海と母


「この前はありがとうございました」



 その声が車内に響いた瞬間、私はふとバックミラーに目をやった。後部座席に座る男性が穏やかな笑顔で私を見つめている。あの時の乗客だ。少し前、彼はタクシーの中で妻から子供ができたことをサプライズで告げられ、驚きと喜びが入り混じった様子で私にその話をしてくれたのを思い出した。



「話を聞きましたが、女の子が生まれるそうですね。おめでとうございます」と軽く微笑みながら声をかけた。



 彼は照れくさそうに頭を下げた。「ありがとうございます。いやぁ、嬉しいもんですね。でも、今日はちょっと相談したいことがあって……」



「なんなりと。お聞きしますよ」と私はすぐに答えた。



「実は娘の名前がまだ決まらなくてですね、何かいい名前が浮かばないんです。人生で一番大切な贈り物になると思うと、慎重になりすぎてしまって……。運転手さん、何か良い案はありませんか?」



 名前――。それは、確かにその子が一生背負っていくものであり、親から子への最初の、そして最も特別な贈り物だ。私は一瞬考え込みながら、フロントガラス越しに広がる夜の街を眺めた。街灯が淡い光を投げかける中、車窓の外では人々が忙しそうに行き交っている。それぞれの人生を背負い、様々な名前を持つ彼らの姿を眺めながら、ふと一つのアイデアが浮かんだ。



「海という名前はどうでしょうか?」



 彼は少し驚いたように眉を上げた。



「海、ですか?  いい名前ですね。でも、どうして海なんですか?」



 彼の問いに対して、私は自然と微笑みがこぼれた。思いがけない質問に対して、自分でも意外なほど言葉がすんなりと出てきた。



「大した理由ではないんですが……フランス語と日本語、両方で考えると、『海』と『母』には深いつながりがあるんですよ。フランス語で海は ‘mer’ と言いますが、母は ‘mère’ と言います。音が似ていて、まるで二つは切り離せない関係にあるかのように感じられます。海は、生命の母とも呼ばれますしね」



 車内が静かになり、彼は真剣な表情で私の言葉を咀嚼しているようだった。タクシーのエンジン音だけが響く中、彼はしばらく思案するように口を閉ざしていた。



「なるほど……確かに、海と母。どちらも大切なものですね。でも、それだと僕とのつながりが薄くなってしまう気がして……」



 その気持ちはよくわかる。親として、自分と子供との特別なつながりを感じさせる名前を贈りたいというのは、当然の感情だ。



「確かにおっしゃる通りです。父親であるあなたとのつながりも大切にすべきですよね。これはあくまで一つの案にすぎません。他にも素敵な名前が見つかるかもしれませんし、焦らずゆっくり考えてください」



 その言葉に彼はほっとしたのか、柔らかい笑みを浮かべた。



「いや、素敵な理由ですよ。候補の一つにさせてもらいます。ありがとうございます」



 彼はタクシーを降り、夜の街へと消えていった。後ろ姿を見送りながら、私はしばらくその場に佇んでいた。再びエンジン音が静かに車内を満たし、私は深く息をついた。



 人の名前ひとつ、そしてそこに込められる思いには、それぞれの人生が宿っている。タクシー運転手として、私は日々さまざまな人々と交わり、彼らの一瞬の人生の断片に触れる。そして、副業としての探偵――それはこうした小さな謎を解き、意味を見出すことから始まるのだ。大きな事件や派手な出来事だけが探偵の仕事ではない。時には、名づけの由来にさえ、解くべき謎が潜んでいる。



 エンジン音が再び夜の静けさを切り裂き、車はゆっくりと走り出した。次はどんな乗客が待っているのだろうか。どんな小さな謎や相談が持ち込まれるのか。それはまだわからないが、この仕事を続けている限り、次の謎は必ずやってくる。それが楽しみでもあり、私がこの仕事を愛する理由でもある。

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副業は探偵ですが何か? 〜タクシー運転手の推理〜 雨宮 徹@クロユリの花束を君に💐 @AmemiyaTooru1993

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