10、(終)
夜道に二つ影が落ちている。私の影と、それより頭ひとつ以上長い影が、街灯の当たり方が変わるごとに伸び縮みする。
私は、永野と二人で帰路を歩いている。
他の三人は使っている路線と駅が違って、同じ駅から来たのが奇しくも永野だけだった。前もそうだったっけと尋ねると、「転職して引っ越したんだよ」と彼は肩をすくめた。なるほど、と返す私に、理菜がこっそりウインクをした。こいつ、と思ったけれど、永野は気づいていないみたいだったから、何も言わなかった。
最後に二人で歩いたのは、高校生の時か。映画甲子園の授賞式の日。私たちは受験生だった。目の前の壁を乗り越えるのに必死で、その先の苦難なんて思いを馳せる余裕もなかった時期。もう十年近く前だ。
「授賞式のこと思い出すな、ふたりで集合場所を間違えたやつ」
永野も似たようなことを考えていたようで、どこかしみじみとそう言った。うん、と相槌を打つ。あの日、私より少し先を大股で歩いていた彼は、今は私と横並びに、ゆっくりと歩いている。少しだけおぼつかない足取りで。
「ねえ、永野。私があの時言ったこと、覚えてる?」
――絵、続けてよ。別にプロにならなくていいから。
あの時の自分の言葉が、ずっと、喉奥に小骨のように引っかかっていた。あれが永野の枷になっていたら嫌だった。だから私は、彼を解放したかった。……もう、絵なんかとっくに描かなくなってるかもしれないけど、それでも。もう、気にしなくていいから、って。自己満足な贖罪でしかないけれど、言いたかった。
「プロになりたいってやつ? 実現させたんだからお前ホントすげーよな」
永野はこっちを見ないまま言った。わかっているのか、いないのか。何も読めない。
「そっちじゃなくて……」私は言いよどんで、「いや、やっぱいいいや」と逃げた。もし忘れているのなら、忘れたままの方がいい気がした。
「ああ……三十までお互い独身だったら結婚しようってやつか」
「は?」
思わず足が止まる。顔をこわばらせた私を見て、永野は耐え切れなくなったように笑い出した。憎々しいニヤけ面。とっくに大人になったはずなのに、いたずらをする子どもみたいな顔をしていた。
「冗談だって。……あら、本気にしちゃった?」
「別に……」
私はうつむいて、鞄の紐を強く握る。手が細かく震えるほど。
静寂。
永野が「あ……」と声を漏らし、それから「ごめん、ほんと、そんなつもりじゃなかったっていうかさ」と早口で謝り出す。
私は力を抜いた。
「冗談だよ。本気にしたの? 永野ってほんと馬鹿だよね」
私は先に歩き出す。
ぽかんとしていた永野も、すぐに私に追いついてきた。
「このやろー、弄びやがって」
「どっちが」と私は鼻で笑う。「反撃を想定してないのが悪い」
「いつの間にそんな小芝居できるようになったんだよおめー」
「まあ、伊達に修羅場くぐってないから」
ははっ、と永野が笑う。どこか力の抜けた、子どもではなく大人の笑い方だった。
「だよなあ……」
永野の声は遠くの方に飛んでいって、ころん、と落ちる。
そのまま駅についた。「じゃあね」「またな」と改札で別れるまで、私たちの間には会話がなかった。
次に会うとしたら、早くて一年後か。その頃には彼はどうしているのだろう、と思う。また新しい職場にいるのだろうか。また新しい人と付き合っているのだろうか。……でも、どうだっていい。他人のことなんか気にしている場合じゃない。私には私のやるべきことがある。
何度も読んだ小説を、鞄から取り出す。例の長編映画の原作だ。
人気な作品だけあって、いい物語であるのは確かだった。ただ、この五〇〇ページ近くある小説を、二時間にまとめなきゃならない。登場人物やシーンの取捨選択がいる。でも小説は、どのシーンが欠けても成り立たないように作られていて、削ぎ落せるような無駄なんてない。下手を打てば原作ファンからのバッシングは免れない。炎上するかもしれない。そうしたら後の仕事にも影響するだろう。
――最初でコケると後にも響くのかねえ……。
あの時、何気なく発されたであろう永野の言葉が、今になって私にも深く刺さる。
メインキャストはすでに決まっている。彼らの持ち味も生かさなきゃいけない。小説で描かれた心情もうまく映像に落とし込まなきゃいけない。セリフもそのまま使えるわけではないから、原作を殺さない程度に、自然に映画用に組み替えなきゃいけない。
これが私の長編デビュー作になる。もう話は進むところまで進んでいる。失敗できないし、逃げられない。悲願を叶えられることより、重圧で窒息しそうな感覚の方が強烈だった。
でも、誰にも弱音を吐けない。吐いちゃいけない。好きなことを仕事にした私に、潰しのきかない選択をして自ら退路を断ってきた私に、逃げ道なんてない。
過緊張ぎみなのか、眠りの浅い日が続いていた。何日もデスクに向かっていたが、脚本の構成は膠着状態が続き、いっそもう本文に着手した方が早い気がしていた。手を動かしているうちに何か煌めきを掴めるかもしれない。家にいても息が詰まるから、原作小説と、アイデアを書き留めた紙の束と、ノートパソコンを鞄に詰めて、外に出た。久しぶりの日差しが眩しい。
気分転換がてら、駅ビルの書店に向かう。中に入る前に、入り口で大きく展開されている、あの小説が目に入った。書店員の手書きのポップ付きだ。帯の「映画化決定!」という文字が、重い。
出版社も本を売るために必死だ。私が新人である代わりに、役者は箔のついた人たちがそろっている。映画も本も、どちらかというと斜陽産業なのは否めなくて、全員が死に物狂いで働いている。
やっぱり失敗できない。監督という肩書は、本当にどこまでも重い。
「あの……亀田さんだよね?」
突然、若い女の声がした。聞きなじみのない声。誰だろう、と思って声の方を見る。顔を見てもぴんと来ないでいると、「私! 覚えてるでしょ?」と女が微笑んだ。
「木村綾音。同じ高校の。……今は木村じゃないけど」
ああ……と気の抜けた返事をするしかなかった。確かに面影はあるだろうか。あの頃よりも少し圭角がとれた、だけど自信ありげな笑み。すっとした体型に、シルエットの出ないワンピースを着ているけれど、おなかのぽこんとした大きさは嫌でも目に付く。
彼女の後ろには三十くらいの男性が立っていた。「誰? 知り合い?」と怪訝そうに聞かれて、「そう、同級生! 映画監督なんだよ!」と彼女は誇らしげに言う。
どういうつもりなんだろう。警戒する私に、彼女は構わず続けた。
「YouTubeにあるやつも見たし、今度もあの小説で映画撮るんでしょ? すごいよね、なんか私まで偉くなった気分だもん」
偉く。
「実は高校生の時からすごいと思ってたんだよ。才能あるって。亀田さんなら絶対有名になるって思ってたもん」
才能。有名。
「好きなことを仕事にできるっていいよね、キラキラしてて楽しそう」
キラキラ。楽しそう。
「あ、そうだ、ツーショとろ! インスタにあげさせてよ」
肩を寄せられ、スマホが内向きに向けられる。「ちょっと、それは……」と戸惑いながらもなんとか制したら、彼女の顔からすっと温度が消えた。
「あ、有名人だから身バレとか怖い感じ? そうだよね、住む世界が違うもんね」
じゃあまた、と彼女が踵を返す。ひらりとワンピースの裾が翻る。夫と仲睦まじげに腕を組んだ彼女の後姿を、私は茫然と眺めている。少しずつ遠ざかって、角を曲がって、消える。
私は彼女と反対方向に歩きだした。気づくと息が上がっていた。エレベーターを待つのもじれったくて、階段を使って一階に降りる。どうか鉢合わせませんように。祈りながら、できる限りの早足で駅ビルから飛び出し、少し行ったところのカフェに逃げ込んだ。外から見えないように内側のカウンターに席をとる。コンセントがこの位置にあることは、足が覚えていた。大学卒業と同時に今の家に引っ越してから、ここはずっと私の安全基地だった。
コーヒーとサンドイッチを頼む。今日はまだ何も食べてない。食べなくちゃ。働くために。生きるために。まもなく店員がお皿を置く。食欲はないけれど、無理にサンドイッチを口に押し込み、水で流し込む。そのうち、目が熱くなって涙が出てきた。こんなことで泣きたくなんかないのに。鼻をすすりながら、意地になったように、サンドイッチにかじりつく。
――好きなことを仕事にできるっていいよね、キラキラしてて楽しそう。
そんな世界じゃない。そんな甘くない。そんな生やさしくない。そんなのは上澄みだけを掬い取ったイメージでしかない。才能なんて言葉で片づけられないくらい、血反吐をはきながら、私はずっと必死に、ここにしがみついてきた。それ以外に私がいられる場所なんてなかったから。
涙は堰を切ったように溢れて止まらなくて、ぼろぼろ流れてきたものがいくつも頬を伝って顎からしたたり落ちた。それでも私はサンドイッチをむさぼり続けた。しゃくりあげる中で無理やり呑み込んだ。
わかってほしいなんて思わない。なのにどうしてこんなに悔しいのだろう。あんな言葉で悔しがる自分すら悔しい。
思わずうずくまりそうになった時。
「なぁに泣いてんの、カントク」と、横から声がした。
永野だった。ビジネス仕様の馴染みのない姿で、彼が隣に座っていた。
――気づかなかった。いつの間にか横に人がいたことも、それが永野だったことも。
「なんで……」
「ん? 外回りの帰り。営業先から帰る前にちょっとサボろーと思ったら、なんか泣きながらサンドイッチにがっついてるヤツがいた。しかも見知った顔。しかもそいつは、いつもすまし顔で、十年以上のつき合いなのに泣いてるとこなんか見たことない。……これでスルー出来る方がおかしいと思うね」
そう、と嗚咽の隙間で答える。いつもみたいに平気なふりをしたいのに、ひどい顔をしている自覚はあるから、今更取り繕えない。
「なんかあったんだろ」
永野がハンカチを差し出してくる。大人しく受け取る。顔にあてると、かすかに柔軟剤の香りがする。うちのとは違うにおい。日向のにおいだ、と思う。それで少し落ち着いた。
「……別に、なんでもない」
「嘘つけ。その仕事で、ないわけないだろ」
偉い。有名。才能。キラキラ。楽しそう。そういう軽薄な言葉が、その一言で流されてくれた気がした。
「ありがと。……でも、話せない」
また私は見栄を張る。「まあ、そうだよな、口外できないこと多いだろうし」と、永野が都合のいい解釈をしてくれたから、私はそのまま何も言わなかった。代わりに、「永野はどうなの、仕事」と話題を変える。
「いやー、いまいち上手くいかないね。就職してからどこ行ってもそうなんだよな。ずっと同じとこ回り続けてる気分。惑星の公転かよって」
「……永野は、惑星じゃないよ」
「へ? どゆこと?」
「……ナイショ」
えー、と永野が口を尖らせる。そのままパソコンと資料を出していると、私が仕事を始めることを悟ったのか、永野はアイスコーヒーを片手にスマホをいじり始めた。私も仕事に集中することにした。小説とメモを見ながら、脚本を少しずつ書き起こしていく。横にある永野の気配も、徐々に気にならなくなる。
脚本は難しい。あんなに大学で勉強をしたのに、筆は思うように進まない。小説がもとになっていると、やっぱり、一から構築するのとは別の難しさがある。しかも初めての長編映画。……改めて、高校生の時、初めて脚本を書いたのに一週間であのクオリティを出してきたひよりのすごさを思う。
手も頭も動かなくなって、集中が途切れてきた。その時ふと、横にいる永野が、メモ用紙にボールペンで何かを書いている気配がした。仕事関係のものだろうか。知らないふりをして画面を見ていたら、彼の手が伸びてきて、パソコンの傍に何かが置かれた。
「やるよ」
彼が差しだしてきたものを、私はゆっくりと手に取った。
絵だった。青いインクを使って、炎を抱いた女の子が描かれている。髪型や顔の特徴は、どこか私に似ている。ボールペンでさっと描かれたものだけれど、間違いなく、永野の絵だった。
「恒星ってさ、青が一番温度が高いだろ。冷たそうな色なのにさ」
懐かしさと、色んな感情と、一気に胸の中で洪水が起こる。私は何も言えずに、絵から目が離せずにいる。
「オレにとって、お前はずっと恒星だったよ。……たぶん、今も」
そう言って、永野はすっと席を立つ。私のぶんの伝票まで持って。
「待って、永野」
「いいよこんくらい。おごり」
「違う」
声が震える。永野が不思議そうな顔でこちらを見ている。
「あの……あの、原爆ドームの絵、描いたの、私だったんだよ、永野……」
勢いのまま口走って、脈絡がなさすぎたかな、と焦った。けれど彼はちっとも茶化すことなく、静かに目を細めた。少しだけくすぐったそうに。
「知ってる」
その一言だけを残して、彼はレジへと向かった。
私だけ時間が止まった。頭が真っ白だった。動けなかった。
永野がこちらに軽く手をあげ、店を出ていく。からん、と軽やかにベルが鳴る。
その瞬間、時間がまた動き出した。私は荷物もそのままに席を立ち、入り口に向かって走った。乱暴にドアを開ける。ベルが激しく揺れ、大きな音を立てる。
「永野!」
遠ざかりつつある背中に、私は叫ぶ。何事かとこちらを見る人がいる。でも、そんなの、どうだってよかった。
彼がゆっくりと振り向く。少し驚いた顔をして。その後、かすかに笑いながら、彼がこちらに歩いてくる。鼓動が速い。息があがっている。また泣きそうになっている。私もぎこちなく一歩を踏み出す。
ちっぽけな、だけど私にとってはとても大きな一歩を。
青い炎が爆ぜた 澄田ゆきこ @lakesnow
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