第一章⑦

 震える右手を左手で支え、思い切って箸を突き立てようとした時、

「何をしている?」

 低い声と共に、桜羽の手首が強くつかまれた。

 眠っていたはずの焰良が目を覚ましている。けんのんな光を宿す赤いひとみに射すくめられ、桜羽の体が硬直する。

 けれど、それを相手に悟らせまいと、桜羽はぜんとした声で答えた。

「あなたを殺しに来たのよ」

「へえ……」

 焰良は桜羽の手首を握ったまま半身を起こし、目をすがめた。

「そんな箸ごときで?」

「箸ごときでも、喉を貫くことも、目をつぶすこともできる」

 桜羽が言い返すと、焰良は鼻で笑った。

「そのように震える手でできるのか?」

 馬鹿にされ、桜羽の頭にカッと血が上った。手首を握られたままちからくで箸を突こうとしたが、焰良に取り上げられる。

 焰良は箸を遠くへ投げた後、桜羽の手首を強く引いた。寝台の上に突っ伏した桜羽のあごを摑んで上向かせると、眼光鋭くにらみ付けた。

「お前のようなか弱い女が、俺の寝込みを襲おうなどとは片腹痛い」

 かつて母を殺した赤髪の少年。あの時、血にまみれた姿でこちらを振り向いた美しい鬼が、今、目の前で自分を見下ろしている。

(私、殺されるの?)

 思わずぎゅっと目をつぶる。

 しばらくして、焰良が桜羽から手を離した。おそるおそるまぶたを開けると、彼は何かを問うように桜羽を見つめていた。

 解放された桜羽は急いで彼から飛び退き、寝台から距離をとった。

 箸を捜して周囲を見回したが、運悪くたんの下に入り込んでいる。あれでは再び手に取ることは難しい。

「お前はなぜそうも俺に敵意を向ける? お前がおんみようで、俺が鬼だからか?」

 真面目な表情で尋ねる焰良を、桜羽はキッと睨み付けた。

「そうよ。あなたは鬼。月影氏流陰陽師は、鬼とあやかしは見つけ次第殺すよう、明治政府から命じられている」

「その理由を、お前は知っているのか?」

「鬼もあやかしも人に害をなすわ」

「お前は具体的に、俺たちに何かされたのか?」

「それをあなたが言うの……!」

 桜羽は体の横でこぶしを握り、焰良に向かって叫んだ。

「あなたが私の母を殺したくせに!」

「は?」

 焰良がわけがわからないと言うように目を瞬かせた。

「どういう意味だ?」

「私は八歳以前の記憶を失っているけれど、何度も繰り返し夢に見るのよ。あなたが母を殺した時のことを。冬真様が来てくださらなかったら、私もあなたに殺されていたわ」

 抑えた声でそう言うと、焰良の表情がげんなものになる。

「なぜ俺がお前の母を殺したと思うんだ? それはただの夢だろう?」

 馬鹿にされているのかと、桜羽の頭に血が上った。

「違うわ! あの夢は私の失われた記憶……本当にあった出来事なのよ! 私の母は少女の頃に鬼にさらわれて、無理矢理、婚姻させられて私を産んだ。私が八歳の時、母は赤髪の鬼の少年に殺されたの。行方のわからなかった母を捜していた冬真様が駆けつけた時には、もう遅くて、ただ一人生き残った私は冬真様に助けられたのよ」

 早口でまくし立てる桜羽の話に静かに耳を傾けていた焰良は、不機嫌な表情を浮かべた後、イライラしたように髪をかき回した。

「……八歳以前の記憶を失っているだと? どうりで……」

 舌打ちをした後、髪から手を離し、桜羽に目を向ける。

 焰良は寝台から降りると、桜羽のほうへ歩み寄ってきた。桜羽は後退したが、すぐに背中が壁に当たった。

 瞳だけはらんらんと焰良を睨み付けつつも、小動物のように震えている桜羽を見て、焰良は弱ったようにめ息をついた。

「そんなに恐れるな。何もしない。お前を害する気はない」

「噓。華劇座の秘密を知った私を消すために、このやしきに連れてきたのでしょう」

 間髪をれずにみついた桜羽に、焰良は否定の言葉を返す。

「そうではない。俺はただ、どうぼうを守りたいだけだ」

「同朋って、華劇座で働いていた鬼女のこと? ……陰陽寮は以前から、華劇座が鬼と関係しているのではないかと疑っていたの。あの劇場で働いている人たちの中には、他にも鬼がいるのね?」

 桜羽の質問には答えず、焰良は腕を組んで続けた。

「お前は、鬼やあやかしは、人や明治政府にあだなす存在だと思っているんだろう?」

「そうよ」

 油断なく身構えながらうなずくと、焰良は「それは誤解だ」と否定した。

「俺たちは人の世で、ただ穏やかに暮らしたいだけなんだ。人に害をなそうなどと思ってはいない」

「心にもないことを言わないで! 江戸幕府の頃、鬼はかんちようや暗殺者として働き、あやかしは人を襲っていたのでしょう? 現に先日も、ぬえを連れた鬼女が姥貝子爵の邸を襲撃したわ。子爵は怪我をされたのよ。あなたが命じたのじゃなくて?」

「確かに、かつてはそういった働きをしていた者もいた。先日、矢草が姥貝子爵邸に押し入ったのも事実だ……」

 苦々しい表情で続けた焰良の言葉に、桜羽は「ほら!」と気色ばんだ。

「だが、大抵の鬼は人を傷つけるような真似はしない。これまでも、市井に紛れて人と同じように暮らしてきたんだ。かつての陰陽師たちはそれをわかっていて、むやみやたらと俺たちを狩ることはなかった。陰陽師が無差別に鬼とあやかしを狩るようになったのは、明治の世になってからだ」

 焰良の言葉に噓は感じられなかったが、桜羽は頑として彼の言い分に耳を貸さなかった。

「そんな話、私は信じない」

 焰良の瞳に悲しげな色が浮かぶ。けれど、彼はすぐにその色を消し、真剣な口調で言った。

「お前は俺のことを母の仇だと言ったな」

「ええ」

「俺は、お前の母を殺してなどいない」

 焰良は断言したが、桜羽には彼が言い逃れをしているように見えて、さらなる怒りが湧いた。

「この期に及んで噓を言うの?」

 今、この手に刀があれば、自分の命と引き換えにしてでも、焰良の胸を刺し貫いてやるのに。

 焰良が桜羽のほうへ手を伸ばした。何かされるのではないかと身構えたが、彼は桜羽の頰に軽く触れただけだった。

「お前の目で見て、心で感じて、噓かまことかを判断してほしい」

 夢の中で母を殺していたせつのような姿が噓だと思えるほどに、焰良の瞳は澄んでいて、口調は静かだ。思わず口をつぐんだ桜羽の頰から、焰良の骨張った指が離れる。

「明け方まで、まだ時間があるな。暴れて疲れているだろうに、お前は眠くはないのか?」

 突然話題が変わり、どういう意味かと警戒していると、次の瞬間、桜羽の体はふわりと持ち上げられていた。

「ちょっと、また……!」

 ここへ連れて来られた時のように横抱きにされて、桜羽は暴れた。

「本当にじゃじゃ馬だな……!」

 焰良は、腕から飛び降りようとする桜羽の体を押さえながら寝台まで運び、その上にぽいと放り投げた。柔らかなマットに体が沈む。

 桜羽が起き上がるよりも早く、焰良は桜羽の隣に横になると、背後からがっちりと体を抱え込んだ。

「何を……」

 わけがわからず逃げだそうとした桜羽を胸の中に引き寄せ、身動きがとれないよう、足もからめ取る。桜羽は悲鳴のような声を上げて抗議した。

「ちょっと! 離してってば!」

「こうしていれば、お前が俺を襲うのを防げるだろう? 閉じ込めていても、窓から忍び込んで来るんだからな。落ちたらどうするつもりだったんだ。いっそ目の前にいたほうが安心する。おとなしく抱かれていろ」

「……!」

 なんだそれは、どういう理屈だと、桜羽は混乱した。

「少し落ち着け。そうカリカリしていたら身が持たないぞ」

 これは新手の拷問だろうか。

 屈辱的な気持ちで唇を嚙む。桜羽を抱く焰良の腕が熱い。心臓の音が間近で聞こえる。ほんの少し鼓動が速く感じられるのは、人と種族が違うから?

 ふと、どこかでこの音を聞いたことがあるような気がした。

 おとなしくなった桜羽の耳元で、焰良がささやいた。

「お前に協力してほしいことがある」

「協力? 何を?」

 桜羽は焰良のほうを見ないままに問い返す。

「実はここ最近、鬼の子供が行方不明になる事件が続いている。お前の言う鬼女──矢草の娘も行方がわからない。矢草は偶然、劇場を訪れた華族たちが話していた噂を耳にしたんだ。鬼の子が闇のオークションにかけられ、上流階級層に買われているらしい、と」

「闇のオークション……?」

「競り売りだ。姥貝子爵も関わっていると聞き、矢草は子爵に問いただしに行った。その際に、子爵に怪我をさせてしまったようだ」

 それが、桜羽が鬼女を目撃した夜だったということか。

「それで、何かわかったの?」

 もしそのようなオークションが行われているとしたら、さすがに問題だ。

 桜羽の質問に、焰良は暗い声で答えた。

「矢草が姥貝子爵から聞き出した情報によると、ひと月後、鹿鳴館で開かれる夜会でオークションが行われるらしい」

 桜羽は強引に体を反転させ、焰良のほうへ顔を向けた。

「鬼の子たちがそこで売買されるということ?」

 焰良は静かに頷いた。彼の赤いひとみは、噓を言っているようには見えない。

「ひと月後の夜会って……外務大臣のきようが主催される舞踏会だったような……」

 主賓は英国の公使夫妻で、かなり大々的なものになるらしいと、おんみよう寮でも噂になっていた。

「矢草が姥貝から奪ってきた招待状を見て偽造したから、中には入れる。怪しまれないように、パートナーが必要だと思っていたんだ。お前、ついてこい」

「は?」

 桜羽はけんしわを寄せた。

 なぜ陰陽師の自分が鬼のパートナーにならなければいけないのか。

 桜羽の不満を察し、焰良がにやりと笑う。

「協力してくれたら、この邸から出してやる。陰陽寮に帰って、ここのことも華劇座のことも、好きに報告すればいい」

 挑発するように言われて、桜羽のてきがいしんに再び火がいた。

「──わかった。あなたに協力するわ」

 了承の答えを聞いて、焰良は満足げに笑った。


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◎この続きは2024年9月24日頃発売予定

『帝都の鬼は桜を恋う』(角川文庫)にてお楽しみください!




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帝都の鬼は桜を恋う 卯月みか/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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