第一章⑥

「お帰りなさいませ」

 小紋にエプロンを身に着けた十歳ぐらいの女の子が走り出てきた。丸顔と切りそろえられた前髪が幼く見え、愛らしい雰囲気だ。女の子は、焰良が連れ帰った桜羽に気付き、くりっとした目を瞬かせた。

「焰良様、そのお方は?」

「事情があって連れてきた」

「お客様ですね。お名前はなんとおっしゃるのでしょう」

 女の子に尋ねられ、桜羽はしぶしぶ答えた。

「桜羽よ」

「桜羽様……」

 桜羽を見上げる女の子の顔が次第に輝く。人懐こい笑みを浮かべて、元気いっぱいに自己紹介をした。

「ようこそいらっしゃいました、桜羽様。私ははなと申します!」

 焰良の邸で働いているようだが、彼女も鬼なのだろうか。そうだとしたら、一目見て陰陽師だとわかる身なりをした自分に対し、この態度は油断しすぎではあるまいか。

(子供だから、よくわかっていないのかしら……?)

「二階の客間はすぐ使えるか?」

 焰良の問いかけに、心花が答える。

「いつもれいに整えております!」

「結構」

 桜羽を抱えながら手を出した焰良に、心花がエプロンのポケットからかぎの束を取り出し、「どうぞ」と渡す。

 階段に足をかけた焰良に、桜羽はきつい声音で尋ねた。

「私をどこへ連れていくつもり? ろうにでも閉じ込めようというの?」

「そんなに悪いところじゃないさ」

 焰良は、二階に着くとホールを抜け、一番奥にある部屋へ向かった。片手で器用に鍵を開け、中に入る。

(まあ……素敵な部屋)

 桜羽は思わず内心で感嘆の声を上げた。

 花柄の壁紙が貼られた部屋はこぢんまりとしていたが、てんがいのついた寝台や、彫刻の美しいたん、起毛した布の椅子は趣味が良かった。扉のそばに、上部に鏡のついた暖炉も据えられている。窓には青いカーテンがり下げられていた。

 焰良は寝台まで行くと、桜羽を下ろして座らせた。

「この部屋は好きに使えばいい」

「……どういう意味? 私はあなたの邸に滞在するつもりはないわよ」

「華劇座に鬼がいると知ったお前を、陰陽寮に帰すわけにはいかない」

「私が帰らなければ、陰陽寮は私を捜すわ」

「お前を見つけられるようなヘマはしない」

 そう言いながら焰良が手を伸ばしてきたので、桜羽はびくりと体を震わせた。けれど、彼は危害を加えるのではなく、桜羽の手首を拘束していたベルトを取り外しただけだった。

「ああ、少し赤くなってしまったか」

 桜羽は馬車内で、ベルトからなんとか腕を引き抜こうともがいていた。そのせいで、傷を作ってしまったようだ。傷の具合を確認している焰良の手を、桜羽は思い切り振り払った。

「触らないで。鬼」

 憎しみのもったひとみにらみ付けると、焰良が桜羽のあごつかんだ。

「お前、自分が今、どういう状況かわかっているのか? 俺の一存で、命を奪うことだってできるんだぞ。得物のない陰陽師の小娘一人、鬼の頭領の俺には簡単に殺せる」

 赤い瞳に間近で顔をのぞきこまれ、桜羽の背筋がぞくりと震えた。思わず息をむ。

「鬼の、頭領?」

「そうだ。俺はあやかしの長、鬼の焰良。陰陽師の娘、よく覚えておけ」

 焰良は桜羽の顎から指を外すと、不敵な笑みを残して部屋を出ていった。

 一人取り残された桜羽は、寝台から飛び降りると、急いで扉に駆け寄った。取っ手を握って回し、引いたり押したりしてみたが開かない。どうやら外から鍵がかけられているようだ。

「閉じ込められた……」

 いらたしい気持ちを発散するように、桜羽は扉を一度叩いた。ずるずるとその場に座り込む。

(まさか、あいつがあやかしの長だったなんて)

 とんでもない大物に捕まってしまった。

 けれど、これはおんみよう寮にとって好機かもしれない。

(私が情報を持って帰れば、鬼やあやかしに大打撃を与えられるかもしれない)

 鬼とあやかしたちがどのように統制されているのかはわからないが、頭になっている者を失えば、ある程度の混乱は起こるだろう。

「まずは陰陽寮に戻らないと。──いいえ」

 桜羽は自分の言葉をすぐに否定した。

(私が焰良の首を取って、冬真様のもとへ持ち帰るのよ)

 そのためには得物がいる。

 愛刀は朱士に持ち去られてしまったし、まじない札は全て焰良に燃やされてしまった。

 簞笥を開けたり、部屋の中を動き回ったりして、得物になりそうなものはないかと探してみたが見つからない。

「うーん……」

 腕を組んで思案していると、コンコンと扉が鳴った。

(焰良が戻ってきたの?)

 強引な彼がたたいたにしては控えめな音だ。誰が入ってくるのだろうと身構えていたら、開いた扉から顔を覗かせたのは心花だった。手にお盆を持っている。

「桜羽様、お夜食をお持ちしました」

「えっ? 夜食?」

 桜羽は目を瞬かせた。

「何も食べておられないのではないかと思いまして、作ってきました」

「あなたが?」

 驚いた桜羽に、心花はにこりと笑ってうなずいた。

(こんな小さな子を一人でこして、焰良は私が何もしないと思っているのかしら)

 運んできたお盆を寝台の脇机に置いている心花をうかがう。

 心花はなんの警戒心も持っていない様子で、桜羽を振り向いた。

「どうぞお召し上がりください」

 山吹色の卵焼きとおにぎりを見て、桜羽の腹がぐうと鳴る。

 このような危機的状況でもお腹がくなんてと自分にあきれたが、体は正直だということか。

 桜羽が鳴らした可愛い音を耳にして、心花がくすくすと笑った。

(食べないと体力がたないけれど……毒が入っているかもしれない)

 心花の無邪気な笑顔からは悪意は感じられない。無防備な彼女を突き飛ばし、鍵の開いている扉から逃げだすことも考えたが、子供に怪我をさせるのは抵抗がある。

 桜羽は警戒を解かず、慎重に答えた。

「人から見られながら食べるのは苦手なの。後でいただくから、置いていってくれるかしら」

 桜羽が頼むと、心花は「わかりました」と素直に頷いた。

「では、明日あしたの朝、お盆を取りに参りますね。今夜はゆっくりとお休みください」

 心花が一礼し部屋を出ていくと、桜羽はお盆に目を向けた。毒が入っているかもしれないものを口にするわけにはいかない。

(私が欲しかったのは、これだけ)

 内心でつぶやくと、添えられていたはしを手に取った。こんなものでも、のどぼとけに突き立てれば、致命傷を与えられる。桜羽は食事には手をつけず、箸だけをそっとポケットに隠した。


    *


 閉じ込められている部屋でおとなしく過ごしていた桜羽は、深夜になり、やしきから物音が聞こえなくなると、扉の取っ手を握った。邸内に響かないように静かに動かしてみたが、やはり開かない。焰良に命じられているのだろう、心花もしっかりと鍵をかけていったようだ。

 扉から抜け出すのはあきらめ、窓辺に歩み寄る。こちらからの逃亡は想定していなかったのか、片上げ下げの窓は簡単に開き、夜の風が部屋に吹き込んでカーテンを揺らした。

 身を乗り出して外を覗くと、真下は庭のようだ。今度は左右を確認する。この部屋は二階の端で左側には何もなく、右側には隣の部屋に面したバルコニーがあった。

(向こうに渡ることはできるかしら)

 窓の下を見て、外壁のれんに出っ張りがあることに気が付いた。つま先を引っかければ歩けそうだ。

 桜羽はカーテンを摑みながら窓枠をまたぎ外に出ると、注意深く煉瓦の出っ張りに足先を下ろした。カーテンで体を支えながら、そろそろと移動し、バルコニーに向かって手を伸ばす。

(よし、届いた!)

 手すりを摑んで左足をかけようとした瞬間、右足が滑った。間一髪のところで飛び移り、バルコニーの手すりにしがみつく。よじ登って内側に入り、桜羽はその場に座り込んだ。

「やった……」

 落ちるかと思い、肝が冷えた。

 上がった息を整えてから立ち上がり、窓から部屋の中を窺う。

 こちらも洋室だったが、桜羽があてがわれた部屋よりも広く、家具も一通り揃っていた。てんがいのついていない寝台に、誰かが眠っている。このように立派な部屋を使うのは、邸の主人──焰良に違いない。

 そっと掃き出し窓に触れると、難なく開いた。

かぎをかけていないなんて不用心ね。まさか私が、壁伝いにバルコニーに飛び移って、忍び込んで来るなんて思っていなかったのかもしれないけれど)

 められているようでムッとしながらも、するりと中に忍び込む。

 足音を立てないように寝台に近付いてみると、やはりそこで眠っていたのは焰良だった。

 目を閉じている焰良の顔を見下ろす。

 鬼の頭領の首を取る絶好の機会。

 桜羽はポケットから箸を取り出し、握りしめた。焰良の浴衣ゆかたの襟元がはだけていて、喉仏が見えている。一気に突き刺せば、きっと殺せる。

 けれど、なぜか手が震えて目標が定まらない。陰陽寮の一員とはいえ、桜羽はいまだあやかしを狩った経験がない。誰かを傷つけたことのない桜羽が抵抗を感じるのも当然だ。しかも、鬼は人と変わらない姿をしている。

(この鬼は明治政府の敵。お母さんのかたき。殺さないと……)

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