汚れて見えた星空に

にわ冬莉

「きっと戻ってきてくださいね」

 言ってはいけない言葉だとわかってはいても、それを口にせずにはいられなかった。なんでもいい。確信など微塵もなくて構わない。ただ、約束が欲しかった。けれど。


「行って参ります」

 キリリと口元を引き締めて、あなたは約束すら、私に与えてはくれないまま背を向けた。


 それからの毎日が、どれだけ不安で、どれだけ寂しかったか、あなたにはきっとわからないでしょう。……わかってる。あなたの方がもっと、大変な日々を過ごしていたに違いない。危険と隣り合わせ。いつ命を奪われるかもわからない状況下で、きっと神経をすり減らしていたに違いない……。


 あなたのいない夜。

 あなたのいない朝。

 その声を聞きたくて、ぬくもりを感じたくて泣いた日。


 命を懸けて、あなたは旅立った。それは私のためでもあったし、私たちの未来のためでもあったのでしょう。頭では理解できている。でも、去って行くあなたの後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった私は、後悔のような、罪悪感のようなものを抱いたまま、ただ、海を眺めることしかできなかったの。


 目の前に大きく広がる母なる海。

 潮の香りを嗅ぎながら、私は思っていた。


 一緒に行けたなら、どんなによかっただろう、って。

 けれど私には……守らなきゃいけないものがある。

 あなたとの愛の結晶……私たちの子を。

 慈しみ、抱き締め、生まれてくるその時まで、私はここを離れるわけにはいかない。

 そしてあなたが戻ってきてくれたなら、きっと幸せに暮らせる未来が待っていると信じることで、つらい毎日を生き抜いていかなければならない。


 空を見上げると、星がひしめき合っている。月のない夜。星の輝きがごちゃごちゃと、まるで空を搔き回しているかのように見えた。


 あなたは今、どこにいるのでしょう?

 怪我はしていませんか?

 食事は摂れてますか?

 私のことを、想ってくれていますか――?


*****


「ふむ……」

 少しばかり難しい顔をして、原稿から視線を外す。


「まぁ、悪くはないと思うんだ。だけどさ、」

 煮え切らない、濁した言葉の向こう側に、手応えとしてはあまりよくないのだな、と認めざるを得ない状況。

「……駄目?」

 私は少し拗ねたような言い方で小首を傾げる。


「いや、駄目ってわけじゃないよ。でもさ、この時の状況を考えたら、こんな風に思うのかな、って。もっとみんな、こう『行ってこ-い!』って感じで送り出すもんなんじゃないの?」

 ああ、それはもっともな意見。だけど、


「でもっ、おかしくない? 帰ってこられるかもわからない状況でさ、自分の伴侶を送り出すんだよ? そんな簡単に割り切れるのかなぁ? 私だったら無理だし、周りがみんなそうだったとしても、実際、正直なところ『行かないで!』って思ってた可能性、あると思うんだけど?」

 なるべく感情的にならないように、ゆっくりを意識して、話す。感情論で押し付けては駄目だ。

「う~ん、それは……どうなんだろう」


 やはり男性目線と女性目線では違うのだろうか?

 私は、何の違和感もなくこう思ったのだけれど……男性目線だと、どうなる?


「例えばさ、あなたがこの立場だったとしたら、どう? 愛する妻を置いて、命懸けで出て行くんだよ? それって平気? それとも、ヒーロー症候群みたいになるのかな? 俺が世界を救うんだ、みたいな気分になって出て行くの? だから約束もしてくれないの?」

「いや、ヒーローがどうこうっていうか……」

 もじょもじょする彼を見ていると、段々腹が立ってくる。いつの世もそうやって男がハッキリと物言わぬことで、女はいらぬ不安を抱くのだ。


「私はただ、お前に会うために絶対戻ってくる、って言ってほしいんじゃないかって思ったの! だってそうじゃなきゃずっと悲しいじゃない!」

 ああ、駄目だ、段々感情が高ぶってきてしまう。

「おい、落ち着けって」

 半ば呆れたような口調で言われ、私はなんだか悲しくなってきた。

「いつもそう。私の独りよがりだ……」


「そんなこと言ってないだろ? なぁ、もう一度よく考えてみて。君が書いたコレ」

 原稿を差し出す。

「なによ」

 ムスッとしながら上目遣いで彼を見る。

「これって、なんだよね?」

「そうよ? それ以外なんだっていうのよ!」

 私は声を荒げる。


「基本的には逆。メスは卵を産んだらオスに子供を預けて海に行くの。メスが、海に行くの。待ってるのは、オス!」

「……え? そうなの?」

 あれ? どこで記憶が違ったんだ? 私はてっきり……


「種類によっては交代で海に出る種もいるけどね。まずそこから違うし、なんだかこれだけ読んでたら、ペンギンの話って分かんないし」

「わかんない……?」

 まさか、そんなことを言われるだなんて思っていなかった私、完全に項垂れる。


「結局、俺に何を伝えたかったの?」

 困った顔をする彼に、私は告げた。

「……あなた、春にはパパになります」

「ふぇっ?」

 だらしない顔で私を見る彼。


 そんな顔も好きだな、と思いながら、私は笑った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

汚れて見えた星空に にわ冬莉 @niwa-touri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画