雨夜の来訪者

月浦影ノ介

雨夜の来訪者




 伊藤さんの友人に山下さんという人がいた。

 高校卒業後にラーメン店で働き始めて十年、その山下さんが若くして自分の店を出すことになった。

 店は川沿いの通りにある二階建ての一軒家で、一階が店舗、二階が住居になっている。プレハブ小屋を少しマシにしたような建物だが、山下さんの話によると、知り合いの紹介で借りた物件で、賃料が周辺と比べても格別に安いのだという。まずはここで開業してお金を貯め、いずれは立派な店を持つつもりだと彼は言った。

 店の立地は悪くないが、それだけに賃料が格別に安いというのが気になる。いわゆる「事故物件」ではないのかと伊藤さんは尋ねたが、不動産屋の話では過去に事件事故の類は一切ないのだと山下さんは答えた。


 いざ開業すると、味が良いのもあって山下さんの店は評判になり、昼も夜もひっきりなしに客が訪れるようになった。最初は山下さん一人で切り盛りしていたが、やがてアルバイトを何人も雇わなければ店が回らないほど忙しくなった。

 伊藤さんも他の友人を連れて、山下さんの店にちょくちょく食べに行った。いつ行ってもほぼ満席で、いずれ立派な店を持つという彼の夢は、意外に早く実現しそうに思えた。


 それから半年ほど経った頃のことである。

 その日の夜、伊藤さんは山下さんの所へ遊びに行った。翌日は店は休みだ。二階の住居スペースで酒を飲みながら、久しぶりに二人でゆっくり話をした。

 やがて夜も深まり、山下さんがトイレに立った。外は雨が降っている。十月の寂しい雨だ。心なしか肌寒い。

 ぼんやりテレビを眺めていると、外でカンッという甲高い音が鳴った。何だろうと耳を澄ませる。甲高い音は一度きりで終わらず、それからカンッ、カンッ、カンッと連続して響いた。誰かが階段を登って来る足音だった。

 

 実はこの建物には内階段がない。その代わり、金属製の外階段が備え付けてあり、一階と二階を行き来するには、いちいち外へ出なければならないという面倒な造りになっている。

 静かな雨が降る真夜中、金属製の外階段を登る足音が、耳障りな音を立てて響く。足音はやがて二階のドアの前で立ち止まった。伊藤さんが固唾を飲んでじっとしていると、コンッ、コンッと、ドアを二回ノックする音が聞こえた。

 

 壁の時計を見ると、もう午前零時に近い。こんな夜中に誰だろう。山下さんの友人だろうか。まさか新聞や宗教の勧誘ということもあるまい。

 様子を窺っていると、コンッ、コンッとまたドアをノックする音が響く。

 山下さんはトイレからまだ戻って来ない。伊藤さんは仕方なく立ち上がり、ドアの前に立った。

 それが誰であれ、真夜中の来訪者というのは何となく不気味なものだ。見ると鍵は掛かっていなかった。伊藤さんは少し緊張しながらも、ドアノブを掴んでゆっくりと回した。


 恐る恐る開いたドアの向こうに、しかし人の姿はなかった。


 「―――え?」


 伊藤さんはしばし呆気に取られた。金属製の外階段を登って来る甲高い足音と、ドアをノックする音が確かに聞こえたはずだ。慌ててドアの死角や階段を覗き込んだが、やはり誰の姿も見当たらない。

 身を隠せる場所などないし、階段を急いで駆け下りる足音もしなかった。つまり階段を登って来た誰かは、ノックしてからドアが開かれるまでの僅かな時間に消えたことになる。


 十月の雨は音もなく降り続いている。ふいに背筋をゾッと寒気が走って、伊藤さんは急いでドアを閉め、部屋に逃げ込んだ。 

 そこへ山下さんがトイレから戻って来た。

 「どうかしたか?」

 伊藤さんの様子がおかしいのに気付いたのか、山下さんが怪訝な表情でそう問い掛ける。伊藤さんはたった今起きた奇妙な怪現象について話をした。

 「ああ、いつものことだよ」

 伊藤さんの話を聞いた山下さんは、事もなげにそう答えた。

 「・・・・いつものことって?」 

 伊藤さんが問うと、山下さんが「実は・・・」とこれまでの経緯いきさつを話し始めた。


 この建物に入居してから、ひと月ほど経った頃のことだ。そろそろ寝ようという真夜中、ふいに階段を登って来る足音が響いて、それからドアがノックされた。こんな時間に誰だろうと、訝しく思いながらもドアを開けたが人の姿はない。

 その奇妙な怪現象は、それからもときどき起こった。振り返ってみると、それはいずれも雨の夜の出来事だった。雨の降らない夜は、何事もなく過ぎる。何故か雨の夜にだけ、姿の見えない何者かが訪れるのだ。


 「え、それって大丈夫なのかよ。引っ越した方が良いんじゃないか」

 「いや、最初は確かに気味悪かったけど、もう慣れたよ。別にそれ以上、何か悪さをする訳でもないし。それにまた空き店舗を探して引っ越すのも面倒だ」

 伊藤さんの心配を他所よそに、山下さんはそう言って笑った。彼は昔から多少の物事には動じない性格でもあった。今はドアをノックする音がしても、無視しているとやがて止んでしまうという。

 不安は残ったが、本人が良いと言うなら仕方ない。伊藤さんはそれ以上、山下さんに引っ越しを勧めることはしなかった。



 それから三ヶ月ほど過ぎたある日のこと、山下さんが死んだ。

 自宅兼店舗になっている建物の外階段の下で、首の骨を折って冷たくなっているのを、早朝の新聞配達員に発見されたのだった。どうやら夜中に外へ出て、階段で足を滑らせて転げ落ちたらしい。

 

 ―――そして、前日の夜は雨が降っていた。


 その話を聞いたとき、伊藤さんは「・・・連れて行かれた!」と思ったそうだ。


 あの雨夜の来訪者は、きっと山下さんを「迎え」に来ていたのだ。雨が降る夜ごとに“それ”は訪れ、そして山下さんはとうとう本当に連れて行かれてしまった。

 こんな結果になるなら、もっと強く引っ越しを勧めるべきだったと、伊藤さんは今も後悔し続けている。

 

 主を喪った建物は、その後しばらくは空き家のまま放置されていたが、やがて取り壊されて更地になったという。



                  (了)

 

 

 

 

 



 

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