ボーダーラインを越えて
柊かすみ
第1話
草木も眠る、私も眠る丑三つ時。
「決めた! あたし、VTuberになる!」
唐突にかかってきた通話に寝起きの私がうめき声を上げると、通話相手はそう叫んだ。宣誓したと表現することもできるだろう。その声には確かな覚悟と自信、そしてこれからへの大きな期待が込められているように感じられた。……どれも寝起きには鬱陶しいものだ。
暗い部屋の中、煌々と光を放つスマホの画面を薄目で再確認する。発信者は——ルイ。見るまでもなかったかもしれない。深夜に唐突に通話をかけてきて、変なことを自信満々に叫ぶだなんて、彼女以外の誰がするだろう?
「がんばってー、おうえんしてるー、おやすみぃ……」
「待ってよ、リネ! 起こしちゃったっぽいのは謝るからあたしの決意を聞いて!」
「うー」
大変なことが起きそうだという気配に私の危機察知センサーが反応し、二度寝したい本能とは関係なく眠気がどんどんと失せていく。行かないでくれ、私の眠気。明日の朝は早いんだ……。
「あのねあのね? あたしこれでもオタクでね? MeTubeで動画とか配信とかいっぱい見るんだけど、そこにVTuberって呼ばれてる人たちがいてね?」
「んー?」
私は必死に頭を空っぽにしようとする。考えてはいけない、感じてはいけない。そうしたら目が冴えてしまう。
「ええっと、VTuberっていうのはバーチャルな……キャラクターになりきって活動する人たちで……」
「へー」
落ち着いて深呼吸。大丈夫。心頭滅却すれば火もまた涼しく、彼女の声もまた小鳥のさえずりのようなものだ。実際彼女の声はいかにもほんわかとしたかわいらしいもので、声優にだってなれるんじゃないかというくらい。だから、たとえテンションが多少高くとも……。
「そうなの、すごいよね! まさにイマドキエンタメって感じ。で、あたしもなってみたくなったの! もうエントリーシートとかも書いて、あとは実際に事務所のフォームに提出するだけなんだけど……よかったら志望動機だけちょこっと添削してくれない? あたしってそそっかしいから誤字とか脱字とかしちゃってそうで……」
「んー」
ほら、声を聞いていたらまた眠気がじわじわと……。
「いいの!? やっぱり持つべきものは友だね! ありがと、リネ。……というか、もういっそのこと一緒に応募しちゃおうよ。一緒にデビューしよ?」
「!? 少し待って。何が『いっそのこと』なの。脈絡はどこ?」
「んふふっ!」
私までもが面倒事に巻き込まれる気配を察知し、思わずツッコミを入れると、彼女はとても嬉しそうに笑った。ツッコミどころをあえて作ることによって、彼女は私の意識を夢の世界から引きずり出したのだ。
二人で話すといつも決まって私がツッコミ役に回ることになる。なんだか手玉に取られているようだ。……でもそれも悪くないかな。楽しそうにしている彼女の声は聞いているだけで私も楽しくなってくる。そして彼女のツッコミ待ちは「聞いているだけ」で終わらなくなる。
しばらく、しんみりとした沈黙が流れる。それを破ったのは彼女の、そわそわと期待するような声だった。
「……添削だけでもダメ、かな?」
寝れないよこんなの。だって彼女、私の最推しだもん。
▷——
遡ること三年半。未曾有の公衆衛生上の危機に理想の
しかし当初は、ネットに自分をさらけ出すことに忌避感を覚えていた。幼い頃から親や先生からは「ネットは怖いところだ。危ないところだ」と、耳にたこができるほど言い聞かされていた。嘘がいっぱい、悪意がいっぱい。炎上したら、特定されたら、出会いを求められたら……。
その偏った思想に染められていた私は、ただ少し調べ物をするだけのことにもいちいち緊張感を抱いていた。そして、SNSなんて魔窟で、犯罪の温床だと本気で思っていたのだ。一歩を踏み出して自分の目で確かめたのは、今ではよい選択だったと思い返す。
大変な大学受験やその後の陰鬱とした自粛生活の反動と言うべきか、私はネットにどっぷりとハマった。そんなときに出会ったのが彼女、ルイだった。ハンドルネームの由来はワサビの別名、「なみだ」。高校卒業祝いとして親と行った回らないお寿司で、彼女が最もおいしいと感じたのは、どのネタよりもワサビだったそう。以来、彼女は無類のワサビマニア。
私が彼女のそのエピソードを聞いたとき、妙に納得感があったのを今でもよく覚えている。刺激的で面白そうなものに臆せず近づいていく彼女の性格とも合っていたし、タイムラインから実際に覗く彼女の生活も常に刺激的だった。当時の私にはそれがやけに眩しく感じられて、実際涙を流したこともあった。私にも彼女のような生き方ができたら、と。
親や先生に言われるがまま生真面目に生きてきた私。自粛生活でもネットは怖いところだという話を疑わず、何をするでもなくくすぶり続け、漠然とした不安の中で誰にも助けを求められずにいた私。罪悪感を抱えつつ一線を越えてネットの世界に足を踏み入れた私のハンドルネームは、
けれど彼女は違った。よい思い出に根差したハンドルネーム。楽しく過ごすためなら惜しまない努力。「思い立ったが吉日」を体現するかのように軽いフットワーク。そんな魅力的な彼女に私は憧れ、応援したくなった。推したくなった。
▷——
チャットアプリで彼女が送ってきた志望動機のテキストを読んで、私は苦笑する。
「……なるほど。大雑把にまとめると『新しいものに挑戦したいからVTuberを志望します』ということね」
「そーゆーこと!」
彼女らしい動機といったらない。もうだいぶ目も冴えてしまって、私は千字にも及ぶんじゃないかというそのテキストをすんなりと読み通してしまった。……しかしきっと、「すんなり」の理由はそれだけではない。その文章には惹きつけられるものがあった。
よくまとめられた自己紹介に始まり、この時勢に対する鬱憤の吐露。そんな状況で見つけたVTuberという刺激的な存在。見るだけで楽しい。反応してもらえて嬉しい。人を喜ばせるってどんな感じだろう? そうしていつしか羨望さえも抱くように……。
彼女の人となりを知らない人でも、きっとこの文章を読んだら理解するだろう。彼女は純粋に楽しいことが大好きな、魅力的な女の子なのだ。そして、だからこそほかでもないVTuberを志望するのだ。
彼女のことを密かに推している私は、彼女のこの思いを前に胸が熱くなる。いきなり宣誓されたときには何事かと思ったが、これはなかなかに重大な出来事だ。彼女がこれだけの熱意を抱き、夢に向かって行動を起こそうとしているとは。それを知ることができたのはオタク冥利に尽きるというもの。しかし、だからこそ——。
「でもこの書き方じゃ、VTuberになりたいってだけで別にこの事務所に応募する必要性はないんじゃない? 他の事務所とか、なんなら事務所に入らずに活動するのでもよくならない?」
「うっ……」
心当たりがあったのだろう。彼女は苦しそうに小さくうめいた。
彼女とリアルで会ったこともビデオ通話をしたこともない私だったが、その表情は容易に想像できた。ほんわかとした声でありながらコミカルに反応する様はきっと、VTuberになったときには誰にも負けないチャームポイントになるだろう。だからこそ、私は問うのだ。きっとこのままでは落ちてしまう。
「どうしてこの事務所からデビューしたいの? この事務所は、ルイにとってどういう存在?」
「……初めて知ったVTuberがそこの二期生で。でも当時はそんなに意識してなくって。それとは別に追ってた人がゼロ期生としてそこに移籍することになって。ちょうどそれくらいの時期にあたしが気になってたゲームをそこのみんながプレイするようになって。……それで今日、タイムラインで偶然このオーディションを知ったの。そしたら応募締め切り間近だ、ってあって、居ても立っても居られなくなって」
ぽつりぽつりと零されていく、熱い思い。それを聞いているとこちらの思いもどんどん高まっていく。あぁ、そんなことがあったのか。あぁ、そんなことを感じたのか。
貰った志望動機テキストでは「御社」とだけ書いてあって、その事務所についての具体的なエピソードも書かれていなかったから、どういうところなのか想像できなかった。しかし話を聞いているうちに、彼女にとってそこがどれほど特別な場所なのか、ひしひしと伝わってきた。締め切り間近のオーディションへ応募を決めるくらいだ。
きっと彼女にとっては「VTuberになること」よりも「憧れのあの人たちの仲間入りをすること」の方が、動機としては大きいだろう。だったらなおさら——
「——それを書きなよ?」
「でもただのオタク語りみたいになっちゃうし……」
「きっと大丈夫。私も協力するし、ね?」
そっと背中を押すと、彼女はしばらく黙ったあと、
「……うん、じゃあ出し惜しみせずぶつけてみる!」
自信たっぷり、期待たっぷりの声でそう宣誓した。
推しが夢を叶えようと? そのために私を頼ろうと? よろしい、ならば全力で協力するのみ! 陰鬱とした生活の中で彼女がVTuberに輝きを見出したように、かつての私は彼女の中に輝きを見出して推すことを決めたのだ。さぁ、もっと伝わる文章に添削だ! 彼女がいかに魅力的な女の子か、彼女を逃すことがどれだけの損失か、事務所の人たちに理解させようじゃないか!
▷——
後日、ルイの自宅にて。初めてリアルで会ったルイは、早口で、驚いて固まる私にも気づかないほど夢中になって、予想だにしなかったことを口にした。
「——そしたらその場にいた社長さんがやけに食いついてきて」
えぇっと……?
「——それにリネってば、結構VTuber界隈にも詳しかったんだね?」
それは……。
「——リネの悪いようにはならないはずだから、安心して! きっとうまくいくよ!」
あぁー……。
頭がパンクするような情報量。いつの間にか俯いてしまった私を、ルイはぎゅっと抱きしめた。
「あたしにとってリネはどうでもよくなんかない。だから、あたしは社長さんの計画に加担した。リネをVTuberに仕立て上げて、ずぅっと私の隣にいてもらう、その計画に……。愛してるよ、リネ」
すべてがどうでもよくなるほど暴力的に温かな抱擁に、私は思考を停止し目を閉じた。ただルイを推すだけのつもりだったのに、まさかこんなことになろうとは。
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