牛丼並盛:280円
金剛ハヤト
牛丼(並)
10年以上勤めていた会社から解雇通告を受けた。バブルが弾ける少し前、まだ日本がバカみたいな泡沫の夢に溺れていた頃、なんとなく良さそうだったからという理由で就職した会社なので特別な感情は持っていないが、多少の思い入れはある。
まさか自分が泡沫の夢から醒めた時代の犠牲者になるとは夢にも思わなかった。解雇通知書を受け取ったときは色んな感情が一気に押し寄せてきて頭がどうにかなりそうだった。でもその割には結構冷静で、むしろいつもより頭がさえていたかもしれない。
色んなことを考えていた。悪いのはバカバカ金を無駄遣いしていた会社なのにどうして社員である自分が割を食うんだとか、また就活しなきゃだめなのかとか、今口座にどれだけのお金が残っていたかとか。まるで自分の感情が分裂してそれぞれ独立した自我と思考能力を得たような感じで、リアリティのないフワフワとした気分だったのはいやに覚えている。
でも一番頭にこびりついていたのは上司の淡々とした言葉だ。なぜ自分が解雇されねばならないのかと尋ねた時、ヤツは「会社の意向」の一点張りだった。
憤慨したが、生来臆病だった私は、結局それをぶつけることすら出来ず、その日は茫然自失で帰宅した。
♢
解雇が決まってから10日が過ぎた。あの心底面倒臭そうなヤツの声を鼓膜に覚えてからというもの、毎朝目が覚めるたびにその声が頭の中で響いている。
あれから自分を見つめる周囲の目は変わった。憐憫一色で吐き気がした。皆寄ってたかって私を悲劇の主人公のように扱い、「何か困ったことがあるなら相談しろ」とか「オレだけは味方だからな」とか、それまで大して話したこともない人間たちが親友面を引っ提げて私に馴れ馴れしい。
反吐が出る。そんな無責任な感情や言葉を向けられたところで、「今それどころじゃないから話しかけるな」としか思わない。お前も解雇通知を受け取ってみろと、胸ぐらをつかんで言ってやりたい。でも、それをしたら給料を受け取れずに即刻クビを切られてしまうからしなかった。
次の職場はまだ見つかっていない。ついさっき、冷蔵庫にしまってあった冷めたい塩むすびを食べているときにお祈りメールが届いたことを確認した。
大丈夫、まだ大丈夫だ。まだ20日もある。年休消化で出勤する必要もないんだから、時間は十分ある。こういうときこそ落ち着いて冷静になるべきだ。自分に言い聞かせながらいつもより些か早い時間に床に就いたが、あまりよく眠れなかった。
♢
解雇通知を受け取ってから今日で15日になる。今日も今日とてお祈りメール。履歴書を送ってから4日で祈り返されることもざらにあるし、音信不通の場合もある。しかし焦る必要はない。私は昔から悪運が強いんだ。中学校の体育祭でやるつもりのなかった徒競走のアンカーをやらされたときも、他のクラスのアンカーが他の走者を巻き添えに転んで一位を取れた。高校の修学旅行で宿に財布を忘れてしまったことがあったが、たまたま同じ宿に泊まっていた親戚のおじいさんが見つけてくれて家に送り届けてくれた。
だから大丈夫なはずだ。初めはダメでも終わるころにはなんとかなる。なんとかなるだろう。とりあえず手当たり次第に履歴書を送って、面接を受けて、適当な場所に転職すればいい。そんな思いを込めてまた履歴書を書く。今ではもうスラスラとボールペンを止めずに書ける。目下の悩みは証明写真が不足して撮り直すのが面倒なことだ。しかしまぁ手間がかかるだけなので対して悩んでいるわけでもない。
……しかし、やけにお祈りメールが送られる速度が早いのはなぜだろうか。
少し考えようとして、なんだか嫌な感じがしたので頭を振って考えない振りをした。
♢
────今まで自分はなんで再就職できるなんて考えていたんだ? バブルが弾けてデフレに突入したこの時代に、ただでさえ国家単位で経済不況に見舞われているというのに、一体どこの企業が新卒ですらないアラサーを雇うんだ!!
こんな簡単な事実になぜ今まで気づけなかったんだ……! バブルが弾けて、就職できない新卒たちが氷河期世代とか言われてた時にはもうこの事態も予想出来たはずだ!
私は自室の中で頭を抱えるしかなかった。バカみたいに買い込んだ真っ白な履歴書と証明写真を全てゴミ箱に放り込んだ。外から聞こえてくる子供の声がやけに気に障って窓のカーテンは閉め切っている。8畳程度の部屋で大の大人が椅子の上で頭を抱えて、情けないと思った。
お袋に会いたい。実家に帰って、炊き立ての米が食いたい。今になって、あの小さな丸い食卓を囲んでいた日々が恋しい。実家に帰りたい。でも、帰れない。お袋にこんな情けない姿を見せたくない。
あぁ嫌だ。嫌だ嫌だ。なんで俺だけこんな目に合わなきゃいけないんだ。ふざけるな。ふざけるな。あぁもう嫌だ。こんなはずじゃなかったのに。
♢
解雇通知を受け取ってから今日で30日。今日やっとのことでもぎとった面接も失敗した。もう二度と乗ることの無い電車の中から、もう二度と見ることはない知らない街の景色をぼーっと眺めている。そうしているうちに時間は過ぎて、いつの間にか電車が家の最寄り駅に到着していた。
駅から出た後、私は真っすぐ家に帰らず遠回りをしていた。このまま家に帰らなければ明日がこないんじゃないかと期待していた。しかし腕時計の短針は見るたびに12に近づいていく。7を超えた頃に私はそれを外して胸ポケットの中に雑にしまった。
しばらく夜の景色の中をふらふらと歩いていたとき、不意に腹の虫が鳴いた。お腹を押さえてみると、またぐぅと自分勝手に腹が鳴る。なんだか久しぶりに腹の虫が鳴くのを聞いた気がする。
こんなときでも人間腹は減るもので、一度意識してからずっと空腹感が私の思考領域の一部を支配している。適当なものでも買って腹を満たそうと思って、顔を上げてあたりを見渡すと牛丼屋が目に入った。
不意に漂って来た牛丼の香りに鼻腔を擽られる。私の足は気づけば牛丼屋に向かっていた。
「いらっしゃいませ!!」
入店するや否や元気よさそうなアルバイトの男子学生の声が耳に響く。それがなんだかとても眩しくて引き返したくなったが、空腹が辛うじて勝ったので大人しく入り口から一番近い席に着席する。
メニューには色々と書いてあったが、そもそも牛丼以外売っていないし、私自身別にこだわりはない。金も余裕は無かったので、私は280円と妙に安い並盛の牛丼を頼むことにした。
「……牛丼並みで」
「かしこまりました! ────並一丁!!」
客が少なかったせいか、牛丼は頼んでからあまり時間が経たないうちに届いた。湯気がもくもくと昇っており、食欲を刺激する蒸気と香りが呼吸と一緒に体内に侵入する。
「いただきます……」
箸を割り、掌を合わせる。そして牛丼に箸を入れる。中に閉じ込められていた熱が蒸気となって私の顔を撫でた時、私は夢中になって牛丼を掻きこんだ。
美味かった。実際は280円にしては中々美味い程度なのかもしれないが、やけに美味く感じた。そもそも温かいご飯を食べたのが久しぶりで、味が付いたものを食べたのが久しぶりで、美味しかったんだと思う。
それはもう一心不乱に掻きこんだ。行儀とか一切気にせずにカチャカチャと器を掻き鳴らすように箸を動かした。
半分ほど一気に食べ進めた頃、ふと会社のことを思い出した。もう二度と行かないだろう会社。会わないだろう人間たち。同僚はいないし、先輩も後輩も特段仲のいい人間はいない。
もう会うことはないのだ。もう7:00までに出勤することもない。会社に泊ることもタクシーで深夜に帰宅することもない。
そう自覚した時、なぜか涙が溢れ出した。それでも腹は減っているので、時々涙をぬぐいながら貪るように牛丼を食べた。食べ終えた後もしばらく涙は零れ続けた。
「────ごちそうさまでした。牛丼、美味しかったです」
「ありがとうございました! またいつでもお越しくださいね!」
店を出る間際、アルバイトの男子学生の言葉に掛けられた言葉に背中を押されたような気がした。10年以上溜めこんでいたものが涙と一緒に流れ出たのか、なんだか妙に清々しい。
「履歴書、買い直さないと」
見上げた夜空には三日月が昇っていた。
牛丼並盛:280円 金剛ハヤト @hunwariikouka
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