9、

 卒業の日がやってきて、みんなが正真正銘、別の道へと進み始める時が来た。とはいえ、進学先は全員が関東だ。私・理菜・ひよりはそれぞれ別ではあるけど東京の大学、永野と佐藤に至っては、学部こそ違うものの、同じ茨城の大学に進んだらしい。一応、電車一本で東京まで出れるし、ギリギリ首都圏と言える範囲だ。あのグループで佐藤が合格報告をしてくれたおかげで、みんなが進学先を報告する流れができて、それぞれなんとなく進路を知っている。その点では佐藤に感謝だろうか。

 そして、理菜は約束をちゃんと果たしてくれた。お盆やお正月など、ちょうど中間地点にあたる地元に帰る機会には、必ずあのグループでご飯や飲みの誘いをしてくれた。実現できないこともあったし、私は大学に入ってからは課題に追われ、卒業後もあちこち動き回ってばかりで、参加ができない会も少なくなかった。それでも、たまに顔を出した時には、みんな喜んでくれて、懐かしい顔にほっとしたりもしていた。

 変わらないメンツ。変わらない人柄。それでも少しずつ、時間が経過していく分だけ変わる何か。みんながお酒を飲むようになる。肴になる話が変わる。学生生活が終わり、社会人になる。顔つきが少しずつ大人びていく。

 映画作りのことを、みんながすごく大事に思ってくれているのも伝わってきていた。それはもちろん嬉しかったけれど、やっぱりそれは「思い出」として額縁に入れられて、壁に飾られて、いつの間にか部屋の背景になってしまうようなもので、結局のところ過去形でしかなかった。みんなで映画を「撮った」。私はまだ「撮っている」。その間にある溝が苦しくなることも、時々あった。

 決して侮られるわけではない。むしろ、みんな私を「すごい」と言う。「昔からすごかったもんね」とも。だけどそこにどうしようもなく距離がある。――当たり前だ。こうなることは私が望んだ。みんなが選んだ「普通」を私は捨てた。

 そういう気持ちになった時は、平然としているふりをして、みんなが盛り上がっていくのを傍目に、私は静かにお酒を飲んでいた。この状況も制作のための知見だと割り切ることで、その場をやり過ごそうとしていた。

 どうやら私は酔えない体質らしい。こういう時はそれが憎かった。酔って、そのまま強がりの仮面を外して、みっともなく泣き崩れられたらどれだけいいだろうと思った。大学からの映像制作の想像以上のシビアさも、私より熱量やセンスや技量がある人なんて山ほどいることも、何度も現場で経験したヒリつきも、情けない失敗に浴びせられた白けた目や怒号も、全部を吐き出してしまいたかった。

 私はどこまでも見栄っ張りで、臆病だった。人前で大声で泣けるひよりや理菜の強さを思った。

 二十四になって、大学院に進んだ佐藤も就職をした。これで私以外は全員が正規雇用として定職についたことになる。その年の飲み会は、私は初めて嘘をついて欠席した。「忙しいから」と。

 その時、私はまだ「映画監督」と名乗れない立場にいた。長編映画の撮影助手や編集、短編映画の制作には関わっていたが、自分で長編映画を監督したことはない。この世界にいれば珍しい話ではないし、あのグループじゃそんなことでバカにされることはないとわかりきっていても、私が嫌だった。仕事の話が出るたびに劣等感に潰されてしまう気がした。そんな自分の小ささにも嫌気がさした。

 そうこうしているうちに、私は若手映画監督育成プログラムの参加メンバーに選ばれた。厳しい審査の中で自分が抜擢されたのは嬉しかったが、制作漬けの日々はそれまでよりもずっと過酷だった。今度は本当に忙しくて飲み会どころではなかった。全部が終わってほっとしていたら、次の仕事の話が来た。あるアーティストのMVと、それに付随するショートムービー。それが思いもよらず話題になり、あれよあれよという間に私は「業界の期待の新人」になった。らしかった。

 仕事は絶え間なくやってきた。休みの日も頭を動かし続けているから、休日なんてあってないようなものだった。息継ぎをしたいときに限って、予定がうまく合わなくて、飲み会が流れた。

 それからも淡々と仕事を続けた。そして、初めて、長編映画のオファーが来た。監督だけでなく、構成も脚本も私。原作は人気作家の青春小説。

 初めて映画を撮ってから、映画監督になりたいと口にしてから、およそ十年。やっと「映画監督」に手が届くのか。メールを見て、返信をしても、実感はわかない。

 詳細は知らされていない。夢かもしれない。不安になるたびにメールを確認して、でもこのメールすら幻覚だったらと不安になる。

 不毛な時間の中でくすぶっていたら、通知が来た。

「映画くらげと花火製作委員会」のグループだ。すっかり幹事が恒例になった理菜からの、久しぶりの集合だった。



 その日私は打ち合わせが長引いて、少し遅れて店に入った。座敷から理菜とひよりが手を振ってくれる。佐藤がこちらを見てにこりと笑う。服装や化粧のせいだろうか、みんなすっかり世慣れて、社会人じみた大人の顔になっている。気がする。

 とりあえず理菜の隣に座り、お酒を選ぶ。永野はかなり遅れる予定らしく、先に四人で乾杯をした。店員が去るや否や、理菜がもたれかかってきた。

「ゆーいー! 久しぶりー! ずっと一緒に飲みたかったよお、寂しかったー」

「理菜、もう酔ってるの?」

 引き剥がそうとした私の手を、理菜が強く掴む。

「違うよ。惟ってば『忙しい』『忙しい』ばっかでさあ! こっちは惟の話もいっぱい聞きたいのにー!」

「もう、理菜ちゃん」ひよりが苦笑する。「惟ちゃんも仕事が大変なんだから。私たちみたいにちゃんと休日が決まってるわけじゃないし」

 でもー、と膨れる理菜のまぶたは、パールのアイシャドウで控えめに彩られている。大学生の時はもっときらきらしたラメが乗っていた。大人になったんだなと、思う。

「そうだ、私、そろそろみんなに良い知らせができるよ」

 私が言うと、理菜がぱっと身体を起こした。瞳がまぶたより爛々と輝いている。

「え! それって……!」

「……まだオフレコだけどね。だからここだけの秘密」

 私は唇に人差し指を当てる。佐藤とひよりが顔を見合わせて、ほぼ同時に、晴れやかな顔をこちらに向けた。「おめでとう」と言う声まで揃った上に、二人してちょっと照れていた。それを見て理菜が声をあげて笑っていた。

「努力の賜物だな。本当、すごいよ、亀田さん」

 はにかんだまま佐藤が言う。才能ではなく努力という言葉を使うのが彼らしい。

「うん! 惟ちゃんなら絶対叶えられるって思ってた」

 ひよりの紅潮した頬は、本当に嬉しそうなのを見るに、きっと照れだけではないのだろう。

 みんな、こんなにもまっすぐ私を祝ってくれるのか。本当に、彼らはどこまでも眩しい。

 冷えて硬直していた身体が、内側から温められていくような、不思議な気分だった。

「ありがと。正式に発表できるようになったら、改めてグループでも言わせて」

 もちろん、という三人分の頷きを聞きながら、私はお酒に口をつけた。ほろ苦いアルコールを飲み下すと、炭酸のかすかな痛みが喉でしゅわしゅわ弾けた。

「そうだ、俺、亀田さんにずっとお礼言いたくて」

「お礼?」

 ジョッキをおろす。お礼を言われるようなことをした覚えはない。きょとんとしていると、佐藤はしばらく言いよどんだあと、ゆっくりと口を開いた。

「俺が教師を目指したきっかけ、映画だったんだ」

 初耳だった。「そうなんだ」と驚きつつ返した私に、「もう、惟はホント反応薄いよねえ」と理菜がからから笑う。

 教育実習や採用試験なんかの話も聞いていたし、その後も教職についたことは聞いていた。確か数学だったか。ひよりも司書教諭の資格をとって勤務していたし、「いつか同じ職場になるかもねー」なんて理菜が冗談めかして言っていたのを覚えている。

 でも、そのきっかけが、映画?

 話が読めない。

「俺、文化祭で亀田さんの映像を見なかったら、映画を撮ろうとしなかったら、それで松浦先生にあんなにお世話にならなかったら、教師になろうなんて全く考えなかったから。撮影の後に丹羽さんに数学教えたのも、それで『わかりやすい』って言ってもらえたのも、教えるのが楽しいって初めて思えるきっかけだったし……」

「えー、じゃあ本当のキューピッドはあたしじゃない?」

 口を尖らせた理菜に、「丹羽へのお礼はさんざん言ったでしょ」と佐藤が溜息をつく。

「まあ、要するに……全部繋がってて、根っこには亀田さんがいたってこと。本当にありがとう」

 言葉が、出てこない。声帯が硬直している。それ以前に頭が動かなかった。

 佐藤の中でそんな化学反応があったのか、仕事を、人生を左右するほどの。それを、私が。私の映像が。

「ま、そのおかげで、ひよりとも会えたしねー」

 理菜の声で、我に返る。こちらも初耳だった。「あんたたち式はいつにすんの?」と、理菜が楽しげに身を乗り出す。佐藤とひよりはそろって口ごもる。

「学校、一緒なんだ」

「そう! 今年度から。なんと松浦先生も一緒だって、これは招待するしかないよねえ」

「理菜ちゃん!」

 真っ赤になったひよりが理菜を制すが、テーブルに隔たれているおかげで、理菜は愉快そうに笑うばかりだ。

「まあ、式はそろそろ考えてもいいころじゃない? もうあたしたち、そういう歳なんだし……」

 言いながら、理菜の笑みが苦笑に変わっていく。自分で年齢の話をして、自分でダメージを食らったのだろう。

 アラサー、と俗に呼ばれる歳だ。その気持ちはなんとなくわかる。佐藤も合わせて苦笑しながら、ひとくちビールを飲んだ。

「籍を入れるなら、少なくとも来年度かな。ひよりは今年、三年生の担任だし」

「こうちゃん!」とまだ真っ赤なひより。

「受験前に邪魔しちゃ悪いだろ。ひよりにも負担がかかる」

「そうだけど……」

「……そこ、いちゃいちゃしない」

 私の声にこちんと固まった二人は、何も反論できなかったらしく、またそろって顔を伏せた。沈黙。それから、誰からともなく笑い出し、全員が声をあげて笑っていた。ちょっとした意趣返しができて、私も気分がよかった。

 そこに、にゅっと長い影が伸びる。

「なんだよー、オレ抜きでずいぶん楽しそうじゃん?」

「あ、永野、お疲れ」

 佐藤がすっと真面目な顔に戻る。ひよりも慌てたように真顔になる。理菜だけまだ笑いを引きずっていて、永野が私の横に座りながら、「なあ、何の話してたの?」と私越しに問う。

 ……なんで隣座るかなあ。あ、でも、佐藤が奥で、その横がひよりだから、その隣に座るのは憚られたのか。

「大遅刻の永野クンにはヒミツ。ね?」

 理菜がみんなに目配せをする。「そうだね、遅れてきた方が悪い」と私もとりあえず便乗しておく。

「残業エグかったんだから仕方ないだろー。ちっちゃいミスを一日中こすられたら嫌でもパフォーマンス下がるっての」

 言い終わるや否や、「すいませーん、ビールくださーい!」と永野が店員に向かって叫ぶ。

「睡眠不足もあるだろ。昨日の夜中に急に電話してきたの、誰だっけ?」

 佐藤の冷ややかなまなざしに、永野がたじろぐ。「えっ、またあ?」と理菜。

「……そうだっけ」

 永野の目が泳いでいる。

「そうだよ。グダグダに酔っぱらって、泣きながらクダ巻いて……女にフラれるたびにそれを聞かされる俺の身にもなってくれ」

「……いや、まじごめん、ほんと記憶ない」

「通話履歴見ろ。三時間半。寝落ちするまでお前がずっと喋ってた時間」

 うわー、と思わず口から出る。

「……佐藤もよく付き合うね」

 人が好すぎるとかいう次元じゃない。

「まあ、学生の時は家まで来て一晩中だったし、それに比べればマシだよ」

 うわー、ともう一度、より温度の低い声が出る。ほんとすいませんした、と永野が深々と頭を下げる。

 なんとも言えない空気が漂った。

 永野は佐藤と同じ大学に行った。佐藤は推薦で、永野は一般入試で。学部は違ったが、それなりに仲良くはやっていたらしい。ただ、なんでも小器用にこなす節があった永野は、就活を迎えた時期から明らかに失速した。「演劇で鍛えた演技力」とやらでスムーズに就職が決まった理菜に対し、永野は意外なことに、四年生の半ばまで就職が決まらなかった。理系だったけれど、専門職でも大学院への進学でもなく、文系就職をしようとしたからだろうか。結局最初の職場はすぐ転職した。その職場からも転職したばかりだと、ついこの間、女子だけで通話をした時に理菜から聞いた。

「はあ……最初でコケると後にも響くのかねえ……今の会社も微妙そうだし、彼女も続かないしさー……せめてどっかにいい女落ちてねーかな……」

 永野が脱力しながらネクタイを緩める。「そういう言い方するうちは無理だと思うけど」と思わず言うと、だってさー、と言いながら天井を仰いだ。

「マチアプとかにいる女って、結局『マッチングアプリをやる女』なわけじゃん?」

「ならあんたも『マッチングアプリをやる男』でしょ」

「そーいうことが言いたいんじゃなくてさ、要するにオレは、オーガニックな出会いを求めてんの! 手が触れ合うだけできゅんきゅんするような感じの!」

「現世では諦めた方がいいね」

 はーーーーー、という永野の深く長い溜息を無視して、私はまたジョッキに口をつけた。苦い。

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