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「お徳、パパが迎えに来たよ」

 秘密の思いつきを胸にしまってからしばらくすると、土間より引き戸を隔てた外からふと父の声が家の中に響いてきた。「正二入るぞ」と言うなり父は家主の許可を得るより先に引き戸を開けて長屋へと足を踏み入れたのだが、この横暴には荻野氏ももう慣れたもので、特別気にする様子もなく私の手を引いて父を出迎えた。父の背越しに見えたわずかな空は飴色の帯が滲み出していた。

「あなたが来るなんて珍しいこともあるものだ。俺はおきよさんが来るとばかり……」

「清は先日遠方に嫁に行ったので我が家にはもういない。正二にも挨拶してから去りたいと言っていたが、何せ支度に慌ただしかったので泣く泣く断念したというわけだ。私より清の方が都合が良かったか? お前たちはそれほど顔を合わせてもいないのに、随分と仲が良かったものな」

 わざと唇をつんと尖らせながら父は荻野氏に言った。

 時折惜し気もなく振る舞われる父の幼さには心底驚かされる。それは羞恥心や情けなさとか言った悪いものから引き起こされるのではなくて、人によっては見っともなくなるような振る舞いが父にかかれば嫌味のない愛らしさになるから、私は毎度、その器用さに飽きもせず驚いているのである。

 荻野氏は私の背にそっと手を添えながら幼げな父に言った。

「別に女中でも父親でも祖父母でも、徳子さんをきちんと迎えに来てくれるなら俺は誰だって構わない。みんなおんなじだ。どら、お父様、茶でも一杯飲んでくか」

「嬉しい誘いだが、今日は遠慮しよう。お徳の稽古があるんだ。また今度いただきたく思う、悪いけれども」

「勝手に家に上がり込んでくる男が茶を出す気遣いには謝るのか。おかしな奴だな」

 荻野氏は丸い小鼻の脇にやや濃い皺を浮かせると胸の中で溶かすようにくつくつと笑った。薄緑と焦茶が混じった彼の明るい瞳は西日が差して澄んだ川面のように光っている。それを捉えた目の端では私の細い後れ毛がゆるく揺れていた。

「帰ろう、徳子」

 差し出された父の分厚い手を握ると私は荻野氏の長屋を後にした。途中、父は私の頬を見てあの人と同じくやっぱり厳しく咎めたが、声音の優しさは失わなかった。それよりも、タバコ屋の角を曲がっていよいよ荻野氏の姿も見えなくなるといった頃に振り返った父の目の方がよっぽど恐ろしい気がした。荻野氏が柔らかに肉を残して艶かしく老いるごとに、美しい父の内にある“激情”はさらに凶暴さを増しているようだった。

 高等女学校に入学すると私はますます父に似て来た。容姿に厳しい祖母さえ思わず息を呑むほど洗練された作りの瓜実顔で、中でも目元は特に繊細を極めている。すっと切り込まれた目尻の優美さは起き抜けの鏡を前にした時、自分でもハッとするほど父の生き写しだ。朝食を摂る時などにしても、ただうつむき加減に小鉢のおひたしを摘んでいるだけで一歳離れた弟が、「姉さんは牡丹のように美しいが、恐ろしいな」と言う。時折家にやって来る父のお客様も、その殆どが私を見るなり少し黙ってから父を見やる。この顔と家柄とが徐々に広まり始めてからは実に様々な縁談の話がやって来たものだが、私は一向に結婚する気になどなれなかった。

 私は荻野氏に夢中であった。一度あの人を思い浮かべてしまえば、どんな美丈夫も冴えない凡夫に成り下がった。とは言え荻野氏が絶世の美貌を持つ人なのかと聞かれると決してそうではない。彼も見目に関しては凡夫であった。それでも荻野氏が他の凡夫と違うと言い切れるのは、彼には天性の魔性があったからだという他ない。ただの男ならば、額に垂れる汗を袖で大雑把に拭ったとて色香を出せるものではないし、喉を鳴らして水を飲んだとてこれもまた生活にある一部の動作としか思われぬだろう。荻野氏の魔性たる所以はここにあり、彼はつまり、何をしても劇的なのである。

 しかしその劇的と言うのは我が父の華やかさとは反対の素朴さがあればこそというものだった。贅沢な正絹より、草臥れた木綿。長たらしく伸ばした髪より、清々しさすらある坊主頭。手入れされたすべすべの指先より、ささくれ立った硬い指先。清潔さだけを気にとめ、装いに何ら頓着せぬ清貧で健気な姿勢が彼のさっぱりした性分を端的に表しているようで、私はたまらなく情欲が湧いた。あの澄ました顔をどうにか歪めてやりたく、泣かせてやりたく、困らせてやりたく、あの肉感的な体を芯まで暴いてやりたく、乱してやりたく、ああしかしきっとこれは、五十路にも差し掛かる男に、あるいは父のような存在に抱く感情として相応しくないのだ。そう思えば思うほどに、身の内に渦巻く欲という欲もますます肥大していった。

 父から勧められた縁談を二、三件ほど断った頃だったか、荻野氏が我が家を訪ねて来たことがあった。知り合いから桃を沢山貰ったらしく、流石に一人では食べきれないのでお裾分けに来たということだった。私は不在の父に代わり彼を客間まで案内すると、途中すれ違った女中の一人にいただいた桃を剥いて運んできてくれるよう頼んだ。少し経ってから紅茶と一緒になって運ばれて来たほの白い剥き桃は、自然のみずみずしく甘い香りが爽やかで、一切れ口に入れてみると私の乾いた喉を優しく潤してくれた。

「山梨で採れたものだ。今年は特に出来が良いそうだよ」

「どうりで美味しいです。新鮮で、甘くって。ちょっと前までお家では、なんでも生のまま食べられなかったもんだから」

 私が言うと、荻野氏は短いまつ毛をパッと上に向けて、

「お父さまか?」

 と訳知りに訊ねた。私はゆっくり頷いて答えた。

「水菓子なんか全部甘く煮てしまうから、私、正二さんのところでいただくまで本当の味を知らなかったの」

「そうだったか。細菌学だか、衛生学だか、俺には難しいことなぞよくわからんが、生のままでもぴんぴん生きてる人間がそばにいると言うのにな。相変わらずあの人は極端だ」

 荻野氏はフォークで器用に桃を掬うと自身の口へつるりと滑り込ませた。甘い汁でてらてら光る薄い唇は舐めてしまいたいほど官能的で、私は、汁を拭うように隙間からチロチロはみ出す赤い舌ごと噛みつきたいような気分になった。どうしてかこの人は、他人が見惚れる私の食事のいただき方に目もくれないどころか、反対に私の目を奪うのだった。

「縁談をお断りしたそうじゃないか」

 荻野氏はそんな私の情欲にも気づかずに、やっぱり清潔な感じでお話を続ける。

「ご存じでらしたの?」

 私が驚いて聞き返すと、

「あなたのお父さまから聞いた」と彼は何でもなさそうに答えた。

「まあ! お父さまったらお口が軽いのね」

 荻野氏にだけは知られたくなかったことを父によってさっさと流されていたことと知り、私はその時あの美しい人をちょっとだけ恨んだ。

「どうして断る? 悪い話じゃないんだろう」

「悪くないです、悪くないけど、違うの」

「お勉強のことか? 徳子さんは賢いから、夫の世話に身を費やすだけでは確かに退屈かもしれない」

 荻野氏はまた一切れ桃を頬張って、リスみたいに片頬を小さく膨らませた。私は何となく、それを愛しく思った。

「いいえ、それとも違うの。私はね、結婚なんかしたくないの。するんなら正二さんとが良いの」

 思い切って言ってみたら、その途端彼は面食らったような顔になった。そうして紅茶を口元に運ぶ手を止めて、

「それは、いけない」

 と緑がかったの目で私を見つめた。

「なぜ?」

 私は聞いた。すると彼は元々の厳しい顔立ちをもっと顰めて低く言った。

「あなたは友人の娘だ。良家の子女だ。冗談でもそんなことを言うのはよしなさい」

「冗談なんかじゃない。本気よ」

「なら余計にいけない。こんなふうに貧しく老いた醜男など犬も食わないぞ」

「私は犬じゃないもの」

「またそんな屁理屈を」

「じゃあどうしていつまでも独身なの? 正二さんに奥さんや子供の一人でもいてくれたら、私だって今とはきっと違っていました!」

 いつの間にか机に前のめりになっていた私は、殆ど八つ当たりみたいに荻野氏に吠えた。あんまり大きな声だったので、近くにいたらしい若い女中の一人が客間にすっ飛んできて、「どうかされました?」と心配そうにたずねる。私はそれに何とか言って誤魔化し、謝って、また何事もなく仕事に戻らせた。

 女中を見送り、再び椅子に落ち着いて腰掛けようとすると、

「あなたは本当にお父さまと似ている」

 荻野氏は私にそんなことを言った。彼はうつむきがちに英国風のティーカップの縁を親指で二、三度撫でていた。

「時々目の前にいるのがあの人ではないかと錯覚してしまうほど」

「正二さんも、兄さんや弟の保典のように私を恐ろしいって言うの」

「ううん……」

 先ほどとは打って変わって、彼は私の言ったことを反芻すると、なんだか楽しそうにコロコロ喉を弾ませてこう言った。

「あなたたち親子は人より少し素直なだけだ。獅子のような姿をしているから皆が怖がるだけで、本当は誰より可愛らしい」

 今度は私が面食らう番だった。肋の中が急に煮えたように熱くなった。荻野氏は声が良いし、言葉の発音も綺麗だから、どんなキザでも品があって聞こえた。

「美しい人は恐ろしくて良いんだ。恐ろしいから、美しいんだ」

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