忘れ花火

如月トニー

第1話



 それはもう四月だというのに、記録的な大雪が東京の街を真っ白に染め上げた日のことでした。「二人だけの秘密の遊戯」は、唐突な幕切れを迎えたのです。

 初めて「あの人」を見染めたのは、高校生活にも慣れ始めた初夏の図書室でのことでした。図書委員の当番でカウンターの中にいたあたしの前に、「あの人」は現れたのです。最初に好きになったのは指でした。細長く、とてもきれいな形をした指。本を持つ右手。眼鏡をかけ直す左手。一連の仕草が本当にエレガントで、まるで完璧に計算され尽くされた芸術作品のように感じられたのです。

 さらに次の日、「あの人」がバイクで通学しているところを目撃してしまいました。エンジンを切ったバイクを、コンビニの後ろ側の垣根の奥へと押しやるほっそりとした後ろ姿。眼鏡を外し、ヘルメットを脱ぎ、そして再び眼鏡を左手でかけ直す見覚えのあるあの仕草。後で知ったのですが、そのコンビニは親戚の人が経営しているらしく、そこから何食わぬ顔で自転車に乗り換え、「あの人」は学校へと向かって行ったのです。本を好む優等生なのか、バイクで通学する不良なのか。そのギャップに、ミステリアスな魅力を感じました。

 数日後、図書室のカウンターに、再び「あの人」が現れました。他の人に聞かれないように、と、筆談を試みました。


 ーバイクで通学してましたよね?


「あの人」は逡巡したような様子を見せました。それを学校に言いつけようなんて意図はもちろんありません。その意思を示す意味を込め、いたずらっぽく微笑み、そして頷くと、「あの人」は返事の文字を左手で書き出したのです。


 ー学校には黙っててくれないか?


 驚きました。左手なのにも関わらず、それはそれはきれいな文字を書いて見せたからです。この人の書く文字をもっとたくさん読んでみたい、そしてそれを読みながら、このきれいな指が文字を書く仕草を想像してみたい、あたしは強くそう思いました。


 ーあたしと文通してくれませんか?


「ブンツウ?」

「あの人」は、声を出さずに、口だけをそう動かしました。

 自分の要求がどれだけ古風なことであるか、自分でもよく分かっていました。そして彼の反応は、それを再認識させるのにじゅうぶんな力を持ってもいました。そうだとしても、彼の文字には、あたしにそうさせるだけの計り知れない魅力を持っていたのです。


 ー先パイの書く字、とってもキレイなんでもっと読んでみたいんです。してくれるならバイクのことは内緒にします。

 ーオーケイ。ただしこの事は他の人たちには黙っていよう。このケータイ全盛の時代に文通なんてなんだか恥ずかしいし、「二人だけの秘密の遊戯」にしようよ。


 この約束を、あたしは密かに裏切ってしまいました。小・中学校を共に過ごした後、別々の高校に通うようになった親友の琴子にだけ話したのです。「良かったじゃん。上手くいくといいね」と、琴子は言ってくれました。

 お互いの好きな小説や音楽、趣味などが、当初の主な話題でした。話題は更なる話題を呼び合いました。次第に増えてゆく美しい文字が書かれた手紙という名のコレクション。誰も知らない宝箱の鍵のありかを、あたし一人だけが知っているかのような秘めたる満足感。あの頃のあたしは、心の奥底から本当に、幸せな気持ちでいっぱいでした。

「あの人」と知り合ったことで、未知の世界への扉が開かれました。今までまったく興味を持っていなかった車やバイクに、強い好奇心を抱くようになったのです。

「バイクは危ない。女は乗るな」

 という父の古臭い、としか思えない反対を押し切り、あたしは教習所へと通いました。やがて中型の免許を取得。そしてその頃にはもう社会人となり、車に乗るようになっていた兄から、ホンダのバイクCBR400を譲り受けました。ただし、ヘルメットだけは新品を買いました。まだ誰も被ったことがない、アライの白いヘルメット。安全運転を見守ってもらえるようにと願いを込めて、そこへ「あの人」の名前を黒のマジックで小さく書き込みました。そして誰にも分からぬよう、ピンクの大きなハートマークのシールを上から貼り付けました。

 免許を取ったと手紙に書くと、一緒にツーリングへ行こうと誘われました。二人だけで待ち合わせ、諏訪湖を周回、たったそれだけ。好きだと言われたわけでもないのに、あたし、完全にのぼせ上がっていたのです。

百目鬼おうめきさんから手紙が来ると、不思議と筆が進むんだ。百目鬼さんの手紙には、なにかこう、返事の手紙を書かせるフォースがあるように感じるんだ」

 あたしが作ったお弁当を食べ終えると、「あの人」は自分の好きなスターウォーズの言葉を使ってそう言いました。

「あたしも、同じことを感じてました。先輩の手紙は話題の運び方が上手で、負けたくない、あたしももっと上手く書かなきゃって気持ちになるんですよ」

「こういう感覚って、俺たちだけなのかな? もしそうだとしたらそれこそフォースだ。まあでも、いまどき文通してる人なんて皆無だろうし、確かめようがないよな。人に話すのも恥ずかしいし」 

 帰り際、とても寂しくなるような報告を受けました。高校を卒業したら、東京の会社へ就職すると聞かされたのです。そんな「あの人」に、これからも文通を続けて欲しいと、強く要求しました。そして何より、高校を卒業したら、あたしも上京したいと、強く激しく思うようになったのです。やがて三年生の「あの人」の姿を校舎で見る機会は、次第に減っていきました。

 文通という、ものすごく切れやすい細い糸を繋ぎ続けるため、あたしは必死でした。引越しの資金を貯めるため、アルバイトにも精一杯取り組みました。しかし、東京から月に二、三回くらいの割合で、よりにもよって男性から手紙が届いていることを、家族に隠し通すなんて出来るわけがありません。父から、上京を強く反対されました。

「お前の目的は東京で働くことでも生活することでもない、文通の男だ。そんな不純な動機で東京へ行って成功などするものか」

 父の言うことは全くその通りでした。しかしその通りであればあるほど、あたしは父に逆らってしまうのでした。大喧嘩を繰り返し、家出同然でやってきた東京。しかしこのときの父の予言は、卒業から二年後の春、あの記録的な大雪の日に、現実のものとなってしまったのでした。



   2



「長野に、帰ってくれば?」

 あたしのことを心配し、東京のアパートに琴子が遊びに来てくれたのは、ゴールデンウィークの日のことでした。

 レカロのフルバケに取り換えたため、余ってしまったホンダの純正シートに腰かけた琴子は、ハーゲンダッツをアイススプーンですくいながら言いました。

「なにも今すぐに仕事を辞めて戻って来いって言うわけじゃないの。まあ長期的に見たらその方がいいと思うんだけど」

「お父さんに啖呵切ってまで飛び出してきてるのに、今さら帰りづらいんだよね」

「気持ちは分かるけどさ、だったらこっち戻ってからも一人で暮らせばいいんじゃない?」

「確かにね」

 あたしは曖昧に呟きました。

「ところで夏のことなんだけど…」

 琴子の切り出したこの話が、あたしの帰郷を決めさせました。

「…バスケ部のOBで、打ち上げ花火を作る会社に就職した人がいるのよ。花火職人になる修行ってけっこう大変らしくてさ、五年ぐらい下積みしてようやく、自分の花火を作ることを許されたんだって。で、そのOBの作った花火が今年の夏、諏訪湖で上がるのよ」

「それって八月十五日の夜にやる諏訪湖の花火大会の話?」

「違う違う。夏になると毎日二十分ぐらいあがるじゃん。あっちの方よ…」

 食べ終えたハーゲンダッツのカップを床に置くと、モモステに取り換えたため、やはり余ってしまったホンダの純正ハンドルを握り、琴子は車の運転をするときの仕草をし出しました。まるでゲームセンターで車のゲームをする少年のような姿に、あたしは少し笑ってしまいました。

「…でね、バスケ部の先輩でけっこうお金持ちの人がいて、その人諏訪湖を一望できる丘に広い庭のある家を持ってるの。そこでバーベキューしながらその花火を見ようって計画があるの。キヨちゃんも来ない?」

 ホンダの純正ハンドル越しに、琴子はあたしへ微笑みかけてきました。

「でもあたし、琴子の高校のOGでもなけりゃバスケ部でもないし、関係ない人が行ってもいいのかな?」

「大丈夫だよ。みんな花火とバーベキューに夢中で、部外者がいるなんて気にしないだろうし、幹事にはうまく言っとく。で、あたしが何を言いたいかっていうと、キャンプファイヤーもやる予定なのよ。どう? あの人から来たその手紙、全部それで燃やしちゃえば? それでもう、キレイさっぱり、あの人のことはみ〜んな忘れちゃうの」

「あ、それ、なんだかちょっとロマンチックでいいかも」

「でしょでしょ。知っての通り十五日にやる本番の花火大会の日って街中すごい人で賑わうじゃん。あの騒ぎの中で好きな人の事を忘れるよりも、こじんまりとした花火で忘れる方が風情があっていいと思うの。で、全部キャンプファイヤーに焚べたら叫ぶの。『お前なんか峠で事故って死んじまえ! 女の花は短いんだ! あたしの青春を返せ〜!』って」

「いやそれじゃ周りから変な人だと思われるし」

「いやそれは冗談だけどさ」

「冗談言ってるようにはとても見えなかったんだけど」

 そう言って、クスリと笑うあたしに、なぜ笑うのかまったく分からない、と言わんばかりに琴子は首を傾げました。

「分かった。夏になったらいったん帰るよ。あたしね、一度でいいからお洒落なホテルでも取って何日か一人で引きこもってみたかったんだ。なんだかセレブな気分に浸れるんじゃないかなぁ、って」

「あたしの家に泊まればいいじゃん」

「琴子お盆も仕事でしょ。琴子がいない家にあたしだけいるって変じゃない、琴子の親に気を使うのも嫌だし。そういや話変わるけど、テレビ見た? 桧山美加、髪の毛バッサリ」

「見た見た。でもあれ絶対化粧品のCMは減るだろうね」

「あ、あたしも同じこと思った。とにかくさ、あれ見たらあたしもまた昔みたくショートにしたくなっちゃったの。いまどき失恋を理由に髪を切るなんてダサいかも知れないけど」

「別にいいんじゃない。だって髪を長くしてたの、あの人が長いの好きだったからでしょ」

「あ、バレてた?」

「もちろんバレバレ。メイクもさ、もうちょっとナチュラルな方がいいと思う。東京に来てからのキヨちゃん、なんか無理をしてるように感じるんだよね、余計なお世話かも知れないけどさ」

「確かにそうかも。車のローンだってそうとう無理してた。疲れてることに自分でも気づいてなかったのかもね。あの人からの最後の手紙が来てから、生理まで遅れるし。でもなんだかワクワクしてきた。夏休みが楽しみ。こんな気分は学生のとき以来かも」

 まるで催眠術師がコインを揺らすときのように、琴子は金色のアイススプーンをゆらゆら左右に動かしながらこう言いました。

「きっと二年ぶりの地元は悪くないぞ」



   3



 約束の日。

 八月十二日。

 急遽、見知らぬ男性と待ち合わせることになったあたしは、シャワーを浴び、メイクをしたあと、ホテルのラウンジでアイスティーを飲んでいました。

 昨日、約束通り、琴子から電話がかかってきました。しかしその内容は当初の予定とは少々違ったものになってしまいました。

「キヨちゃんごめん。明日なんだけど仕事が時間かかりそうで約束までにホテルへ迎えに行けそうにないのよ」

「別に構わないよ。あたし車で来てるし」

「本当に大丈夫?」

「あたしこれでも走り屋だよ。心配ご無用。例のバスケ部の先輩の家の近くのコンビニで待ち合わせようよ」

 通話を切った五分後、再び琴子から電話がかかってきました。

「バスケ部のいっこ上の先輩でね、白井健二って人がいるの。アダ名はケンジロウ」

「ケンジロウ?」

「そう、眉毛がものすごくぶっといのよ、北斗の拳のケンシロウみたいに」

「ヤダ何それ、怖そう」

「ううん、怖くない、すっごい優しいよ…」

 なんら躊躇うことなく、快活な声で、琴子は言い放ちました。

「…その人が、明日キヨちゃんを迎えに行くことになったから」

「はぁ?」

「よくよく考えたらキヨちゃんは部外者じゃない。関係者と一緒に来た方がいいと思うの」

「だから、その先輩の家の近くのコンビニで琴子と待ち合わせる約束に変更したんじゃん」

「いいからお願い! 言う通りにして! バスケ部の先輩からも、駐車できるスペースには限りがあるからなるべく同乗するようにって言われてるのよ。それにキヨちゃんと違って車のことには詳しくないからアレなんだけどさ、確か珍しいエンジンのスポーツカーに乗ってるのよ。気が合うと思うの。もしそれでも嫌だったら、自分で車運転するんで先導してくださいって言ってくれても構わないから」

 言われるまでもなくそうするつもりでいました。それにしても、一人ぐらい部外者がいても大した問題じゃないという話はどこへ行ってしまったのだろう。強引で、一度言い出すと聞かないのは昔っからだけど、ちょっと不自然だったな。・・・と、ぼんやり考えているあたしの目の前に、見るからにバスケをやっていそうな、大柄な体型の男性が現れました。履き古したナイキのハイテクスニーカー。ムーンアイズの半袖のツナギ。彫りの深い顔に刻まれた太い眉を見た瞬間、思わず、吹き出しそうになりました。

百目鬼京美おうめききよみさん? 京都の京に美しいで、キヨミさん、ですよね。いい名前ですね、初めまして。白井健二です」

 雄々しい体格や風貌からは、想像もつかないぐらい爽やかで紳士的な挨拶に、あたしは一瞬言葉をなくしてしまいました。

「えっ? 今いい名前、って言いました? 本当にそう思います?」

「思うよ」

「父がつけた名前なんですけど、キラキラネームみたいであまり好きじゃないんです」

「きよみ」ではなく、「きょうみ」と読まれることもしょっちゅうの、あたしの名前(進級し、先生が新しい人になると決まってそう呼ばれました)。それが嫌で友だちにはいつも「キヨちゃん」と呼ぶようにお願いしていました。理由はいたって簡単です。「キヨちゃん」と「きよみちゃん」では、「ヨ」のイントネーションがまるっきり変わるから。もっとも忌み嫌っている「きょうみちゃん」と比較すると、イントネーションはおろか発音まで大きく変化します。効果は更に数倍アップ。

「そうかな、いいセンスしてると思うんだけど。車で来てるんだよね。行こうか」

 はからずとも、彼の方から車のことを言いだしてくれたことに、軽い安堵感を覚えた直後のことでした。ホテルの自動ドアが開いたとき、気まぐれな風が、あたしの鼻孔へ彼のつけている香水の香りを運んで来たのです。

「シャネルのココ、ですよね?」

 広い背中に尋ねました。

「香水のこと? ブランド品だってことしか分からないんだ」

「あたし香水の香りを覚えるのが好きで、百種類以上覚えてるんです」

「すごいなぁ。さすが東京で暮らしてるだけのことはあるわ」

「女性用の香水がこうまで似合っちゃうことの方がもっとすごいですよ」

 金色を基調にデザインされたココのゴージャスな瓶をふと、脳裏に思い出しました。

「香水が似合うとか言われてもますますピンと来ないよ。今日中にどうしても納車しなくちゃならない車があってさ、それを納めてからまっすぐここに来たんだ。風呂に入ってる暇なくてさ、それでとっさにつけたんだ。去年別れた彼女が車の中に置き忘れてった代物でさ、未練があるわけじゃないんだけどこれって高いんだろ? 物はなんでも大切にする主義なんだ。でもまさか名前を言い当てられて、おまけに似合うと言われるなんて夢にも思わなかったよ」

 恥ずかしそうに笑う白井さんに、適度な量の香水が、ほんのりと香るときに感じるような淡い好意を覚えました。

「車関係の仕事してるんですか?」

「そうだよ。百目鬼さんは、車はなんに乗ってるの?」

「あそこの青いS2000です」

「後期型か。シブいの乗ってるね。あれアシ変えてる?」

「はい。ビルシュタインです。あとは前後にタワーバー入れて吸排気系を弄ってるぐらいのライトチューンです。一人暮らしであんまりお金がないんで・・・」

「ホンダは下手に弄り過ぎない方がいいよ。エンジンの完成度は元から高いんだからさ。吸排気と脚を替えればそれでもう十分さ。やっぱりホンダ党なの?」

「はい、ホンダ党ですよ。高校のとき乗ってたバイクもホンダだったんです。CBRの400R。ま、兄貴のお下がりですけどね」

「例の文通の彼氏の影響? ・・・あ、ゴメン、禁句だったかな?」

「別に禁句ってわけじゃ。それに琴子が思ってるほどヘコんでるわけじゃないし」

 ほんの少しの強がりをつけ加えてから、

「琴子から、何か聞いてるんですか?」

 と尋ねました。

「いや、詳しくは聞いてない。もう時効だから喋っちゃうけど、文通していた相手にフラれた、ぐらいしか」

「そうですか。白井さんの車は?」

「あそこの白い・・・」

「FCですか!?」

 彼の指さした方向には、マツダのサバンナRXー7が停まっていました。

「さすが詳しいね。女相手じゃセブンって言っても分からないヤツがほとんどなのに」

「分かるに決まってるじゃないですか。だってあたしイニシャルDの高橋涼介の大ファンですもん。これ涼介と同じ後期型ですよね。でもロータリーエンジンってメンテナンス大変なんでしょう? 年式も古いし。大丈夫なんですか?」

「うちの親父が若い頃、ピカピカの新車で買ったのを免許取ったときに貰ったんだ。親父、車の整備屋を経営しててさ、俺もそこで働いてる。店でいつも完璧にメンテしてるよ。エンジンのオーバーホールも車検の年に必ずやってる。こんだけ大事にされてるFCは世界のどこを探してもないと自信を持って断言しよう」

「すごいですね」

「言ったろ? 物は大事にする主義だって。しかし高橋涼介をこよなく愛する走り屋の女の子か、ずいぶんと分かりやすい話だな」

 そういうと彼は、大きく口を開きガッハハと笑いだしました。

「しかもこれ再塗装もしてますよね。いいなぁ。すんごいキレイ。超まっ白!」

「ところでよ、もし良かったらなんだけど、その文通のこと、俺に聞かせてくれないか?」

 文通という言葉を「あの人」の代名詞のように使う彼に、あたしはニッコリと頷きました。

「あたし、一度でいいから憧れのFCを運転してみたかったんですよ」

「おーし決まりだ。俺の車を、お前が運転するんだ。話は道中聞かせてもらおう」

 エンジンをかけると、心地よいロータリー・サウンドとともにレゲエが流れ出しました。ボブ・マーリーのノーウーマン・ノークライ。・・・初めてこの曲を聴いたのは、上京してすぐの頃、「あの人」の赤いS15(シルビア)に乗せてもらったときのことでした・・・。

「ノーウーマン・ノークライって・・・」

 ・・・ふと、「あの人」の少しだけ掠れた、甘くて高い声が耳朶に蘇りました。

「・・・直訳すると『泣かない女はいない』じゃん。でも、ボブ・マーリーは『女よ泣くな』っていう意味で唄いたかったらしいな。事実、ジャマイカン・イングリッシュでは『女よ泣くな』が正しい訳なんだって。英米の英語に慣れ親しんでいる俺たち日本人には『泣かない女はいない』の方が正しい訳に思えて仕方ないんだけどね」

 二人きりの車内で見た「あの人」のきれいな横顔。まだ見慣れない東京の街の光が、その横顔を、輪郭だけ切り抜いてあたしの目に焼きつけたあの夜。

「曲調やメロディーを聴く限り、『泣かない女はいない』の方が似合う気がするのは俺だけかな。なんかこう、昔を懐かしみながら、今はもう、泣きたいだけ泣いていいよ、みたいな感じ」

 ようやく東京ここまでたどり着いたんだ。キスしてくれたら嬉しいのにな。そんな思いとは裏腹に、手をすら握ってくれなかった「あの人」・・・。

 ・・・ふと白井さんから、

「どうしたの? ボンヤリして」

 声をかけられ、あたしはハッと我に返りました。

「あ、この曲、思い出があったんでつい・・・」

「文通との思い出?」

「はい」

「そうか。まあ、出発しようよ」

 あの日の気分にしっくりくるのはやっぱり・・・。

 半クラの位置を確かめながら、ふと思うのでした。

 ・・・やっぱり、『泣かない女はいない』の方なんだよな・・・。



   4



 記録的な大雪のため、あの日の仕事は定時で終わりました。職場を早々と退散し、家路を急ぐと、ポストの中には「あの人」からの手紙が・・・。それを認めた瞬間、ものすごく強い嫌な予感を感じたことを、今でもはっきり覚えています。手紙を取り出し、鍵を開け、ドアを開いた瞬間、嫌な予感の変わりに、今度は違和感を感じました。あたしの足音を敏感に察知し、玄関にやってきては足元に甘えついてくる飼い始めたばかりの真っ白な仔猫が、なぜかその日は来なかったからです。

 ・・・ひっそりと静まり返った、暗くて狭い、そして冷えきったワンルーム。

 電気を点けると、フローリングの上には、すでに完全に冷たくなっている白い亡骸が哀しく横たわっていました。すぐに動物病院に連絡し、雪の中も構わずに車を走らせました。しかし祈りは、灰色に染まった雪の降る夜の空には届きませんでした。

「まだ仔猫のため、急な寒さに耐えられなかったものと思われます。飼い主の落ち度ではありません」

 病院からの慰めの言葉は、しかし完全に自分の落ち度だと指摘されているようにしか思えず、失くしてしまった命の儚さに、激しく涙しました。

 次の日、生まれて初めて、仮病で会社を休んでしまいました。春の暖かな陽射しに照らされて、昨日までの雪はまるで嘘のように溶け、消えて行きました。

「急に寒くなるのは前の日から分かってたのに。あの日だけはエアコンをつけてあげるべきだった。本当に、ゴメンね。せめて最期ぐらいは暖かくしてあげるからね」

 暖かい陽射しがたっぷりと降り注ぐよう、カーテンを開けた室内で、亡骸を膝に載せながらあたしは独りごちていました。あのときの自分は、きっと心を病んでいたに違いないと思っています。

 更に次の日、すでに雪が溶けきった近所の公園に向かいました。好きだったクッションと、せめてもの罪滅ぼしにとホッカイロを、病院でもらったペット用の棺に納めて木の根の下に埋葬しました。

 「あの人」に、猫の死を伝えようと思いました。けれどもその前に、まずは「あの人」からの手紙を読まなくてはなりません。嫌な予感を感じたことなど完全に忘れていたあたしは、それがまさかお別れの手紙だったとも知らずに、手つかずだった封を切ったのでした。



   5


 

 突然の話で申し訳ない。君との文通をこれ以上続けることが出来なくなった。いずれ君や峠の仲間たちには報告しようと思っていたのだが、実は僕には婚約者がいたんだ。先月から一緒に暮らしている。そしてそれが理由で君との文通を知られてしまった。

「相手は高校の後輩で、走り屋の仲良しグループの一員でしかない。つまり隠そうと思って隠していたわけではなく、むしろやましいものなど何一つないからこそ、その必要があるとは思えず説明しなかっただけなんだ。ささいなことがきっかけで始まったことだった、それが惰性で続いてしまい、気づけば止め時を失ってしまっていたんだ、済まなかった。ただし誓って言う。近いうちに結婚することを報告しようと思っていたんだ、と同時に、文通を終わりにしようとも考えていた」

 ・・・といった弁明を、婚約者は信じてくれた。ただし、もう二度とこんなことをしないでくれと厳命された。この手紙も、今、彼女自身の目の前で書いている。

 もうじきこのアパートも引き払い、もっと広いところへ引越す予定だ。言うまでもないことだが、住所を教えるつもりはない。出来れば、この手紙に対する最後の返事もやめてもらいたい。俺ももう所帯持ちだ。峠を走ることからも卒業しようと思ってる。

 今までずいぶんと長く続いたよな。特に、移りゆく生まれ故郷の景色を伝え続けてくれたことには強く感謝している。心の底から本当に楽しかった。ありがとう。さようなら。お元気で。



   6



「これ本当に読んじゃってよかったの?」

 ナビシートの白井さんは、最後の手紙をヒラヒラさせてそう言いました。

「読んでいいから、いいって言ったんですよ。白井さんがあの人と会うことはないだろうし、字が上手いから好きになった、文通したくなったって証明するのにも、手っ取り早いじゃないですか」

 指がきれいだから好きになったことは黙っていようと思いました。そんなこと、男の人に言ったって分かってもらえるはずがない、と思ったからです。

「しかし字が上手いからって好きになるもんかね」

「それ、左手で書いてるんですよ」

「マジで!? にわかに信じられんな。習字やってるやつでもこんなに上手には書けないんじゃないかってくらいきれいな字だ。ま、なんつーか、悪気はなかったんだろうけど、ヒドイ話だよな。いい人いるならいるって言ってくれたらよかったのに」

「妹みたいにしか、思われてなかったんでしょうね。それに、きっと向こうはあたしのことなんて振ったとすら思ってませんよ。後で峠の仲間たちに聞いたんですけど、誰もあの人に彼女や婚約者がいるって知らなかったそうなんです。文通のことにしてもそうですけど、秘密主義者だったんですよ。むしろ逆にあたしたちが陰で付き合ってるって勘違いしていて、婚約の話を聞いてビックリした人もいたぐらいなんです」

「まあ、こんだけ手紙をやり取りしてたら、知らず知らずのうちに阿吽の呼吸も生まれるだろうし、勘違いされるってのも分からない話ではないな」

「確かめた訳でもないのに、彼女も婚約者もいないと思い込んでたあたしもあたしだったんですよ、しかも五年も、バカみたい」

 再び「あの人」の記憶が蘇りました。ゴールデンウィーク最終日。琴子と花火大会の約束を交わした日の直後。峠のふもとの駐車場で、みんなと立ち話をしていたとき、もう二度と見ることはないだろうと思っていた「あの人」の赤いS15が、きれいなひとを乗せてやって来たのです。・・・きっと結婚の報告をしに来たに違いない、あたしはそう予感しました。

 ・・・あたしの気持ちなんか知りもしないで。

 目が合った瞬間、そのひとは、あたしのことをあからさまに見下すような仕草をしてきました。自分がものすごく見窄らしく、卑しい人間のように思えて仕方がありませんでした。そしてそれは、あんなに好きだった「あの人」のことを、激しく憎んだ最初で最後の瞬間でもありました。

 ・・・よりにもよって、髪を切った直後のあたしだけは見られたくなかった。

 そんな苦い思い出を脳裏から振り払いながら、あたしは次の話題を口にしました。

「それにしても、琴子のことどうもすみませんね。どうせ強引に言われたんでしょう? 心配だから迎えにいってやってくれって。あの子が思ってるほどショック受けてないのに」

 さっき口にしたのと同じ意味の強がりが、再び口をついて出てきました。

「まあね、でも、構わないよ、琴子のそういうのにはもう慣れてるから。高校を出た今も、市の体育館で一緒にバスケやってんだ。あいつポイントガードってポジションやってんだけど、相変わらずトリッキーなパスが多くてさ、ツボにハマると強ぇのなんの」

「バスケのことはよく分からないけど、確かに琴子にはそういうようなところありますよね」

 思わずクスリと笑ってしまいました。

「この手紙を燃やすって発案したのも琴子なんだろ」

「よく分かりましたね」

「分かるさ。どうせ"五年分の思い出を、今夜いっきに燃やすんだぁ!"とかなんとか叫びだすんだろうよ、きっと、賭けてもいい」

「あ! あたしもそう言う方に賭けます」

「あはは、それじゃあ賭けが成立しないよ。しかしよく五年も続いたよな。それもいまどき文通なんて」

「自分でもそう思いますよ。ケータイの番号も、メアドも知ってたのに。不思議ですよね。まあ、そのことにはあまり触れないでください」

 こればかりは、あたしと「あの人」にしか分からない感覚フォースなんだ、という確信めいたものがありました。

「自分から告白しようとは思わなかったの?」

 その声を聞き、いっけんがさつで大雑把なように見えて、実はこの人、本当は繊細な感覚の持ち主なんじゃないのかと思いました。

「思いましたよ。何度も思いました。でも、勇気がなかったんです。いつか告白してくれるだろうって、今思うと子どもみたいな夢を見てたっていうのもありましたしね」

「他の誰かから告白されたことは?」

「ありましたよ。あたし週末はいつも峠で車を走らせてたんで、向こうでは男の友だちの方が多いくらいなんです」

「東京にも峠があったとはねぇ。俺はてっきり東京なんて、ビルと人ゴミだけかと思ってたよ」

「東京って言っても、あたしが住んでるのはだいぶ西の方ですから。ビルや人ゴミなんて駅の近くか東の23区内の話ですよ。畑も田んぼ普通に見かけますし」

「へぇ。そうなんだ。で、告白の話は? 振っちゃったの?」

「はい。他に好きな人がいるんですって、ゴメンなさいしちゃいました」

「がしかし、今となってはもう、東京にいる意味なんてほとんどないってわけか。それにしてもなぜホテル? 実家に帰ればいいじゃない」

「お父さんと喧嘩して、家出同然で東京へ行ったんです。そう簡単には帰れませんよ」

「そんなもんかね」

「親と仲のいい白井さんには分かりませんよ」

「なんでそう思うの?」

「だってこのFCだってもらったんでしょ? お店だって一緒にやってるし」

「そんな表面的なことだけで判断されてもな。背中にスパナぶん投げてやろうかなんて毎日のように思ってるんだぜ」

「そういえば白井さんは? 昔付き合ってた人いたんですよね。どうして別れちゃったんですか」

「知らず知らずのうちに、傷つけてしまったのかも知れない、分からないんだ」

 目をつむり、目頭を押さえる姿が、運転しているあたしの視界の隅に見えました。

「いつかは店を継ぎたい、結婚して子供を作りたい、そういう意味のことを言った数日後、突然言われたんだ」

 つむっていた目を開くと、まるで過去の自分を憎んでいるかのように、真っ直ぐに前を、睨むようにして言い出しました。

「今まで黙ってたけど、あたしは赤ちゃんが出来ない身体なんだ。あなたが望む未来には寄り添えない、ってね。それならそれで違う生き方を二人で探してもいいって言ったんだけど、もう何を言ってもダメだった。他にいい人いると思うって一方的に言われて、残ったのは苦い思い出と・・・」

 FCの、ものすごく狭いリアシートに放ってある瓶を親指で指差し、

「・・・あの香水だけ」

 寂しそうにそう言いました。

「すみません。悪いこと聞いちゃって」

「気にしなくていいよ」

 しかし車内をただよう後味の悪さは、そう簡単には霧散しませんでした。あたしは少し慌てながら質問の言葉を探りました。

「あ、あの、今は? 好きな人いないんですか?」

 白井さんは、どこか遠くを見るような目つきをしながら言いました。

「・・・いるよ」

「大丈夫なんですか? あたしと一緒に車に乗ってるところを見られても知りませんよ〜」

 あたしはわざと、冷やかすような声でそう言いました。

「ん、それなら、大丈夫。その人は少し離れたところに住んでるんだ」

「それならいいんですけどね。そういえば白井さんって、どこに住んでるんですか?」

「松本市だよ。お店兼自宅。俺が小学校に上がる年に親父が建てたんだ」

「それまではどこにいたんですか?」

「諏訪市」

「あたしの実家、諏訪市ですよ。南条保育園のすぐ目の前なんですけど、分かります?」

「奇遇だねぇ! 実は俺、南条保育園に通ってたんだ」

「あたしもですよ。あっ、そういえば白井さんってあたしの一つ上ですよね。白井さんと同じ年の子で、いつも白いリボン着けてた気の強そうな感じの女の子、いませんでしたか? あたしちょっとだけイジメられてた時期があって、その女の子に助けてもらったことがあるんですよ。泣いてるあたしのこと、手をつないで家まで送ってくれたこともあるんです。分かりますか?」

「ああ、面倒見のいいやつだったからな、よく覚えてるよ。俺の初恋の相手なんだ」

「ええ! ホントですか?」

 思わず手で口を塞いでしまいました。

「でも俺さ、その子に好きだったって事を言い忘れたまんま、親父の仕事の関係で松本市へ引っ越しちまってるんだよな。ああでも、懐かしいなぁ」

「なんかだかそれって切ないですよね。ところでその、えっと、その女の子の名前って今でも覚えてます?」

「ん〜とね、穂花ナナ」

「ヤダそれ、AV女優の名前じゃないですかぁ。もお、知らないなら知らないって普通に言えばいいのに」

「せめてセクシー女優と言ってくれないかな、汚らわしい。しかしよく知ってたな」

「いや、あの、兄貴が隠し持ってたのを、その、琴子と二人で・・・」

「汚らわしい、実に汚らわしい」

「あはは、白井さんってけっこう面白いんですね」

「そうかい? あ、次の信号左ね」

 ミラーに写る街のは、時速20キロで動く流星群のように、斜め後ろへ遠ざかっていきました。



   7



 あたりには、夏の夜に特有の、湿ったような芝生の匂いがふんわりと立ち込めていました。虫の鳴き声。たくさんの人だかり。夏祭りにも似た雰囲気にあおられて、自分の気持ちが高揚し出すのを強く感じました。

「よぉケンジロウ」

「よぉ」

「誰その子?」

「琴子の友だち」

「そういやなんか言ってたな。東京へ働きに出てるヤツが帰ってくるから混ぜてやってくれって」

「向こうで色々あってさ、少々デリケートな問題を抱えてるんだ。こっちで勝手にやるからそっとしといてくれや。琴子は?」

「いま会社からまっすぐこっちに向かってるってケータイに連絡があった。焼肉のタレが足りないから買ってきてくれって言っといたよ。その子も食うんだろ?」

「ああ、琴子を通して幹事には金を払っていると聞いている。こっちはこっちで琴子を待ちながら食わせてもらうよ」

 白井さんがあたしの方へと振り向いた瞬間、再び香水が強く香りました。今頃はもう、ラスト・ノートに変化しているはずのシャネルのココ。女性が着けたときとは比較にならないぐらい強く香るバニラ。ああ、やっぱりこの人は男なんだなと、改めてそう強く感じました。

 お肉と野菜が焼けていく香ばしい匂いを嗅ぐと、胃の中を掻きむしられるような強い食欲がわいてきました。トウモロコシにかぶりつき、使い捨てカップに注いだ烏龍茶でお肉を喉に流し込むと、屋外で食事するときにしか味わえない野生的な幸福感に心身が満たされていきました。琴子の言っていた通り、あたしは都会に疲れていたのかも知れない、そう思った瞬間、

「イヤッ!」

 思わず声を上げてしまいました。背後から伸びてきた手に、むんずと胸をもまれたからです。振り向くと琴子がいました。

「うわぁ本当に髪の毛バッサリ。中学の頃に戻ったみたい」

「もぅ、ビックリさせないでよ」

「ごめんごめん。これが例の手紙ね」

 ショッピングモールでもらった紙の買い物袋を見やりながら琴子は言いました。

「五年分か、すごいよね、こんなにたくさん。ついにこの日が来たってわけだ。よ〜し、五年分の思い出を、今宵いっきに焼き尽くすのだ。ファイヤー!」

 天高く拳を突き上げ、少年のように琴子は叫びました。それを見たあたしと白井さんは、二人だけが知る秘め事に、密かに見つめ合う恋人どうしのように目を合わせると、思わず「プッ」と含み笑いをしてしまいました。

「え〜オホン。白井先輩? キヨちゃんとしっとりイイ感じに見つめ合っちゃってるところをたいへん恐縮なんですけれども、キャンプファイヤーの周りの人たちに、しばらく離れてくれるよう言ってくれます? 三人でやっちゃいましょう」

「人払いをするのは構わないけど、俺も混じっていいのかい?」

「せっかくここまで連れて来てもらったんだし、キヨちゃんも、別にいいよね?」

「はい。せっかくなんで最後まで付き添ってください」

 分かった、と言い残し、白井さんは去って行きました。

「どう? 白井先輩。いい人でしょ?」

「うん。心も体も広い人、って感じ。仕事も真面目そうだし」

「キヨちゃん背の高い人好きでしょ? 付き合ってみたら? きっと大事にしてくれると思うよ」

「今日知り合ったばっかりでいきなりそんなことを言われてもな。それに好きな人がいるって言ってたし、・・・って、えっ? な、何? 何をニヤニヤしてるの? あ〜分かった! なんか隠し事してるでしょ!?」

「してないしてない!」

「絶対してる!」

 あたしは琴子を指さしました。すると琴子は、

「あっ、先輩呼んでるよ。早く行こ」

 そう言って白井さんの元へと駆け去ってゆきました。あたしは琴子を追いかけながら、

「あ〜ごまかした。ますます怪しい。ねぇ白井さん、琴子がなんか企んでますよ」

 白井さんに声をかけました。

「企んでなんかないってば〜」

 ニヤけたままの琴子とは対照的に、

「その話は、後だ。まずはそいつを燃やしちまえ」

 キャンプファイヤーの強烈なオレンジ色の光を背景に振り返った白井さんの表情は、いたって真剣そのものでした。

「なんだかな・・・」

 キャンプファイヤーの前に立ち尽くし、あたしは少し、逡巡してしまいました。

「・・・ここまで来といて今さら何言ってんだ、って思われちゃうかも知れない。でもあたし、あの人のことそんなに恨んでも憎んでもないことに気づいたんですよ。あの人がいなかったら、車もバイクも乗ってなかった、東京でがむしゃらに頑張ることもなかった。時間を無駄にしてしまった、なんて思ったこともあったけど、本当は無駄なことなんて何もなかったんだ、今はそんな気もするんです。むしろ逆に、楽しい思い出の方がたくさんあった。燃やしちゃったら、もう二度と、読み直して思い出すことも出来なくなる」

 遠くで花火が光りました。

「貸せよ。代わりに俺が燃やしてやる。ンなもん花火と同じと思えばいい」

 一瞬遅れて、大きな音が聞こえてきました。

「花火って、綺麗だけど一瞬で消えちまうよな。でも、綺麗だと思ったその気持ちさえ忘れなきゃ、花火はずっと輝き続ける。そうだろ?」

「白井さんが言うことは分かります。でも、やっぱり出来ません。あたしの代わりに燃やしてください」

 なかば引ったくるように奪い取ると、白井さんはそのままの勢いで放り込みました。一瞬遅れて、炎が勢いを増しました。

「あたしって、ほんとバカですね。忘れるためにここに来たのに、けっきょく人の手を頼ってるなんて。ああ、でも、あの人のことを好きになって本当に良かった。だってほら、花火がこんなにきれい」

 忘れるために、という言葉を口にした瞬間、両目から熱いものが溢れてきました。

 紙が燃えてなくなるように、花火が光って消えるように、人の想いが失せたりはしません。「あの人」の思い出から抜け出せるまで、まだ後もう少しだけ時間がかかるかも知れない。このときのあたしは、本気でそう思いこんでいたのでした。



   8



「初恋の相手が、少し離れた東京で傷つき、苦しんでいると聞いたとき、俺、居ても立っても居られなくなったんだ。絶対に、なんとしてでも迎えに行ってやりたいと思った」

 高校時代、「あの人」と二人きりでツーリングした思い出の諏訪湖。花火。全てを望むがままに見渡せる小高い丘へとやって来たときのことでした。白井さんは突然、何やら意味の分からない言葉を口にしだしたのです。花火の大きな音と光。ニヤニヤと笑い続ける琴子。甘美なココの香り。そして何より、「あの人」との思い出を意識の外へ押し出し、彼の声だけに全神経を集中させました。何か大切なことを言おうとしている、それだけははっきりと解っていたからです。

「最初、琴子から『百目鬼京美というあたしの友だちを迎えに行って欲しい』というメールが来たとき、少々混乱したんだ。見知らぬ男が迎えに来ても相手オンナは警戒するだけなんじゃないかって。しかしそんな返事のメールを送る余裕はなかった。もう休憩の時間が終わる頃だったからだ。後から聞いたんだが、琴子、連絡のつくバスケ部の相手には片っ端から連絡したらしい。もし俺よりも先に他の誰かと連絡がついていたなら、こんなことにはならなかっただろう。そしてもし、そのときお前の親父さんがうちの店に来ていなかったら、やはりこんなことにはなっていなかっただろう」

 白井さんはそこでいったん話を区切り、ツナギのポケットに手を入れました。そして中からケータイを取り出し、琴子から送られてきたメールを画面に開き、さらにそれを印籠のように見せながら話を続けたのです。

「休憩を終えて店に戻ると、お前の親父さんが店に来ていた。もちろんその時点ではそれが実はお前の親父さんだったんだなんて夢にも思ってなかったよ。いつもの常連さんが来た、といったくらいの感じでしかなかった。でもすぐに、今さっき琴子から来たメールに書いてあった名前と苗字が同じことに気づいたんだ。何せ百目鬼おうめきなんて苗字、滅多にないし見た目にもインパクトあるからね。なにか心に引っかかるものを感じてさ、あまり誉められた話じゃないが、親父さんの車検証に書いてある住所と地図を照らし合わせて見させてもらった。そしてそこが保育園のすぐ目の前だということを確認すると、心に引っかかっていたものが確信めいたものに変化した。で、親父さんに二、三質問したんだ。そして今さっき琴子からきたばかりのメールを親父さんに見せた。すると親父さんは、娘には琴子という名の友だちがいると証言した。だから俺は結論したんだ」

 まるで推理ドラマの探偵が真犯人に対してやるような仕草で、白井さんはあたしを指差すと、いきなり、とんでもない言葉を言い放ちました。

「穂花ナナは、白いリボンなんか着けちゃいない!」

「はあ? 穂花ナナ? 白いリボン? いったい何の話ですか? だいたい穂花ナナってAV女優の名前じゃないですか?」

 さっきまでニヤニヤしていたくせに、急に怪訝そうな顔をする琴子の話を、

「セクシー女優だ」

 とピシャリと遮り、白井さんは話を続けました。

「分かるか? 分かんねーか? まあ、混乱しても無理はない。お前の親父さんですら、俺のことを勘違いしていたぐらいだからな。ただしこう言っていたけどね。白いリボンではなく、白い帽子の女の子、って」

「あ、そういうことだったのね。なんかこの話、二重の意味でビックリ。まさか白井先輩が子どもの頃女の子だと勘違いされていたなんて」

 琴子は興奮しているのか、やけに瞳をキラキラさせながら、あたしの顔を覗き込むようにして言いました。

「白井先輩から、『百目鬼京美って女のこと、俺知ってる。保育園のとき助けてやったことがあるんだ。俺の初恋の相手だ』って電話が来たとき、あたし、とてもじゃないけど信じられなかったのよ。でも『嘘じゃない』って言われて、その証拠にキヨちゃんのおじさんが電話に出てきたの。そこまでされてさすがに信じないわけにはいかないじゃん。で、白井先輩なら安心してキヨちゃんを任せられると思って、おじさんにも東京でのことを話したのよ。世の中にはこんなにも奇跡的で運命的な出逢いがあるんだなって、あたし感動しちゃった。でもまさか、白井先輩が女の子と勘違いされてたなんて・・・」

「二度も言うな」

 白井さんは笑いながら琴子を睨み、再びあたしの方を振り向きました。

「なあ、京美の親父さん、京美のこと心配してたぞ。お前これが終わったら今夜はいったん家に帰れ。親父さんからも『娘を頼む』って言われてるんだ。もしどうしても帰りづらいなら、保育園のときみたいに、俺の運転で家まで送ってやるからさ」

「ねぇ白井先輩、なんだか白いクーペの王子様、気取っちゃってません? しかもなんかいつの間にかちゃっかりキヨちゃんの事を呼び捨てにしてるし」

「やかましい。茶化すな。だいたい俺は今大事な話をしているんだ。少しは空気を読んで二人きりにするとか、せめて少し距離を置くとかするのが普通だろう」

「二人きりにならしてあげたじゃないですか? ところでどうです? 二人きりの車内で、言い忘れていた好きをようやく言えた今の気分は?」

「だからそれが茶化してるって事なんだよ」

「キヨちゃん、やっぱ二年ぶりの地元は悪くなかったね。・・・と、いうわけで、長野に帰って来なよ。今すぐじゃなくてもいいからさ」

「引っ越しなら心配するな。店のトラック使って手伝ってやるからよ」

 あたしが事態を把握した、まさにその瞬間のことでした。彼の背後の大宇宙おおぞらに、たくさんの花火がいっせいに咲き開いたのです。

 乱反射する湖の水面。

 極彩色の光の祭典。

 後光の差した横顔には、言われてみれば確かに、あの日の少女の面影ととてもよく似た優しい笑みが浮かんでいるのを、あたしは見逃しませんでした。

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忘れ花火 如月トニー @kisaragi-tony

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