は告げた。

「これからのすべて、君の好きにしろ。君は自由だ」

 それだけ言うと、天麻の身体に異変が起きる。いつの間にか、黒い靄が彼の周囲に浮かんでいた。ぎょっとした。黒く広がるなにかに、天麻が飲み込まれているように見えたからだ。

 だが、すぐにそうではないと気がつく。靄が突然現れたのではなく、天麻自身が靄に変化しているのだ。まるで人の形が溶けていくように、天麻の姿は薄れていく。

「えっ、ちょっと、天麻さん……!」

 慌てて呼びかけたが、天麻だった黒い靄はそのまま霧散してしまう。一瞬の出来事で、天麻はその姿を消してしまった。返事はない。きょろきょろと首を回して部屋を見渡すが、人の姿も、影すらもどこにもなかった。

 それは、彼が人間ではないという証明を、まざまざと見せつけられた瞬間だった。

 静まりかえった書斎に、普人はひとり取り残される。

「まじかよ」と、小さく呟いた。

 だがおそらく、天麻は本当に消えてしまったわけではないだろう。姿を隠しただけなのではないか。ただの直感であったが、同時に確信も抱いていた。今もまだ、彼は近くにいて、普人の行く末をじっと見定めているのだ。

 道理で電話の内容も、個人情報も、なにもかも筒抜けなわけである。このような存在相手に隠し事なんてできやしない。 

 今思えば、アパートの部屋まるごとが、まさに天麻を表していた。寝る場所もなく、冷蔵庫も空。生活感の欠片もないくせに、まるで真似事をしているように家具が取りそろえられている。人の振りをしているだけの、なにかだった。

 おそらく、天麻のあの容貌の美しさすら、人間の擬態に過ぎないのではないか。人間の世界は、薄汚い欲望を、美しく整えることで成り立っている。彼はそれを真似ているだけだ。彼の本質である憎しみや苛立ちといった怨念を、美しい姿で取り繕っている。そのほうが、人間社会に混じっている間は過ごしやすいだろう。

 しかし、それでは駄目なのだ。自らの本性を押さえつけて生きていくことなど、永遠には続かない。彼は自分の生まれてきた定めに従おうとしている。ほかの怪異がそうであったように、彼にもそれしかないのだ。

 そしてそれは、奇しくも普人も同じであった。

「……本当にめんどくさいやつだな、貴方は」

 普人は文句を言った。空席だらけの競馬場で隣に座ってきたときから、面倒な男だというのはわかっていたが、一度は口に出して言っておきたかった。どうせ聞こえているのだろう。

 突如、黒電話が鳴り出した。

 普人は頭を掻きながら、廊下へと出た。リビングを通り過ぎて、玄関へ行くこともできる。なんの変哲も無いアパートの玄関は、今の普人にとっては紛れもなく、怪異からの出口である。なにをどう選ぼうが、全てが普人の自由だ。自分の意思で、なにもかもを決められる。

 だから、普人はリビングに入った。はじめの頃は生活感のなかった部屋も、今では様々な物が置かれている。メモなど仕事に使う物から、マグカップ、文庫本、寝袋などの普人の私物まで。まるで自分の部屋だった。

 その中でも黒光りしているレトロな電話が、存在感を醸し出している。けたたましい呼び出し音は一向に鳴り止む気配を見せない。

 この世に取り残されたなにかから、電話がかかってきている。

 例えば憤怒、例えば嘲り、例えば恐怖、例えば孤独、例えば怨念、誰にでも等しく存在しているはずなのに、似て非なる多数から拒否され、排除され、取り残される。それでも必死に、自分たちは存在しているんだと叫んでいる――そういった激情がかき鳴らしている電話の音が、簡単に途切れるはずもなかった。

 しかし、その音は止まった。普人が受話器を持ち上げたからだ。彼らの声を聞くために、普人は電話をとった。

「もしもーし、こちら電話相談室」

 応答した普人の声は明るい。なんだか妙におかしな気分だった。


《了》

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もしもし、此方おかしな電話相談室 大黒 太福 @otafuku_og

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