第9話

背の高いオフィスビルを見上げる私たち。記憶通り、特に変わった様子のないそのビル周辺に対し、私の心中はかつてここを訪れた頃とは一変し、その大部分を不安と憂鬱が占めていた。本当に行かなきゃダメ? ダメだよねそうだよね。いくら避けてもどうせいつか呼び出されるんだろうから。


「えぇっと……ここがリネのバイト先、なの?」

「うん。まぁこうやって来るのは随分久しぶりだけど。普段はリモートで済ませてるから」

「でもここって……」


怪訝そうに首を傾げるルイに、私は付いてくるよう促した。


エレベーターホールでしばらく待つ。壁にはアナログ時計があり、九時を過ぎてしばらく経った今、そろそろ長針と短針が一直線になろうかとしている。ルイが目を覚ましてから一時間ほど。もっと心の準備の時間を取りたかった気もするが、そんなことを言い出したらきっといつまでも先延ばしにしたくなってしまう。私の推測だが、これは片付けるなら早ければ早いほど良いタイプのタスクだ。


小気味よいベルの音とともに降りてきたエレベーターに乗り、四階へ。エレベーター内の鏡には、よれた服を着た暗い顔の私と、心配そうな顔で付いてくるルイが映っていた。せめて私も着替えくらいはしてから来るべきだったかも知れないが……もう知ったことではない。早く片付けないと気が休まらない。


ベルの音。視線を正面へ戻し、開く扉に注意を向ける。そしてこれからすべき行動を頭の中でシミュレーションする。まずは誰でもいいから人を見つけて、社長の居場所を聞き出して……。


「やぁ、久しぶりだね戸村くん」

「……出待ちですか」

「出待ちだよ。わざわざ隠れている必要なんてないだろう? ……それと山守トウカちゃんも久しぶり。これからここではこっちの名前で呼ばせてもらうよ?」

「社長さん! って、え? 二人って知り合い……?」


私と社長を見比べて目を丸くするルイと、それを楽しそうに眺める社長に、私は隠すことなく眉をひそめた。大好きなルイが大嫌いなこの社長と関わりを持っているのをこうして目にすると……だいぶ精神にくるものがある。ため息もつきたいところだが、運が逃げると嫌なのでやめておいた。


「そんな顔をしないでおくれよ。別に僕に悪いことをするつもりはないよ? ほら、この純真無垢な笑みを見てくれ」

「営業スマイルやめてください」

「なんだか僕への態度がどんどん悪くなってはいないかい?」

「自分の胸に聞いてみることですね」


私に言われた社長は胸に手を当て目を閉じる。まさか本当にする人がいるとは思わなかった。……もしかして煽られてる? そして社長はしばらく黙ったあと、


「君はきっと楽しめたんじゃないかい? 僕がセッティングしてあげた、親友との『お買い物デート』を」


そう言ってウィンクをした。私より年上なはずなのにどこかあどけなさを感じる整った顔と、やけに上手なウィンク。発言内容もムカつくが、その姿が様になっていることが何よりもムカつく。自分の武器を理解した人の立ち振る舞いだった。ちょっと顔がよくて、頭もよくて、計算高さを活かして敏腕社長をしているだけのくせに……。


「その件を含めて話がしたくて来ました」

「いくらでも付き合おう。どうぞこちらへ。すでに会議室を確保してある」

「……はぁ」


準備万端な社長に、堪えきれず小さくため息を付いてしまった。どうしてこんなことに。私はただその時々に応じてできる限りの努力をしていただけだったのに……。


▷——


私はルイのことを尊敬している。ルイの明るい性格と何事にも物怖じしない軽いフットワークは、ルイ自身に刺激的な日々をもたらし、それはさらなる明るさの原動力になっている。この好循環は私、特に陰鬱とした自粛生活にくすぶっていたかつての私にとって眩しいもので、心の底から羨ましいものだった。


だから私は、ルイのことを応援するとともに、私自身の生活も省みて、未知の世界へ積極的に足を踏み出すように意識的に過ごしていた。世界はきっと面白いもので溢れているはず。親や先生の「ネットは怖く危ない場所だ」という話に、私はもう囚われない。


SNSから漫画アプリへ。さらにそこから小説投稿サイトへ。そして動画投稿・配信サイトで活動するVTuberへ。流行の最先端にこだわり、必死に食らいついていこうとするその姿勢は、本来の私の消極的な性格からきたものではなかった。すべてはルイからの影響で、私は努めて明るく振る舞おうとしていたのだ。


豊富なパソコン知識。VTuber界隈、ひいては業界への理解。トークやゲームの上手さ。ルイが褒めたものはどれも、本来の私の消極的な性格では身につかなかったものだ。すべてはVTuberの推しを作って、追いかけている中で必死に理解し獲得していったスキルだった。


そう、私は推しを意識的に作ったのだ。多くの人を魅了するVTuberも、私にとって魅力的かどうかはまったく別の話。本来の私の性格では興味を持ちはしなかっただろう。……しかしそれでは何も変わらない。


変えなければいけない。引きこもり続けるのは嫌だ。親や先生に言われるがまま過ごしていた頃に戻るのはもっと嫌だ。何者かになりたい。だからVTuberという流行の最先端に食らいついて、自分なりにそれがどう人々を魅了しているのか咀嚼して、嚥下して、反芻して、血肉にした。私にもなれる「魅力的な何者か」を必死に探した。


結局私は切り抜き動画を作る動画編集者として落ち着いた。充実した生活だ。好きなことをして生きていたら、それが認められて雇われたのだ。充実していないなんて口が裂けても言えない。その頃には、私にできることが多くないことを、ほかでもない私自身が最もよく理解していた。


私が「ハイクオリティよりローコスト」をモットーとしているのは、クオリティを高めようにも限界があることを知ってしまったためだった。タイムアタックのごとく動画を作るほうが、私のような凡愚には向いていた。手の届く範囲でベストを尽くすのだ。手を伸ばすことはもうしない。


だから私は、ルイからの好意に困惑した。ルイが褒めたものはどれも本来の私では身につかなかったもので、多少の無理をして身につけたものだった。褒められることが嬉しくないわけではない。褒められ認められるのは常に嬉しいことで、特にルイからそのように思ってもらえるのは格別だった。


しかし今の私はいわば「本来ではない私」。何者かになろうと、変わろうと意識するほど、今の私が単なる化けの皮に見えてならなかった。化けの皮の下がどうなっているのかは誰にもわからない。だから困惑するしかなかったのだ。ルイはどうして私なんかを? きっと私はルイの思うような人ではないのに。


何者かになりたかった。努力した。けれど限界を知った。だから限界の手前で騙し騙し生きている。好意は嬉しいものだが、受け取ることはできない。そして、これ以上のことは私にはできない。だから……


「……私はVTuberにはなれません」


会議室で並んで座る私とルイ。机を挟んだ向かいに座る社長に、私はきっぱりと告げた。


一期生のデビューから一年と少し。その短い期間で事務所を中堅クラスまで成長させた実績はきっと、予定される三期生のデビューで一気に規模を拡大させようとする野心の礎なのだろう。新進気鋭のVTuber事務所「v9」。その社長の柳沼は、不気味な笑みをたたえていた。


▷——


社長は面倒な相手だ。会話の主導権を握られては堪らない。だから私は先手を打つ形で自分の気持ち——タレントとして活動できないことを告げた。けれど社長は一切動揺することなく、穏やかな口調で返す。


「……どうやら君はこの状況を誤解しているようだ」

「誤解、ですか?」

「まず確認だが、君はこの状況をどう理解している? そちらのトウカちゃん——君にとってはルイちゃん、かな——から事情を聞いたのかな?」

「えぇ。昨夜、打ち明けられました」

「なるほど。であれば誤解も仕方ないか」


社長は、やれやれといった具合に首を横に振った。ルイからの説明では誤解が生じるとでも言うような口調。確かにルイの話は突拍子もない内容だったが、誤解とはなんだろう。それによって私の意見の仕方は変わってくる。


しかしそれでも、私に現状を変えるつもりがないことは変わらない。タレントとして活動? 裏方としてタレントをサポート? 申し訳ないがいずれも無理な話だ。すでにベストは尽くしていて、これ以上のことはできないし、する気もない。仮にできたとしても、嫌々やるようでは現場の士気を下げるだろう。


ふとした様子で社長は首を傾げる。


「しかし、? 君たちは夜まで一緒にいたのかい?」


私とルイの間を行き来する社長の視線。嫌な予感に眉をひそめる私に対し、ルイは話の流れが読めないようで少しおどおどとしていた。


「えっとぉ……あたし何かやっちゃった? 身に覚えがないんだけど」

「ルイ、本当に覚えてないんだね」

「あたし、何をやらかしちゃったの……?」


どうやらあの会話——というより一方的な告白——を覚えていないのは、演技ではなく本当のことらしい。そんなことある? あんなに熱を込めて語っていたというのに……。しかし思い出させるために蒸し返すことはしたくなかった。「あのとき愛してるって言ってくれたよね?」なんて、恥ずかしくて気まずくて、とてもじゃないが言えない。昨夜のことは一人で抱えて墓まで持っていくしかないようだ。


覚悟を決めるために一つ深呼吸。しかし目の前の社長は目ざとく、私たちの様子を見てにやりと笑った。


「ちなみに昨夜のは、君の、せっかくのおしゃれな服がよれてしまっていることと関係しているかい?」

「……なんにもないですよ」

「ほぅ?」

「そんな目で見ないでください」


明らかに疑われていた。というより、すでに社長の中ではある程度見当がついているのだろう。満足したように社長は頷く。あぁ私本当にこの人のこと無理だ。頬でもつねってやろうか。ちょっとくらい引っ張っても不細工にはならなそうだし。


「あわわわ……昨夜のあたし、一体どんなことを!? ごめん、ほんとにごめん。謝るから嫌いにならないで……」

「落ち着いてルイ。別に嫌なことはされてないから」


目尻にうっすらと涙を浮かべるルイを、頭を撫でてなだめてやる。……って、ちょっと待って! どうして私はナチュラルにボディタッチを? 昨日の昼頃の私はルイの隣に立つだけで緊張していたというのに、今の私は頭を撫で、そのまま髪をすいて落ち着かせようとしてしまっている。まさか一晩中くっついていたから距離感がバグってしまった? こんなの、まるで付き合いたての——。


「ほぅ?」

「そんな目で見るなと言っているでしょう!」


にやにやと笑う社長からの視線が気持ち悪いが、こればかりは私にも非がありそうだ。ルイの表情を確認すると……


「っ〜〜!」


顔を真っ赤にしながら思いっきり戸惑っていた。体を縮こまらせ、両手は胸元でぎゅっと握っている。かわいい。でもそうだよね、戸惑うよね。覚えてないんだもんね。小声で謝りながら手を離すと、ルイはこくこくと頷いた。謝らなくて大丈夫だよ、と伝えたいんだろうが、見るからに大丈夫ではない様子だ。これからは気をつけます……。


変になってしまった空気を切り替えようと、こほん、と社長が咳払いをした。


「仲良しなのはいいことだ。しかしそれ故に、ルイちゃんは君について客観的でニュートラルな視点を持ててはいない。ルイちゃんからの説明は、きっと誤解を招くものだったろう」

「何をどう誤解していると?」


社長は、本題である私の誤解について話し始める。そのときになって私は、社長に会話の主導権を握られていることに気がついた。


「僕は別に、君にタレントとしてデビューしてほしいと思っているわけではない。君にはもう少し違ったことを頑張ってもらいたい。……順を追って説明しよう!」


社長はにこやかな笑みでそう告げた。あぁ、面倒なことになってきた。

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