海水浴

友未 哲俊

海水浴

           波下の独りぼっちを砂に聴く


 波の下に屈み込むと砂の音だけが待っている。海水浴客たちの賑わいも頭上の物音もたちまち消え失せて、世界から忘れられた直也なおやの耳元に、足裏で触れあう小砂利たちのささやきだけが、静けさを連れて響いて来る。波に身が揺られるたび、砂たちもさらさらと舞い散っては、すぐにまた落ちならされる。水深はせいぜい1メートル。なのに、独りきりになった寂しさと、見知らぬ世界への秘かなときめきは、数年前の夜、叱られて家出したあの時の心細さと少しも変らない。そして、いつまでもこうしてひそんでいることができないのも、昔と同じことなのだ。生きるためには呼吸しなければならなかったから。

 水面から顔だけ上げると、元通りのまぶしい世界がそこにあった。潮の味、はしゃぎ合う子供たち、陽のかけら、笑い声、水がはね、ゴムボートに飛沫しぶく音 …。首を持ち上げて見回せば、波の間に青い虚空と入道雲が低く見え隠れして揺れ続けている。

 立ち上がるといつの間にか隣に母がいた。

「ナオちゃん、父さんたちは?」

「あれじゃない?」

 それとわかる二つの姿が、砂浜から突き出た向こうの小さな突堤の端で、背を丸め、海面に向ってまっすぐに両腕を伸ばした体勢かたちかしいだまま、何かを話している。

「あいつ、飛び込みを習ってるんだ …」

 弟の達也たつやは、直也とは違って活発な性格たちの、父親っ子だ。

 母は微笑んで、視線を直也に戻す、

「ナオちゃん、また背が伸びた?」

 言われてみれば、確かに、並んだ母の浅白い両肩が自分のそれと同じ高さにある。きょうはいつものように見上げている感じがしないのが不思議だった。

「あそこでカップルがふざけているでしょう、あの水玉のビーチボード」

 母が注意を促す。

「あの少し先のあたりから急に深くなっているから気をつけて。水も冷たかったわ」

 直也は家族の中では一番泳ぎが下手だった。それでも、全く泳げなかったわけではない。クラスにはもっと下手な生徒も何人かいる。

「魚、いた?」

「いるけどすぐ逃げて行ってしまうわ」

 母は額に大きな青縁あおぶちの水中眼鏡を留めていた。

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

 直也は再び頭を沈め、さっきから傍らに浮かせてあったボート代わりの黒いおおきなタイヤチューブの浮き輪を被って両肘に抱え込む。意外そうに母が見た。

「足、立たないよ」

「きょうは調子が良いから」

 母が驚くのも無理はない。浮きのないままうっかり深みに出て、気付いた瞬間パニックに襲われ、藻掻もがきまくってみんなを慌てさせたのはつい先月のことだ。直也が安心していられる海の水位はヘソの辺りまでで、胸の深さまで来ただけでもなんだか身構えずにはいられなくなり、背が立たなくなったとたん、海という得体の知れない何かに引きずり込まれて行きそうな恐怖を覚えてしまう。たとえ足がとどかなくても、プールでなら平気で浮んでいられたのだが、漁師たちが板一枚下は地獄と言い慣わしてきたように、直也にとっては背の立たなくなる不安こそが海そのものだった。


       背の立たぬ深みにあるを海という

   

「じゃあ、私も行くわ」

 ついて来ようとする母を直也は制する。きょうはもう三度、深みで泳いでみた。

「大丈夫」

 それから、思い直し、被りこんだばかりの浮き輪をもう一度、思い切って脱ぎ捨てて母に託す。

「そこで見てて」

 何か言いかけた母をあとに身をひるがえし、深みを目指して波のうしろへ潜って行く。一度だけ振り返ったとき、母はもう、波間で逆光のシルエットになっていて、それが直也の見た母の最後の姿であり、母の見た最後の直也だった。


        浮輪うきを脱ぎ海のうしろへ母を去る

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