さよならタナトス

みつお真

さよならタナトス

(注意)

この物語は、1990年代を時代背景としております。

作中に、現在では不適切な表現があると思いますが、差別や偏見を促す意図は全くありません。

ご了承ください。

作者。


さよならタナトス


アパートの2階の窓から、轟音と車のクラクションが鳴り響く外を覗くと、泥水が濁流となって、低地にある繁華街へと流れていた。

水位は2メートルくらいだろうか、1階は完全に水没し、道路を挟んだマンションの住人達は、私に向けて必死に叫んでいた。

「お姉さん!逃げて!早く!」

ところが、当の私に恐怖心はなく、只々ぼんやりと、

「ああ、今、飛び込めば死ねるのに…私みたいな人間は、生きていてはいけない、私は、生きる価値のない人間だ」

などと、生に見切りをつける理由を詮索しては、決断できない自分を愚弄し、泣き崩れ、また詮索を繰り返した。

私は結局、弱い人間なのだ。

死ぬ覚悟はないし、贖罪も完全に受け入れていない。

生きる言い訳を考えながら、時間を浪費している。

「あの娘のために」

だとか、

「死んだ息子のために」

とか…

私は、首にぶら下げたメモリアルペンダントを握りしめて、アパートの2階で水が引けるのを待った。

小児がんで、わずか2歳で亡くなった息子の海斗が、きっと私を守ってくれる。

そう都合よく考えると、悪夢にうなされることもなく、静かに眠れた。


翌日、私は自衛隊の救援ボートに乗せられて、汚泥にまみれた市街地を抜け、途中、たくさんの避難民で溢れたボートに顔見知りはなく、安堵しながら高台の中学校へたどり着くことができた。

浸水した街並みと、夏の陽射しを浴びながら青々しく輝く空は不釣り合いで、そんな光景を眺める老夫婦は、涙ながらに将来を悲観した。

私は、

「いっそ、全てなくなってしまえばいいのに」

と、思いながらも、言葉にはできなかった。

避難所は、ボランティアや市の職員、自衛隊員や警察官らが忙しなく働いていて、受付を済ませた私が、体育館へ通された頃には陽も沈みかけていた。

外の喧騒とは対照的に館内は静かで、8割ほどが埋まっていたが、それ以上に人が増えることもなく、皆、テレビに映し出されるニュース映像を食い入るように見つめていた。


1993年のこの日、8月から続く雨は6日間続いて、市街地を流れる川が相次いで氾濫した。

梅雨明け宣言も出されぬままの異例の年、環境破壊との関連を、アナウンサーが切迫した声で伝えている。

繁華街の地下通路や商店街は完全に水没して、大通りに置き去りにされた自動車や、停車したままの路面電車、救出される人々の映像が次々に流れると、館内にいた初老の男性が、

「俺たちはツイてないよ、だって、水没したエリアなんて、かなり狭い範囲なんだって、さっきラジオで言ってた」

つられるように、あちこちで見知らぬ者同士の会話が始まった。皆、不安で仕方がないのだろうと私は思いながら、与えられた濡れタオルで身体の汗を拭った。

ツイてない人間…

私は心のどこかで、自分をそんなふうに捉えているのかも知れない。

5年前の、小雨が降りしきる夏の日に、私の全ては変わってしまったのだ。

当時の私は、市交通局初の路面電車女性運転士として、通常業務はもちろんのこと、会社の広告塔としても働いていた。

息子を亡くし、夫と別れてからの三十路過ぎの転職ということもあり、無我夢中で働く毎日が続いても、それなりの充実感はあった。

引っ越したばかりのアパートには、ちいさな仏壇を置いて、花を飾っては海斗に話しかけていた。

「ただいま、海斗、今日、ママね、職員採用ポスターの撮影があったんだよ」

「ただいま、海斗、安全運転できました。見守ってくれてありがとう」

「ただいま、海斗、今日は疲れちゃった」

内心は、孤独に打ちのめされていても、海斗に語りかける行為は、私に平常心を保たせてくれた。

これでいい、こうして生きていけば良いんだと、すこしずつ思えた矢先、私は電車で少女を轢き殺した。


この街の路面電車は、ウォーターフロントエリアを走る湾岸線と、繁華街から山手を繋ぐ林間線の2系統で、私はその日、湾岸線に乗務していた。

朝からの止まない雨に加え、湿度も高く、冷房完備の新型車両に乗り込んだ乗客らは皆歓喜していた。

開発が続く湾岸線一帯は、官公庁や金融会社のビルが建ち並び、山の手へ進入する電停から終点までは、路面ではなく専用軌道を電車は走行する。

そのため速度もあがる。

私が少女を轢いたのは、電車の時速を35キロから40キロに上げた直後だった。

赤いパラソルをさしたその少女は、前方50メートル付近の柵に背をもたれて、幹線道路を行き交う車を眺めているように見えた。

私が短い警笛を鳴らすと、少女はハッとして柵から離れた。

私と目が合ったのはその時だ。

白いワンピースから覗く腕や脚はずらりと長く、パラソルを路上に棄てた彼女は、微笑みながら柵を乗り越えて見えなくなった。

私は急ブレーキをかけるため、制動把手を引き上げたが間に合わす、電車は大きな摩擦音と、幾度の振動のあとに停車した。

車内は静まり返っていた。

「ただいま、人身事故が発生しました。危険ですので、車外へは出ないでください」

私はそう言って外へ出た。

雨粒が頬にあたる。

風は生温いのに、凍てつくほどに私の身体は震えていた。

切断された少女の片足に、血に染まったワンピースの一部が纏わりついている。

線路に残った、さっきまで生きていたヒトの証しの色は、否が応でも私を絶望へと追いやる。

赤黒い血液に浮かぶカチューシャ。

その先に見える、黄色い脂溜まりと肉片。

「大丈夫ですか!大丈夫ですか!大丈夫…」

私の声は雨音に掻き消され、自分の鼓動すらも感じられない。

強烈な錆臭が鼻をつく。

私は人を殺した…

顔の半分が千切れた、少女の生首が私を見ている。

開いた瞼と、土気色の肌。

私は人を殺したのだ…

「大丈夫ですか!大丈夫ですか!大丈夫ですか!大丈夫ですか!大丈夫ですか!大丈夫ですか!」

私の記憶は、そこで途絶えた。

私は人を殺した人間なのだ…

そんな荒んだ回想などお構いなしに、テレビ中継は災害の詳細を伝えている。

孤立した山あいの集落、土石流で海に投げ出された自動車や列車、海岸線の半壊した駅に救出へ向かう漁船団、地下街から助け出された若い女性は、涙ながらに、

「命があって良かった、あんな怖い思いは始めてでした」

私はテレビに向かって言った。

「そんなに、生きていたいの?」

すると、ブラウン管の中の女性が答えた。

「貴女は生きたくないの?」

「私は…」

「そうよね、貴女には理由があるものね、私はお店の開店間際に洪水にあった。不意をつかれたのよ、だけど貴女は目の前に女の子がいたのに轢き殺した。これは明らかに違うわ、では逆に質問するわ、貴女はどうして生きてるの?」

見知らぬ女性は、しだれ柳のような黒髪で、私を睨んだ後に笑った。

耳を澄ますと、館内の全ての人間が、私を見ながらヒソヒソと話をしている。

ひとりの赤眼鏡の男性が立ち上がり、

「全く、人殺しと同じ空気は吸いたくないねえ」

と、蠅を振り払うような手つきをして、露骨に嫌な顔をした。

私は、唇をギュッと噛み締めるのがやっとで、周りの人間が口々に罵詈雑言を放っても何も出来ず、懐に忍ばせていた少女の生首を掲げながら半狂乱に陥った。

夢はそこで覚めた。


「大丈夫ですか?」

私は悪夢にうなされていたのだろう。

覗き込む顔は、夢に出て来た赤眼鏡の男で、私の隣のスペースを陣取っていた。

非常灯の薄明かりの館内は蒸し暑く、一基のエアコンと、複数の大型扇風機がうなりを上げながら稼働している。

私はいつの間にか眠ってしまったらしく、Tシャツは汗で濡れていた。

私は、ペンダントをぎゅっと握って男に軽く会釈をし、足早にその場を立ち去った。

どうにも気持ちが悪かったし、寝汗にまみれた身体の汗を拭いたかった。

それに、うなされ顔を見られたのもバツが悪く、自分のテリトリーを布テープで囲っていた赤眼鏡の男…その無神経さに腹もたっていた。

体育館を出ると、ひとりの男性が立っていて、私を見るなり、

「どうされました?」

「いえ、あの…」

「私は青年団の者です、困りごとがありましたら、何なりと仰ってくださいね」

物腰が柔らかそうな男性は、私と同じ、メモリアルペンダントを首からかけていた。

「あの…お手洗いはどこですか?」

「お手洗いは、校舎内の1階にあります。仮設トイレが間に合わなくて申し訳ない」

「いえ…」

頭を深々と下げる男性を気の毒に思いながら、私は校舎へ向かった。


学校内をいつ振りに歩いたのだろう。

校庭から見上げた夜空は美しく、瞬く星々の下で、大水害に見舞われて右往左往する人間たち。私もその中のひとりだと思うと空しい。

こんな時に、海斗が居てくれたならどれ程心強いだろう。

そう思うと、自然と涙がこぼれ落ちた。


明かりが灯る校舎内に人気はなく、私の足音だけが響いている。

それでも、他人同士で集まる体育館よりは、何故だか安心出来た。

1階奥に手洗い場があって、私はそこでうがいをして、顔を洗った。

支給されたタオルを水で濡らして、女性用トイレへ向かう。

身体の汚れを落とすつもりでいたが、突然、うしろから首を絞められ、

「声を出すな、入れ!中へ入れ!」

と、トイレの個室に押し込まれそうになった。

恐怖心で身体が震えている。

男の荒々しい息遣いが聞こえる。

ナメクジみたいにヌメる、男の太い腕が私の顎の下に見える。

「静かにしてりゃあ、殺しはしない!」

「わ、わかりました…わかりました…」

私が息も絶え絶え言うと、男は怯んだのか、腕と首の間に隙間が出来た。

私はその腕に、思い切り噛みついたが、男は短い悲鳴をあげた後、私を蹴り飛ばして低い声で言った。

「殺されてえのか!殺すぞ!殺すぞ!」

赤眼鏡の男の手には、バタフライナイフが握られている。

乱暴されて、この男に殺されるのが運命なのか、それとも、助けを求めて大声をあげようか等々、私は瞬時の判断に迫られ、

「誰が!助けて!助けて!」

と、叫んでみても、声が掠れて言葉にすらならなかった。

自分の人生なんて、所詮こんなもの。

大学を卒業して地元の企業に就職し、そこで知り合った男と結婚して子供を授かるものの、息子が小児がんの闘病中に夫は不倫、離婚を切り出した私に、

「俺だって辛いんだ!」

と、涙ながらに訴える醜い顔は今でも忘れられない。

海斗が居なくなって、交通局で運転士として働いて、見知らぬ少女を轢き殺し、洪水で避難した学校で殺される。

ただ、この結末のためだけに生きて来たのか、たったそれだけ…

赤眼鏡の男の頭皮が間近に見える。

脂ぎった髪、イヤなにおい、破かれるシャツ、首筋にあたる不快な感覚と獣みたいな息遣い。

私は泣いた。

その時、叫び声が聞こえた。

「何をしている!!」

赤眼鏡の男の向こうに、キラキラひかるものが見えた。

メモリアルペンダント。

そうか、助けに来てくれたんだ。

私は意識を失った。


考えてみれば、私は卑劣な人間だ。

あんなに死にたいと思っていたのに、いざとなると「救われたい」と願っていた。

あのまま、赤眼鏡の男に殺されようが、自ら死を選ぼうが、結末は同じなのに、また生きる選択をしてしまった。

私は、保健室の白い天井を眺めながら、自己嫌悪に陥った。

女性警察官が私に、

「また、お伺いすることがあるかも知れませんので、その時はご協力お願いします」

「あの…」

「はい?」

「あの、私を助けてくれた方は…」

「あ、寺嶋さんですね、また体育館に戻られましたよ」

「そうですか、ありがとうございます」

「それでは、失礼します」

女性警察官が去って直ぐに、私は真新しいシャツを着ていることに気がついた。

洗いたての、石鹸のにおいがした。


体育館を覗くと、忙しなく動き回る寺嶋さんを見つけた。

避難者にダンボールを配っている。

私はひとこと礼を言うつもりでいたが、中に入る気になれないでいると、彼の方から私に近付いて、

「大丈夫ですか?あまり無理なさらないでください」

と、心配そうに目を細めた。

私はお礼を言って、深く頭を下げた。

寺嶋さんは、ゆっくりと、

「避難所にもプライベートがないと…あ、今、壁代わりにダンボールを配っているんです」

「壁代わり?」

私は、館内から聞こえる笑い声や、楽しそうにダンボールで仕切りを作る子供たちの姿を見て、

「わあ、工作教室みたい」

と、言うと、寺嶋さんは愉快そうに笑って、

「一緒にやります?」

「いえ、私は…」

「そうですが…」

「ごめんなさい」

「いや、そんな、謝らないでください」

「私、自宅へ戻ろうかと思ってます。後片付けもしないといけないし、いつまでも此処でお世話になるのも申し訳ないですから」

咄嗟に出た言葉に私は躊躇した。

この、後ろ髪を引かれる感覚は何だろう?ペンダントを下げている寺嶋さんと、もう少し話がしたいのも事実だ。だからと言って、話題も見つからない。本当は、自宅に戻って海斗の仏壇を綺麗にして、再び避難所へ戻ろうかとも考えていた。衣食住が保証されていることは、私にとっては有り難かった。

しばらくの気まずい沈黙のあと、寺嶋さんが言った。

「あの、ご迷惑でなければ、ご自宅の近くまで車を出しましょうか?」

「え?」

「役所にも行く用事がありますし、こんな暑さじゃ歩くだけで疲れちゃう、ま、オンボロの軽自動車で良ければですが」

私は空を見上げた。

汗が頬を伝って、首筋へ流れ落ちる。

返答には困らなかった。

「お願いしても、いいですか?」


自宅へ戻る途中の車内で、寺嶋さんは豪雨災害の詳細を語ってくれた。

カーラジオも、同じことを伝えている。

私は愛想笑いを浮かべながら、彼の胸元で揺れるペンダントについて考えていた。星型の、ちいさなシルバーのペンダント。中身は誰の思い出なのだろう?この人も私と同じで、途方もない淋しさを抱えているのだろうか?

私の胸に、海斗との記憶がありありと甦る。泣いてはいけないから、私は慌てて話題を変えた。

「あの、ホントにありがとうございました」

「あ、いえ、俺こそおせっかいで…」

「そんな、おせっかいだなんて」

「そういえば、ご挨拶もまだでしたね、俺は、寺嶋光一です」

「あ、私は鳥居楓です」 

「あっ!」

「はい?」

「お寺と鳥居だ、縁起がいいな」

寺嶋さんは愉快そうに笑った。

私もつられて笑っていた。


アパートの前に着くと大家さんがいて、市の職員や清掃業者と立ち話をしていた。

私を見るとすぐさま、

「大丈夫だったかい?心配してたよ、アンタの部屋は畳がダメになったから、数日したら全替するからね。全く、2階で床下浸水なんて聞いたことないよ」

私が挨拶もそこそこに2階へ上がろうとすると、後ろから寺嶋さんの声がした。

「手伝いますよ!」

「いえ、でも…」

私が躊躇すると、大家さんが、

「手伝ってもらいなよ、男手も必要だからさ、なんなら後で、1階も手伝ってくれるかい?」

寺嶋さんは、快く承諾した。


出逢いというものに、必然や偶然があるとすれば、私と寺嶋さんはそのどちらでもなく、時間が過ぎれば落ち葉の如く掻き消され、その後の運命に何の干渉もない事象、そうであれば良いなと思い始めている。

私はどうにも人間が恐いのだ。

深入りもされたくないし、したくもない。

かといって、ひとりでは発狂しそうになる時もある。

要は厄介者なのだ…

あの災害から数ヶ月が過ぎて、私と寺嶋さんは月に一度は会うようになり、互いの近況を確かめるようになった。

季節は秋に向かおうとしている。

市街地を流れる川のほとりで、その日はふたりして鴨の親子を眺めていた。

寺嶋さんはやさしい顔で、

「いいな、やっぱり…」

と、呟いた。

私はこの頃、海斗が亡くなったことや生活保護を受けていること、そして精神的に疲れていること、特に、少女の生首に、のうのうと生きてる様を蔑まれる悪夢に悩まされていることを、寺嶋さんにうち明けていた。

しかし、電車で人を轢き殺した事実だけは言えなかった。

ひとごろしと、思われたくないからそうしていた。

ところが、寺嶋さんのことを私は何も知らない。

私は思い切って聞いた。

「寺嶋さんは…」

「ええ」

「大切な思い出でしょう?そのペンダント…」

「…」

「あ、ごめんなさい」

「いえ、娘ですよ…なんにもわかってやれなかった…いじめられていたのも、前妻とのいざこざで苦しんでいたのもね、俺はなんにもわかってやれなかったんです」

「え?」

「自殺したんです」

「自殺…」

「あ、良かったら、見てもらえますか?ペンダントの中身」

寺嶋さんは、ペンダントを開いて私に見せてくれた。

赤い麦藁帽子を被って、和やかに微笑む可愛い少女。長くてしなやかな指先は、今にも動きそうで健康的に見えた。

「かわいいお嬢さん…」

「ええ、自慢の娘です」

しかし、私はこの少女を何処かで見た覚えがあった。

寺嶋さんの声が聞こえるが、何も入らなくなっていた。

「…電車に飛び込みました。その日は娘の誕生日で…ずっと苦しんでいたのに、俺は父親失格です…分裂病で苦しんで、それでも必死に生きてきたのに、周りからはキチガイと罵られ、短い生涯でした。あ、申し訳ない、自分の話ばかり…」

「…」

「そうだ、楓さん、これから夕食でもどうですか?」

「…あの、寺嶋さん…?」

「はい?」

「お嬢さん、電車に…?」

「…ええ、湾岸線の路面電車に…」

私はふらふらと立ち上がって、咽び泣きながら走り出していた。

気が狂いそうだった。

追いかけてくる寺嶋さんの手が、私の腕を掴む。

「放して!お願いです!放して下さい!」

そう懇願しても、彼は離そうとしない。

「どうしたんですか楓さん!落ち着いて!どうしたんですか…」

寺嶋さんは私をきつく抱きしめてくれた。

私は彼の胸で泣いた。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

と、言い続けていた。


結局、何も話せないまま帰宅して、私は海斗に線香をあげ、幾度も嘔吐を繰り返した。

陽も暮れたというのに、電気もつけないでいると、

「ひとを殺しておいて、自分だけ仕合わせになれるとオモウナヨ」

そんな声が聞こえた。

「オマエは、生きていちゃイケナイ人間だ」

「ハヤク償え、罪は消えないから、オマエが消えたら良いさ」

知らない声に促される。

私は部屋を出た。

気がつくと、湾岸線の山手入り口電停近くの柵の前に立っていた。

そうか、此処が死に場所なんだ…

2両編成の路面電車のライトが、徐々に大きくなる。

加速し始める電車の振動音が響く。

短い警笛が鳴る。

私は咄嗟に退くが、運転席に向かって微笑む。

「どうせまた死ねない!どうせ死ねないから…どうせ死ねないのなら」

柵を乗り越えようとした瞬間、私の身体は後方へとなぎ倒された。

寺嶋さんが、私に覆い被さりながら叫んでいた。

「やめて下さい!罪滅ぼしですか!?やめて下さい!」

「…寺嶋さん…」

「あのあと調べました。貴女は悪くない!そんなことをしても、俺の娘も、それから、それから…海斗くんだって喜ばないし、決して望んでやいない!生きるんです!残された人間は生きないといけない!」

「…でも、どうやって…」

「俺は、貴女や海斗くんのことを想いながら生きます。ですから楓さん…貴女も…俺や娘のことを、すこしだけでいいから…想いながら生きて欲しいです、いけませんか?」

「…」

「いけませんか?」

「…」

「共に生きて欲しいんです…」

私は、彼の泣き腫らした顔を見ることしかできないでいた。


季節だけが、私を置いて過ぎてゆく。

冬に降る雪は私を避けて、春の桜吹雪は知らないふり。夏の太陽はそっけなく、秋の枯葉は私を追いかけもしない。

これまではそうだった。

私が死のうとしたあの日、私は寺嶋さんのマンションへ泊まった。

仏壇に飾られた少女の写真は、どれも笑顔に満ちていて、愛くるしく可愛かった。

寺嶋未来。

少女の名前も知った。

彼女の部屋も、時間が止まったまま残されていて、勉強机に残された日記帳には

タイトルがつけられていた。

内容は生き抜こうとする心情と、消えたい気持ちの文字が溢れていた。

寺嶋さんが言った。

「死への本能、または死への衝動という意味らしいです…未来は必死に闘っていました…」

私は、日記帳のタイトルを、魔法の言葉のように呟いた。

寺嶋さんと出逢ってから、私はすこしだけ、季節の色彩を感じられるようになったと思う。

時折見る夢の中の少女は、恐ろしい生首の化け物ではなくて、和やかに微笑む少女の姿へ変わっていた。

少女は時々、

「こっちへ来ないの?」

と、話しかけてくるが、私は決まって、

「まだ行かないよ」

と、笑う。

「おとうさん危なっかしいから、見ていてあげてね」

少女は満足そうな笑みで踵を返し、その姿は光に中に消えていった。

あの先に、海斗もいるのかな?

そう思った途端に、いつも夢は覚めた。

しかし、罪悪感は未だに私を責めたてる。

そんな時、私は呟くのだ。

「さよなら、タナトス」



終わり





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さよならタナトス みつお真 @ikuraikura

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