美しい人の話
1
父は苛烈な牡丹である。覇気ある見目の麗しさは人々をたちまち惚けさせるだけでなく、激情家たるその人格を人の記憶へより色濃く残すことさえ助けてきた。そんな彼を間近に見てまんまと気圧されたことで、「地獄の閻魔も震える鬼」などと喩える父の古くからの知人もいるようだが、一概にそうと言い切ってしまうには、父はちょっと優しい。
彼の姿形から作った鋳型に骨と肉とを流し込んで生まれたかのような私は、親類から蝶よ花よと大切にされて育ってきた。特に父は自分に瓜二つだったこともあり、用のある無しに関わらず、
父に負けず劣らず器量良しと評判だった母との夫婦仲は良好であったものの、父方の祖母と母の折り合いの悪さを原因に離縁すると、まだ五つになるかならぬかの私は父に引き取られたのち、十になる頃まで町の方で飯屋を営む
「徳子さんといると、なんだかあなたのお父さまが小さかった頃を思い出す」
腫れた私の瞼に氷嚢を当てながら言ったその言葉通り、荻野氏と父は子供時分からの付き合いだったらしい。故にか、彼と会う時の父はどこか知らない人のように思えることもあった。私の前では精悍で美しかった横顔も、一たび荻野氏を目に入れれば背筋が凍るほど凶暴な何かになるのである。あれは、一体何だろう。そう思っても幼い私にわかることなどは限られていて、恐らくあの凶暴な何かが、人が父を見て言う鬼なのかも知れないと一人で考えたりもした。父の中の鬼は時折思い出したかのように姿を表すと荻野氏を連れて、どこか(恐らく飲み屋か何かだろう)に出掛けていったが、朝になってから帰宅する荻野氏がきちんと五体満足であるか、どこかに牙の跡がないかを確認しては、毎回ほっと胸を撫で下ろしていたのも今では懐かしい話である。
十を過ぎて生家に戻ってもなお、私は荻野氏の元へと足繁く通っていた。兄のドイツ留学に影響されてからというもの、私は辞書を片手に引きながら外国の本をいくつも読み耽っていて、始めは家の人間もすぐに飽きるだろうという考えだったのか、それを好きにやらせてくれていたが、お琴や書道などの習い事が疎かになってくると次第に口出ししてくるようになり、それが本当に鬱陶しく、だから逃亡するためにその人の元に身を寄せるようになったのだった。
荻野氏も私が家にやって来れば、「お父さまが悲しんでおられるぞ」と小言を言いつつ水菓子を剥いて匿ってくれるので、その優しさに甘えていた節はある。彼に妻子がいなかったことも気軽さに拍車をかけていたのは明白だろう。また、この頃の私が彼に対して淡い慕情を抱いていたのも理由として否めない。
勿論、荻野氏は私を旧友の娘としか見ていなかった。だからこの恋を淡い慕情としたのだが、実際の私自身にあったのはこれよりさらに苛烈な、それこそ「激情」とも呼べる代物であったことは今なら容易にわかる。
実父よりも幾つか歳が上の、五分刈りに白がまばらに混じり始めた、まるで父のような人に向ける感情としては、些か相応しくないのかもしれない。慎み深い母や祖母からすれば下品であると嫌悪すらされることだろう。普段それほど笑わぬ荻野氏が、あどけなく顔をくしゃりとするたびに私の中に渦巻くのは、そういう美しくない感情だった。
いつだったか、学校の帰り道に上級生からいじめられていた弟を庇って頬を擦りむいたことがある。私は傷をこしらえたまま普段通り荻野氏宅を訪ねると、その傷を見た彼は後ろにひっくり返りそうなほどの大驚きで、
「どこのどいつがやったんだ!」
と怒り心頭に発したかと思えば、
「可哀想に、傷が残らなければいいが……」
急に弱々しい声を出しながら、太い指の背で壊れ物に触れるように私の頬を撫ぜるという百面相だった。
私のために顔色を忙しく変える荻野氏のその様子は、当時の私に不思議な興奮を覚えさせた。今思えば、ここが私の「激情」を決定づけた瞬間だったかもわからない。腹の中から四肢に流れる粘ついた血を、凄まじい勢いで熱く末端まで沸き立たせるようなそれに身を任せて、目の前の男の指を付け根まで舐ったあとに噛みつきたいとさえ思った。私は荻野氏の手首から浮き出る太い静脈を辿って白く硬い指先を握り込むと、それを柔く解きほぐすように揉んだ。瞬時に、これは良くない感情だと理解した末での行動だった。
「正二さん、これは勲章です」
そう言った自分の声にある隠しきれない重い熱に外気は少し冷たく感じた。
「勲章? 一体全体どういうことだ」荻野氏は戸惑ったように言った。
「私ね、弟を上級生たちから守ったの。だからこの傷はただの傷じゃなくって勲章なの」と私は笑った。
すると荻野氏は息を呑んで、
「こりゃあ、たまげた。こんなお転婆は、久しぶりだ」
額から頭をざりと撫で上げながら目を丸くし、少しの間だけ私(あるいは頬の傷)を眺めると、はあと膨らんでいた胸を沈ませた。その仕草にもまた私がじっと見惚れていれば、彼はついと立ち上がり、奥の箪笥から丸い小さな缶を持ちだして、再び私の前に腰を据えた。いつになく真剣な顔になったその人は、「顔をみせなさい」と心地よく空気の揺れる低い声で言いながら、右手の薬指で缶の中の軟膏を掬った。お叱りの前兆だ、といち早く感じ取った私は、堂々と張っていた胸もみるみる小さく丸めて、微かに赤みの差した頬を荻野氏に大人しくそっと差し出した。
「怒ってる?」
「少しだけな」
「本当かしら」
「本当だ。よくやったとも思ってる。けれどあまり危ないことはするもんじゃない。あなたたちのどちらが傷ついても、お父さまたちはきっと悲しまれる。大切なんだよ。わかるか?」
「それは、正二さんも、そうなの?」
気になって、やや上目遣いに荻野氏を仰ぎ見て私がそう訊ねると、彼は間髪を入れずに「大切だ」と答えるのだった。私は、軟膏と共に薄く広がる彼の指の温度がそのまま自分の頬の温度になってゆく気がして、たまらなかった。
「俺は徳子さんのことが一ばん心配だよ」と荻野氏が厳しく言った。「なぜ?」と私は首を傾げた。
「なぜって、お父さまに似てだらしのないところがあるだろう。あの人もそれをわかっていながら直そうとしないんだから困ったものだ。いいか? いつまでも女中が身の回りを世話してくれるとは限らないんだぞ」
どこかの家で焚いている線香の匂いが鼻に掠める。それは荻野氏にも染みついたものであったから、その匂いがある限りは、彼からそんな話をされたところでちっとも現実味がわかなかった。私は軽い調子で、
「お家が傾いたらってお話? その時は正二さんのとこに行きます」
と宣言したら、急に荻野氏が、
「来るのはいいが、なあ徳子さん、俺にだって寿命はあると言う話をしているんだよ」
と切ないことを言って私を無理やり現実に近づけようとするので、冬の首筋に冷たい手のひらを当てられた時のような心地を思い出し苛立った。私はつっけんどんに言った。
「そうなったら、いよいよ私も、死ぬ」
すると荻野氏は「馬鹿なことを言うな!」と凄んだ。そうして、「あなたは生きなきゃならない。死ぬなんて絶対許さないぞ」と私に強く言い聞かせた。
「だったら、正二さんもそんな話、私にしないでちょうだい」
私は腹立たしさに荻野氏を睨みつけた。「意地悪ね!」
子猫の悲鳴にも似たか細い声は節々が涙に濡れていた。瞬きするといよいよ目の端から熱い滴が垂れて軟膏の膜の上を滑り、ぷるぷると小刻みに戦慄く唇の隙間に入り込んで舌を微かに辛く苦くした。荻野氏はそんな私を前にしても何ら変わらぬ態度で、「すまん」と呟くと人差し指の背で涙を拭った。
「徳子さんに泣かれると、どうにも困る」
「今更何を言うの、散々泣かせてきたくせに」
「人聞きの悪いことを言うんじゃない。俺に何度も悪戯を仕掛けてきたのはどこの誰だ」
「私ね。ええ、私よ。だからね正二さん、長生きしてね。正二さんしか叱ってくれる人、いないんだもの」
着古した木綿の着物に抱きつけば荻野氏からは石鹸と汗とよその家の線香の匂いがした。未だしなやかに隆起を保った胸板へ甘えた猫のようにぐりぐりと額を擦り付けてみると、彼は私の背に太い腕を回して赤ん坊を抱く感じであやすから、悔しくて思わず下唇を噛んだ。いっそのことその衿首ごと引っ掴んで無理やり口をくっつけて困らせてやろうかしら、などとも考えたが、現実に行動を起こせないほどには、私は荻野氏に恋をしているのだった。
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