恋文

 まだまだ夏の暑い日が続き、口に氷を含んで涼んだりしながら、気分転換も兼ねた家の整理をしていると、ある日の昼、私は父の書斎で一枚の古い写真を見つけた。それは若い頃の父を写したもののようで、隣には友人らしき歳の近い青年も一人いた。私はつい片付けの手も止めて、御学友とのものかしらと思いじっと眺めていると、床に積まれた本の埃を払っていた古株の女中のミツがいつの間にかそばに来て、

「旦那さまですか?」

 と訊ねてきた。

「そうみたい」

 私は彼女にもよく見えるよう写真をそっと寄せてやると、

「まあ、お若い!」

 ミツは白い頬をほの赤くして声を上げる。

「お隣はどなたかしら? 見覚えがある気がするのだけど」

「きっと軍隊とか、病院の偉い方でしょう。三宅みやけさまとは違いますか? お耳の感じが似ています」

 そう言ってミツは青年の耳を指し示した。

 三宅さまと言うと、かつては軍医将校だった御方で、今は軍隊を退き安天堂あんてんどうという医院を開業されている。我が家にも遊びにいらしたことがあり、その賑やかで気さくな性格による弾むような喋り方は聞いていてとても楽しかったが、ある時だけ、それが懺悔のような湿り気を帯びたことがあった。

「お嬢さんね、人間がするので最も愚かな行為とは一体なんだと思います?」

「ううん、なんでしょう」

「それはねえ、戦争ですよ。僕が言うのもおかしな話だが、あれは本当に、ひどいもんだ」

 この時の三宅さまは父の開けたウイスキーを片手にずいぶんと酔っている様子だった。頬骨の目立つ顔の輪郭は少し浮腫んで、下瞼に薄く涙が乗っているのが見えた。

「僕は医者ですから、兵士が負傷したら治さなくっちゃならない。柘榴みたいに割れた傷を綺麗に洗ったり、縫いつけたり、添え木したり、包帯を巻いたりして。治すまでもなく死んでしまう人もいたが、生きてしまったらもう戦いに行くしかない。僕らはね、命からがら生き残った人に、また戦場に戻って死ねと、そうやって送り出していたんです」

 三宅さまは徐々に声音を昂ぶらせる。実際にこの目で見たわけでもないのに、私の頭の中にはありありとその光景が浮かんでくるようだった。そばの椅子に腰掛け、同じようにウイスキーを舐めていた父は、三宅さまの話を咎めるのかと思えばただ黙って聞くのみで、もしかすると、父にも思うところがあるのかもしれなかった。

「ある若い兵士なんかはね、あれは、本当に可哀想だった。敵の砲弾が近くに落ちたらしく、腹から臓物があふれたまんま運ばれてきて……。もはや呻く力もない、息をするのでやっとなのを、一体誰が助けられますか。あの時の僕らには全てがどうしようもなかった。どうしようもなかったんだ……」

 目を閉じながら三宅さまは空を仰いでいた。濡れた下唇に当たる光は、ぼやけたり、はっきりしたりを繰り返しながら、ぷるぷるとかすかに震えていた。

「戦争が終わっても兵士から戻れず、戦いを忘れるために毎晩のように呑んだくれては、家族を怒鳴りつけたりする男もいる。僕はね、軍隊なんかやめるつもりですよ。やめて東京に医院を開くんだ。こんなこと、お嬢さんに聞かせる話じゃなかったかね」

 重たい瞼の奥でふちの赤い黒目がこちらに向けられ、私は咄嗟に、

「いいえ、とんでもないですわ」

 と小さく叫んだが、このあと何を言えばいいかわからなくてやっぱり黙ってしまい、そんな自分の浅慮さを今でも後悔している。

 三宅さまは医院を開業されてからはそちらが忙しいようで、我が家で見ることは殆どなくなってしまったが、このあいだの荻野氏宅から帰る途中には御子息とばったり会う機会があった。この男性も昔からひょうきんな性格で、今思い出すと確かに三宅さまの若い頃と顔の形がよく似ているのだ。私が父に瓜二つであるように血の繋がりというのは抗いようがないのかもしれない。蛙の子は蛙ということわざがあるように、ひょうきんな人の子はひょうきんに、おとなしげな人の子はおとなしげに、激情家の子は激情家になるのだとしたら、それは何だかひどい話にも思えた。

 写真に重しを乗せて机に置くと書斎の窓を開ける。庭を抜けてきた草いきれが部屋の埃臭さを押し出すように吹き込み、私の夏の薄い着物の裾を白く捲り上げた。もみあげの柔らかい後毛を耳にかける。ミツに、「そろそろお昼にしたいわ」と言って部屋の片付けを切り上げさせ簡単に昼食を作ってもらうと、その頃丁度保典が帰ってきたので、今日は天気も良いからと庭に面した座敷で一緒に食事をすることにした。そこは、草葉から照り返した光が部屋の薄闇に溶けて青くなり、外気に対してやけに涼しげだった。池の近くのムクゲの白い花が眩しかった。保典は縁側を向いて座布団に座り込みながらミツの握ったおにぎりにかぶりつくと、それを飲み込んでから、

「親父の部屋を綺麗にしてたんだってね」

 と言った。家に、父に、現実のままならなさに抵抗して日々不良みたいな生活を送っているのに、むかし散々父に躾けられた「口にものを入れたまま喋らない」という決まり事を未だに守り続けている弟が、どこか切なかった。

「そうね。このあとは他の部屋もするつもり」

「兄さんの部屋も?」保典が訊いた。

「あの部屋もね。きっと埃かぶっているだろうから……」

「よせよせ。姉さんみたいなのがやるとまるでままごとだ。無駄なことだ」

「なんてことを言うの。ひどいじゃない」

「ひどいのはそっちさ。僕のことを未練たらしいとか思っているんだろうけど、姉さんだって昔が懐かしいんじゃないか。親父なんか一番そうだ、あいつは荻野のおじさんと……」

 とさらに不満を言いかけた口がハッとして不機嫌な形のまま閉じる。苦虫を噛み潰したような顔の保典からもう一人の父の名前を確かにこの耳に聞き、私は殆ど反射でそれを繰り返した。「正二さんが、なに?」

「別に、なんでもない」

「なんでもないことないでしょう」

「だって、わからない、関係ないかもしれない。僕がそう思っているだけで」保典が早口に言う。

「まず何なのか、話してちょうだい」

 私が落ち着いて促すと、保典は幾分か顔に浮かぶ緊張を和らげて息をした。

「手紙を読んだんだ。親父の部屋で」

「またそんなこと。盗んだの?」

「違う。いや、違わないけど。とにかく、この前こっそり部屋に入って、金か酒か、何かないかと思って。その時、親父の大切なものをしまう引き出しがあるだろう? あそこの鍵を開けたんだ、そしたら、見つけて」

「読んだのね……」

「うん。恋文だった」

 私はそれを聞いて、まさか、と思い首を横に振った。瞬間、頭に閃光のように浮かぶ。坊主の、厳しい、色男。美しい父はその人を見て、凶暴な何かに、変貌するのだ。

「その恋文と、正二さんと、一体どう繋がりがあるって言うの?」

「送り主に『正』と書いてあった」

「セイ?」

「正の字のセイだよ。母さんの名前に正の字はない」

「それは本当に、正二さんなの?」

「わからないよ。でもきっとそうじゃないか。だってあの二人だもの」

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