第8話
あたしがリネと知り合ったのは今から三年半ほど前。SNS上でのこと。第一印象は、「よくわからない人」でした。
なぜフォローされたのかはわかります。そのアカウントからフォローされたことを示す通知のひとつ下には、そのアカウントからとある画像付き投稿へリアクションが送られていたことを示す通知がありました。スイーツ作りに挑戦したら消し炭にしてしまったことをつぶやいたその投稿。あたし的にもある意味傑作だと思えるその暗黒物質の画像は、バズるほどではありませんでしたが平時の投稿よりはずっと拡散されていました。その投稿であたしを知ったことは明らかです。
わからないのはその人の素性。名前は「リネ」と、自己紹介文は「自粛で暇なので始めてみました」とだけ。必要最低限といった感じで、何歳くらいなのかも、何が好きなのかもわかりません。明らかに変です。アイコンは、どこかのアイコンメーカーで作ったようなもの。そのアイコンからわかることといったら……。
「かわいいかも。でもなんか……堅物?」
黒髪黒目でワイシャツ姿の女の子。よくできたアイコンメーカーでは、髪色や瞳の色を変えられるのは当然で、その上で髪型やポーズも変えられたり、ケモミミを付けることもできちゃったりします。しかしそのアカウントのアイコンは、そういった遊びを一切していない、現実にいてもおかしくなさそうな女の子。まさか現実の自分をモデルに? いかにもネットに不慣れな人のしそうなことだけど……。
「投稿は……すごい。当たり障りないことしか書かれてない」
あたしは彼女(もしかしたら彼?)の直近の投稿を見てみます。
『今日は全国的に晴れだそうで、私の住むところも晴れ渡ってすっきりとした様子です。外に出ることができたら、きっと気持ち良いことでしょうね』
「なんかおばあちゃんみたいな文章……。青空の写真とかは撮らないんだね」
『窓辺で日向ぼっこをすることにします。これは外出ではないので、不要不急でも問題ないはずです。不要不急の日向ぼっこです』
「それはそうだね。必要に駆られて急いで日向ぼっこすることは普通ない」
『暑くて目を覚ましました。誰ですか、窓とカーテンとの隙間で寝落ちしたのは』
「リネちゃんだと思う」
投稿を読んでも「よくわからない人」という印象は覆りませんでした。年齢も性別も趣味も悩みもわからなくて、これからどういったことを投稿しそうなのか予想もできません。でも……なんだか面白いかも?
あたしは一連の投稿にリアクションを送り、そのまま「フォロー」と書かれたボタンもタップしました。画面の端では、そのアカウントのフォロワー数表示が0から1へ変化します。どうやらあたしが初めてのフォロワーだったようです。よくわからないけど、なんだか得した気分です。
▷——
あたしがSNSにつぶやくと、「その度に」と言ってもいいくらい頻繁に彼女(もしくは彼)からリアクションを貰いました。何が彼女の琴線に触れたのかはわかりませんが、あたしが面白いと思ったことを喜んでくれるのは素直にうれしいことです。
そして、彼女の投稿にはあたしが、毎回と言ってもいいくらいリアクションを送っていました。いつまで経っても彼女がどこの誰なのかはわかりませんでしたが、タイムラインから覗く彼女の生活は緩やかで心地よいものでした。
もしかすると彼女は、現実の自分を詳細にはネット上に書かないよう気を遣っていたのかもしれません。何かトラブルに巻き込まれては大変で、もしものことは起こってからでは遅いものです。天気や地震についての投稿からは居住地が絞り込めてしまいます。年代がバレるような話題や、職種がバレるような話題もあります。用心するに越したことはありません。
……だからあたしは彼女が初めて見せた自我に驚き、心配になり、初めて話しかけに行ったのです。
『やることがなさすぎるのも考え物だね。このまま腐っていてはあの実家に連れ戻されてしまう。なんのために大学受験を頑張ったっていうんだ』
▷——
SNSのダイレクトメッセージ機能からチャットアプリへ、そしてチャットアプリ上の音声通話へ。あたしは彼女との距離を一気に詰めます。彼女のたった一人のフォロワーとして、彼女の生活を見守ってきたおそらく唯一の人として、あたしは彼女には幸せな日々を送ってほしかったのです。
……そこに、「あたしは彼女にとって特別なんだ」という過剰な自意識があったことは否定できません。ヒロインの危機に駆けつける主人公のような気分になっていたかもしれません。それでも何か行動を起こしたかったというのは確かな思いでした。
彼女は優しくて真面目な人でした。不慣れながらも頑張って通話機能を使ってくれて、文句の一つも言いませんでした。また、彼女の口から初めて明かされる身の回りのことは、どれも実直な彼女の性格を反映したものでした。
過保護な親に縛り付けられるような生活を送ってきたこと。それだけ愛されているのだと納得しようとしてきたこと。それでも限界はあって、一人暮らしを実現するために地元から遠い東京の大学への進学を決めたこと。第一志望に受かり、親に褒められて素直に嬉しかったこと。けれど一人暮らしの実現を動機にしていることに、心の中で申し訳無さを感じたこと。直前になって親から「私もついていく」と言い出され、喧嘩別れのように家を飛び出してきたこと。パンデミックで思うようには大学生活を始められなかったこと。自粛を言い訳に引きこもっている自身の未熟さに嫌気が差し、結局親がいないと何もできないんだと絶望したこと。そして、この日々をいつかの未来から振り返って、笑い話にできることを願っていること。……この日々が無駄にはならないと思えたら、どんなにいいだろう?
一線を越えてネットの世界へ飛び込んだ罪悪感から、彼女はリネ《line》と名乗っていたそうです。本来はそんな罪悪感なんて覚えなくていいはずなのに。SNSくらい好きに使っていいはずなのに。
変に浮いてしまわないよう一生懸命「作法」を調べてから始めたSNSの利用。あのいかにも堅物そうなアイコンも、彼女なりに勇気を出して「遊んだ」結果でした。もうその頃にはあたしは、自分が主人公で彼女がヒロインだとは思っていませんでした。
彼女はあたしのことが羨ましいそうです。よい思い出に根差したハンドルネーム。楽しく過ごすためなら惜しまない努力。「思い立ったが吉日」を体現するかのように軽いフットワーク。……あたしが当然のように持ち、誰もが持っていると信じて疑っていなかったものを、彼女は持っていませんでした。何が彼女の琴線に触れたのか、やっとわかりました。そしてあたしがこれまで無意識的にしてきたことが、いかにグロテスクなものだったのか初めて認識し——。
「泣かないでください。ルイさんは何も悪くありません」
「違うの、あたしは……」
罪悪感からつけられた名前、自分を紹介しない自己紹介文。そしてそれらを「変だ」と断じてしまったあたし。一生懸命に明るく振る舞おうとしたアイコンにも、あたしは「堅物だ」なんて言ってしまいました。当たり障りのないことしか投稿しないのはある種の呪縛によるもので、なのにあたしは彼女の感性を老いたものだと評してしまいました。写真を撮らないのもきっと恐怖感から。今こうして慣れない通話をしながらも、彼女は恐怖に苛まれてしまっているはずで……。
「ごめん、ごめんね」
「そんな……」
通話越しに彼女が困っている雰囲気が伝わってきます。これ以上困らせてはいけません。すぐに泣き止まないと。わかってる。なのに、なのにどうして。
リネのためにあたしができること。それはきっと泣くことではありません。笑ってあげること。引っ張ってあげること。そして、すべてがどうでもよく思えるくらいの温かさで迎えてあげること。
「こんなあたしでもいいなら、そばにいさせて?」
あたしは、相手からは見えないのに頭を下げて願います。なぜならそれは他人に見せるためのものではないから。それはあたしの贖罪で、祈りなのです。
▷——
「うぬぅ。……あれ、リネ?」
「おはよう。よく眠れた?」
かわいらしい鳴き声とともに羽毛布団から顔をのぞかせたルイは、ベッドにもたれるように座っていた私を見つけて首を傾げる。そして目元をこすりながらゆっくりと上体を起こし——
「おはよぉ。寝ちゃってたのかぁ。……って、ちょっと待って。あたしってばリネのことほっぽりだして寝ちゃったの!?」
——途中から、慌てて姿勢を正す。
「あー、うん。疲れただろうし起こすのも悪いかと思って。私は適当に過ごさせてもらってたよ」
「ほんとごめん」
「大丈夫」
ルイはベッドの上で土下座するように頭を下げる。ヨレヨレの服でそんなことをされても、コミカルなだけで全然様になっていない。なんだかおかしくて笑ってしまいそうになる。
しかし笑ってはいられない。私は内心ヒヤヒヤしながら、ルイにいくつか質問していく。
「……それより、さ。昨日の話、覚えてる?」
「はなし……。はなし?」
「プレゼント」
「あっ! えっとその、嬉しかったですありがとうございます大事にします家宝にします!」
「家宝にはしないで。まぁ喜んでもらえたならよかったよ」
一つ目の質問は、昨夜の話に触れたほうがいいかどうか判断するためのもの。昨夜の異常なテンションと早口で語った内容を、ルイ自身はどう思っているのだろう? 目の前でゆるい笑顔を浮かべるルイは、昨夜のことを覚えていない様子。本当に覚えていないのか、フリをしているのかはわからない。でもいずれにせよ蒸し返さないほうが得策かな。
「……それで、今日って予定とかあった? もう八時なんだけど、もっと早くに起こしたほうがよかったかな。大丈夫そう?」
「大丈夫だよ。今日は午後から事務所に顔を出すくらいだから。買ったパソコンとか家電とかが郵送されてくるのも夜だったはずだし。心配かけてごめんね」
「そっか」
二つ目の質問は、私たちのこれからの予定を決めるためのもの。どうやらルイには今日、午前中はなんの予定もないらしい。私が起こさなかったから何かに遅刻させてしまう、なんてことがなくて一安心。そして、私の予定に付き合わせることができそうで好都合。私は三つ目の質問を投げかける。
「よかったらそれまでの間、ちょっと付き合ってほしいことがあるんだけど、一緒に来てくれる?」
「いいよ! リネの頼みならね。どんなこと?」
「バイト先にルイのことを紹介したい人がいてね。きっとルイにとっても得られるものがあると思う」
二つ返事で了解したルイに、私は肝心な情報をぼかした用件を伝える。昨日の様子からして、ルイは私のアルバイトについていくらか関心をいだいているはず。こうやって伝えれば……。
「リネのバイト先!」
子供のように目を輝かせたルイに私は苦笑する。……こんなにわかりやすい性格なのに、どうして昨夜はあんなだったんだろうなぁ。
▷——
昨夜、ルイに抱きしめられた私はしばらくの間されるがままになっていた。頭の中ではとりとめのない様々な考えが浮かんでは消える。どうすればいい? そもそもどうしないといけない? 私が問題としていたものは実際には問題ではなかった。じゃあ何もしなくていい? 何もしたくない……。
私が悩んでいることに気づいたのか、しばらくするとルイは抱きしめる腕を緩め、代わりに私の頭を撫で始めた。「だいじょうぶだよー」とか「ずっとあたしがそばにいるよー」とつぶやきながら。……私の悩みの大半はルイのことだっていうのに。どれだけ抱きしめられても、優しく頭を撫でられても、頬ずりされても、悩みは消えないどころか増えていった。どんどん増えていった。
またしばらくすると、ルイは私の手を取ってベッドへいざない……私を抱きまくらにして寝てしまった。「せめてお風呂に」とか「せめて着替えを」などと言ってはみたが、もうルイは夢の世界に行ってしまったようで返事はなかった。しかしそれでも抱きしめる力は強く、私はずっとルイの腕の中で悶々としていた。
疲れはあったが寝られるような状況ではなく、そもそもこの状況で私まで寝てしまってはきっと大問題だ。だから私はずっと、ルイの力が緩むタイミングを見計らっていて、数十分前にやっと逃れられたのだった。
結局私は一睡もできなかった。昨日の買い物は基本的に立ちっぱなしで、終盤には荷物も増えていた。当然疲れはあり、一睡もできなかった今の私は……。
「(あれ、なんか……意外と元気?)」
あまり疲れていないことに気がついた。まさか眠れはしなかったものの疲れは取れた? 一応ほとんどの時間を横になって過ごしていたわけだし、そういうこともありえなくはない……のか? もしくは——
「(——ルイの癒しパワー、なわけないか)」
ともかく、予想外ながらも元気なのは好都合だ。なにせこれから私は、私が最も苦手とする人のもとへ、すべての答え合わせをしに行くのだから。
私は手元のスマホに目を落とす。
『突然すみません。今日これから事務所へ行ったら会えますか?』
『もちろん』
チャットアプリに表示されていたのは、私からのメッセージに対する社長からの簡潔すぎる返事。そういうとこですよ、私が怖いと感じるの。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます