言葉の消失と感情の平板化
西しまこ
「ヤバい」は語彙量を殲滅する
先日久しぶりにテレビを見た。
その番組は街を歩いて、食べたり物を見たりして、それを紹介するような番組だった。
何を食べても何を見ても、「ヤバい!」と表現していて、思わず見入ってしまった。
いったい何が「ヤバい」のだ?
食べ物の感想も「ヤバい」。
筆記具の感想も「ヤバい」。
「ヤバい」は万能語のように使われていた。何もかも、「ヤバい」。
「ヤバい」はお前の頭の方だ、とかうっかり口汚く思ってしまった。
最も、この傾向は十年以上前からあって、いいことにも悪いことにも「ヤバい」を使う。そこにはグラデーションの表現はない。あらゆることが「ヤバい」のである。
今の職場に入ったとき、20代後半から30代の人間が「ヤバい」を多用していることに気がついた。なるほど。子どもの頃に「ヤバい」を使っていた世代が大人になって、社会で働いているのだ。
そうしてみると、あのテレビ番組は、ターゲットに向けた言葉遣いとして「ヤバい」を使っていたのかもしれない。つまりは、細かく描写するよりも「ヤバい」一語の方が、心に突き刺さるということなのかもしれない。
また別の番組を見ていたら、スープを飲んで「アジア風ですね。何が入っているのですか?」「八角です」というシーンがあった。わたしにはこの方が分かりやすかった。スープはアジアンテイストで、八角が入っている。
しかし、若者には「ヤバい」一語の方が、シンプルにそのものの良さが通じるのかもしれない。
ちなみに、10代の息子たちは、本来の意味とは違う意味で「気持ち悪い」を使う。意に沿わないとき、腹が立つ事柄に対して、主にマイナス要因に対して「気持ち悪い」を幅広く使うのだ。その言葉の使い方は間違っていると指摘すると、「言葉は変化するものだから、『気持ち悪い』の定義がずれてきただけ。別に変じゃない」と返された。
息子たちを見ていると、YouTube等の動画をよく見ていて、そこから言語を会得しているらしい。「気持ち悪い」の、それこそ気持ち悪い使い方もYouTube等の動画で発信されたものだろうと、わたしは推測している。
言葉は変化する。
それはいい。
だけど、プラスの意味でもマイナスの意味でも、心が動いたあらゆることに「ヤバい」を使ったり、意に沿わないマイナスの事柄全般に「気持ち悪い」を使っていると、言葉は、日本語は、その繊細な色彩を喪失してしまうと思う。本来在るはずの言葉が使われなくなることで消失していき、「古語」となる。すると、感情や情景等を言い表す方法も少なくなり、それは、感情そのものの平板化に繋がるのではないだろうか。日本文化文化そのものも、平板化するのではないだろうか。
わたしはそんなふうに考えている。
ずっと、変な日本語の発信源はYouTube等の動画だと敵のように思っていたけれど、なんだ、テレビだって同じだ。もうどうしようもないなとも思った。
息子が言うように、言葉は生き物だから変化するものだ。それは構わない。
だけど、マスメディアが率先して間違った言葉を発信するのは何かが間違っている、と私は思う。
あらゆることを都合よく「コスパ」とか「タイパ」とかで、一語で表現しようとすると、世界はのっぺりした色彩となり、グラデーションの美しさは消え失せてしまう。
豊かな感情も。
言葉が消え失せるということは、それにまつわる事象も感情も消え失せるということだ、とわたしは思うのである。
了
言葉の消失と感情の平板化 西しまこ @nishi-shima
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