第一章⑤
「な、何をするのよっ! 破廉恥な!」
青年に抱き上げられたのだと気付き、桜羽は悲鳴のような声で抗議をした。身内でも婚約者でもない男性が、未婚の女子にこのような形で触れるなど、非常識極まりない。
「もうじき開演だ。ここで騒がれるのは困る」
「ちょ、ちょっと! 離して! 離しなさい!」
腕の中から逃れようと手足をばたつかせた桜羽を、青年はさらに強く抱え込んだ。
「暴れたら落ちるぞ。それに周りの客のことも考えろ」
桜羽が振り回した足が近くの椅子に当たり、座っていた婦人が迷惑そうな顔をしている。確かに、ここで暴れるのは非常識だと、桜羽は動きを止めた。
「わかったわ。おとなしくするから下ろして」
抑えた声音で頼んだが、青年は無表情のまま「断る」と答えた。
「お前の気性を見ると、本当におとなしくするのかどうか、いまいち信用できない。こちらから危害を加えるつもりはないから、じっとしていろ。俺はお前と話がしたいだけだ」
青年は桜羽を横抱きにしたまま客席の間を通り抜けると、玄関広間に入った。
広間で忙しく立ち働いていた女性案内係たちが、青年の腕の中にいる桜羽に気付き、驚いた顔をする。
「お疲れ様です、支配人。その方は?」
一人の案内係が近付いてきて、桜羽の身につけている制服や刀に、ちらちらと目を向けながら、不安そうに尋ねた。
(この姿を見れば、誰にだって、私が陰陽師だとわかる)
桜羽を恐れている様子の彼女に向かい、青年は平然と答えた。
「俺の客人だ。気にするな」
「あなたの客人になった覚えはないわ! 客席を出たのだから、下ろしてよ!」
桜羽が
「うるさいな。あまり
今、彼は桜羽を抱えていて、両手が塞がっている。口など塞げるはずがない──と考えて、はっと気が付いた。
「何を言うのっ……」
「うぶだな」
「~~~っ!」
桜羽は確かに色恋には疎いが、初対面の相手から
(腹の立つ男!)
荒れ狂う桜羽の心中とは反対に、青年は軽やかな足取りで広間の階段を上がっていく。三階に
(支配人……さっき、案内係の女の人も、この人のことをそう呼んでいたわ)
青年は慣れた様子で支配人室に入ると、
桜羽は注意深く周囲を見回した。
部屋の中には、桜羽が座っている応接用とおぼしき長椅子の他に、重厚な事務机があった。壁一面には天井まで届く本棚があり、隙間なく書籍が詰め込まれている。海外の書籍が多いようだ。
青年は桜羽の目の前に立つと、
「俺は華劇座の支配人だ。陰陽師であるお前が、ここにいた理由を教えてくれ」
と問いかけた。
「陰陽寮が追っている鬼女が、関係者入り口から中に入っていくところを見たのよ。彼女はこの劇場の案内係ね? こちらに引き渡しなさい」
桜羽は座ったまま青年を見上げ、きつい声音で命じた。
「見間違いだろう。華劇座に鬼などいない」
「あのように美しい女、見間違うはずがないわ」
頑として言い張る桜羽に、青年が「やれやれ」と肩を
「あなた、鬼女を
挑発的に笑うと、青年の
「随分横暴なことを言う」
鋭いまなざしを向けられて、桜羽も負けじと
(あら?)
青年の瞳を見つめていたら、ふと違和感を覚えた。
何かがおかしい。彼の瞳に妙な不自然さがある。眼鏡が邪魔だ。もっとそばで
桜羽は手を伸ばし、彼の眼鏡を素早く取り上げた。
桜羽の動きが予想外だったのか、驚いて身を引こうとした青年の頰に手が当たる。その瞬間、
「その目……あなた、鬼だったのね」
彼の髪の色までが赤く変わっていく様子を見つつ、桜羽は警戒しながらつぶやいた。どこか頭の隅で予想していたのか、「やはり」と納得している自分がいる。
青年は
「そうか、お前の力は水……。俺の力を打ち消したか」
五行の関係に「
鬼は
(今まで、鬼の変化を解く術なんて使えなかったのだけど……)
青年の姿に不自然さを感じ、「正体を暴いてやる」という桜羽の強い意志と神力が、彼の力に反応して妖術を破ったのだろうか。
その時、不敵に笑う赤髪赤眼の彼の顔が、夢に現れる母を殺した少年の顔と重なった。
「離せ!」
桜羽は抵抗し、青年を
「じゃじゃ馬め」
(手が腰の
青年の体を押しのけようともがいていると、不意に支配人室の扉が開き、
「……何をしているのですか、
青年の肩越しに視線を向けると、扉のそばに背の高い若い男が立っていた。歳は青年よりも少し上だろうか。短く刈られた黒髪に、
「この状況を見て、色事だと思うか?
「思いませんね」
(焰良と朱士。朱士もきっと鬼だわ)
桜羽は二人の名前を記憶した。
朱士はこちらに歩み寄ってくると、焰良に組み伏せられている桜羽を見下ろした。
「この制服……陰陽師ですか」
「
「ああ、矢草を、ね……。彼女は最近派手に動いていましたから、目をつけられたのですね。この娘、どうなさるおつもりなのですか?」
「ここが陰陽寮に知られるのはまずい。俺の
「承知しました。失礼、お嬢さん」
焰良が離した桜羽の腕を、今度は朱士が摑んだ。焰良は、頭上でひとまとめにして腕を押さえられ、無防備になった桜羽の腰に手を伸ばし、ベルトに触れる。
「ちょっと、何をするの……!」
身の危険を感じて血の気が引いた桜羽だが、焰良はベルトを引き抜いただけだった。そこに通されていた小型鞄を取り外し、
「呪い札か。よく燃えそうだ」
鞄の中から全ての札を摑みだし、右手で強く握ると、焰良の手から炎が生じた。炎は札を燃やし、あっという間に灰にした。
(この鬼の力は、やはり火なのだわ)
パンパンと両手を
(相手は男二人、こちらは丸腰だけど、なんとか隙を見つけて逃げないと……)
焰良が桜羽の手首にベルトを巻き付け始める。動けないように拘束し終えると、満足げな笑みを浮かべた。
「これでよし。朱士、離していいぞ」
自分が身につけていたベルトで手首を縛り上げられるなんてと、桜羽は屈辱的な気持ちで唇を
「朱士、表に馬車を用意しろ。それから、そこの物騒なものは回収しておけ」
桜羽の刀を拾い、朱士は一礼すると、足早に支配人室を出ていった。
「さて」
焰良は長椅子に転がされたままの桜羽に向き直ると、体の下に腕を差し込んだ。ここへ運んできた時と同じように軽々と抱き上げる。
「行くとしようか、お姫様」
劇場の前に着けられた馬車に乗り込み、連れて来られた先は
上部に色つき
(冬真様が今の私をご覧になったら、なんておっしゃるか……)
物音に気が付いたのか、邸の奥からぱたぱたと足音が近付いてきた。
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