「大袈裟でいい。生きるのは大袈裟なんだ。だからみんなジタバタしているんだよ」

 荻野氏と桃を食べた日からまた一つ二つとそう言う話が浮いて出たが私はこれも断り、女学校卒業も間近という頃にいただいた縁談でようやく受けて、長岡ながおかさまという、十歳ほど離れた帝大卒の英語教師の方と結婚した。

 長岡さまは賢くて話の上手な方だったから、その生活は最初こそ楽しかったが、彼の芸者遊びが日増しに酷くなってくると、なんだかどんどん惨めで嫌になって来て、私は幼い息子を長岡に一人残し、とうとう離縁した。それは結婚して五年目の春のことだった。

 出戻ったことに存外父は特に何か言うでもなかったが、私は肩身が狭い気持ちでいた。と言うのも、大学を出た優秀な兄が結核で亡くなり、その影響でか、弟の保典やすのりが学校もろくに行かず寄席や帝劇浸りになっていたからである。すでに大変な状況なのに、加えてひとり娘が離縁したとなれば家の空気も必然重苦しくなるだろう。保典はそれでも、このことを真正面に受け止めようとはせず、どこか父のせいにして何とか正気を保っている節があるのだった。

「全くつまらないよ。兄さんは肺を悪くして死んじまうし、姉さんは出戻って来ちまうし。そもそも、母さんをこの家から追い出してから僕らは可笑しくなったんだ。親父もばあさんも、母さんを悪者にして。あの人は独りぼっちのまんま、死んじまった。兄さんだって死んじまった。全く、つまらない。つまらねえなぁ」

 母親譲りの白い顔を近頃はもっと青白くして、保典はどこかに逃げるように出かけて行く生活を繰り返している。私はと言うと、特に職を探すでもなく、家の庭の手入れをしたり、家族の食事を作ったり、時折兄に借りて昔読んだ本を読み返したり、やっぱりそういうつまらない毎日を過ごした。

 ある日八百屋で安く売っていた桃を買い、夕食の後に出して家族みんなで食べていると、ふと保典が、

「桃を食べると荻野のおじさんを思い出す。あの年はどこの店で買っても美味かったなぁ。僕は煮るより生の方が好きだったんだぜ」

 と言って、恐らく弟にとって一番幸福だった時期を懐かしんだ。

 私は荻野氏の名を聞き、すぐに最後に見た彼の顔を頭に思い浮かべた。坊主頭の、厳しい、色男。実際はもっと歳を食っているのだろう。年寄り臭く白い髭を生やしていたりするのかも知れない。私は急に恋しい気持ちになって、父に荻野氏のことを訊ねると、彼は今もあの長屋に一人で暮らしていると言う。

「本当に仲がよろしいのね。お父さまはお顔が広くて人との交流もお好きでらっしゃるけど、正二さんとが一番頻繁じゃないかしら」

「私らは子供時分からの付き合いだから。そう容易く途切れるものでなし、死ぬまでの仲だろう。いや、来世か、そのまた来世か……」

 久しぶりに父の顔が笑ったのが嬉しくて、私は胸に積もっていた不安の雪が少し軽くなり、その日の夜は安らかに眠ることができた。

 次の日、私は家でずっと引きこもっているのも退屈だったので、何年かぶりに荻野氏に会いに行こうと思い立った。あの人の好物である獅子屋の羊羹を手土産に買い、日傘を差しながら長屋に赴くと、数年に亘る親交の空白を感じさせぬ態度で荻野氏は私を快く迎えてくれた。

「やあ、よく来た」

 年老いてこれほど婉然になる人がいるのか、と驚くほどに、彼はあの日の清貧さを失わず、時を経て再び私に激しい情欲を思い出させた。同じ歳の頃の年寄りなら骨が浮いては見えずとも肉体だって痩せていそうなものだが、荻野氏はしなやかに筋肉の張りを保ちつつ均整の取れた脂肪の層を蓄えて、どんな美人より艶かしい美人であった。

「お久しぶりでございます、正二さん。会うのはいつぶりかしら」

「さあどうだったか、爺は忘れっぽいからな。まあまず、徳子さん、お座りなさい。今お茶を出そう」

 荻野氏はつと立ち上がって、土間の勝手に一二歩歩いた。私はそれを急いで目で追いながら、

「あのよろしかったらこれ、つまらないものですけど……」

 と渡しそびれそうになった土産をさっと差し出した。すると彼は箱の屋号を見るなりほのかに笑んで、嬉しげな声を上げた。

「おお、羊羹か。丁度食べたいと思っていたんだ。ありがたくいただこう」

 荻野氏は少ししてから湯と茶葉を詰めた急須と切り分けた羊羹とを持って畳に戻ってくると、ちゃぶ台前に腰を落ち着けて、まず私に茶を注ぎ、次に自身に注いだ。取っ手を掴む節くれだった太い手は最近の日照りによってか淡く日に焼け、よく見ると首元も衿の形に肌色が違っているのがわかった。私はそんなことでなんだか、遠い故郷にやっと帰って来たような気持ちになったのだった。

「正二さんは今もお店をしているの?」

「勿論。学生が多くて、毎日賑やかだ」

「そう、それは良いことね」

「徳子さんはどうか? 帝大卒のお坊ちゃんに嫁いだと聞いたが」

「私は、……」

 言いかけて、本当のことを言うか言うまいか、迷った。まさか夫の芸者遊びが嫌で離縁したなんて言うのは情けなく、いっそ里帰りと言うことにしてしまおうかと一瞬思ったが、しかしやっぱりこの人の前では誠実でありたいと思い直し、

「出戻ったの」

 と私は静かに答えた。

「そうかい。それは、大変だった」

 荻野氏は何でもないことのように頷くと、ただ茶を啜った。大抵の人はそれとなく探りを入れそうなものなのに、彼は出戻ることになった訳もさっぱり聞いてこないのがより私を惨めにしてきて、居た堪れなくなって、

「きっと私がわがままだからよ」

 とつい頼まれてもいない言い訳をした。

「ずけずけとものを言うし、お皿は割るし、寝坊もしょっちゅうだったもの。それを夫に叱られることも、またしょっちゅう……」

「確かにあなたは昔からわがままだった」

「やっぱり」

「だがそれより場所が良くなかったんだろう。徳子さんは妻というより、学者だから」

 荻野氏は言って、それが次第に尤もらしい響きを持って聞こえてくるから、私は不思議な心持ちになる。

「また学者なんて、大袈裟ね」

「大袈裟でいい。生きるのは大袈裟なんだ。だからみんなジタバタしているんだよ」

 彼は柔らかく笑った口で、一切れのまた半分になった羊羹を噛んだ。真似して私もかけらを口にしたら、ほの甘くて、少し泣きたくなった。

 荻野氏の言うジタバタが本当なら、お母様がいなくなって、兄さんが亡くなって、私が出戻って来て、それなのにお父様、何もおっしゃらなくて、お家が暗くなって、保典が遊び歩いているのだって、生きるのが大袈裟だからと言うことかしら。荻野氏が妻子を持たずに美しい父とだけ親交を持ち続けて、二人して朝になってから帰って来ていたのも、ジタバタだったと言うことかしら。

「ねえ、正二さん」

 私は菓子切りを皿に置き、彼のすぐそばで座り直すと、

「抱きしめてくださる?」

 と言った。

 すると荻野氏は息を呑んで、難しい顔をしてから仕方なさそうに、ゆっくり私の体を抱き寄せた。昔より存外薄くなっていた胸板からは変わらぬ石鹸の匂いがして、このままこの人の腕の中にいたい気持ちと、押し倒して困らせてやりたい気持ちとが鬩ぎ合う。夫と同じ布団で寝た時にもこんな気持ちにはならなかったのに、私は、父親とも呼べる人に、こんな時にも欲情する淫靡な女だった。

「またあなたに恋してもいいかしら」

 聞いてみたら、その時の顔は見えなかったけれども、荻野氏は微かに笑ったような気がして、

「好きになさい」

 と優しく私の背を摩った。

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