幸せの予感
夜の街は、ネオンがきらめき、まるでどこか異世界のように光と影が交錯していた。繁華街に人々が溢れ、店からは笑い声や話し声が絶え間なく聞こえてくる。車内は静寂が支配しているが、その外では喧騒が続いている。その中で私は、車を流しながら乗客を探していた。夜になると、仕事帰りや飲み会からの帰宅でタクシーを必要とする人々が多くなる。特にこの時間帯は、繁華街で人が途切れることはない。
そんな時、歩道の端に立つ一人の男性が目に入った。中年に差し掛かった風貌で、手を挙げてこちらに合図を送っている。足元はしっかりしているが、少し酒に酔っている様子が見て取れる。私はゆっくりと車を寄せ、彼が助手席側の窓に顔を近づけた。
「どちらまでですか?」
「えーと、楠駅の方まで頼むよ」
言葉は少しよれているが、意識ははっきりしているようだ。私は軽く頷き、メーターを入れた。
「かしこまりました。メーター入れますね」
車内に乗り込んだ男性は、すぐにリラックスした様子で座り込んだ。彼は酒の勢いも手伝ってか、途端に饒舌になった。私は特に気にせず、適度に相槌を打ちながら、彼の話を聞き流していた。こういった場面は、タクシー運転手にとっては日常茶飯事だ。飲んだ勢いで、普段言えないことを口に出してしまう人が多い。
「それにしても、自衛官は大変ですね。国家公務員なんて、ちょっとしたことでも批判されますから」
私はその話題に軽く乗ってみたが、男性の反応は少し意外だった。彼は驚いたように、じっとこちらを見つめてきた。
「え、今なんと?」
「ですから、自衛官も大変ですね、と」
「職業の話はしてなかったはずだけど、どうして分かったんだ?」
私は軽く微笑みながら、前方の信号を確認しつつ答えた。
「歩き方ですよ。自衛官独特の歩幅や姿勢が目立ってましたから。おそらく歩幅は75センチ前後、歩く速度は1秒に2歩といったところでしょうか」
その瞬間、彼は目を見開いた。驚きとともに感心しているようだ。
「まるでホームズみたいじゃないか。探偵か何かか?」
その比較には、少し照れくさいものがあったが、悪い気はしない。ホームズのような推理力は持ち合わせていないが、それでも自分の観察力が活かされる瞬間は嬉しいものだ。
「いや、ただの運転手ですよ。観察するのが得意なだけです」
「でも、あんたなら、この謎を解けるかもしれない」
彼の顔つきが急に真剣になった。彼の声のトーンが変わり、思わず私は軽く肩をすくめた。
「話を聞くだけならできますよ。ただ、推理はあまり得意ではありませんが」
「それでもいい。聞いてもらうだけで構わない」
彼は大きく息を吸い込み、少し躊躇しながら話し始めた。
「実は、最近妙なことがあってね。俺は自衛官として、しょっちゅう夜に訓練や飲み会があるんだ。だから家を留守にすることが多いんだが、どうもその間に、妻がどこかへ出かけているんだよ」
私は頷きながら彼の話を聞いていた。よくある話だ。不倫や家庭内トラブルの可能性もあるだろうが、彼の表情には不安というよりも、何か別の違和感が感じられる。
「不倫だと思ったんだけど、それが違うらしいんだ。隣の竹本さんが教えてくれたんだが、妻は地味な服装で出かけているんだ。不倫するにしては、あまりにも冴えない格好でね」
「確かに、浮気するならもう少し派手な服を選ぶでしょうね」
「だろう? それに、誕生日も近くないし、サプライズを計画しているわけでもない。だが、俺は気になって仕方がないんだ。何か隠し事があるんじゃないかと」
彼は首をひねりながら、さらに話を続けた。
「あと、最近急に妻が匂いに敏感になったんだ。香水や食べ物の匂いを嫌がるようになって、特に酸っぱいものをよく食べたがる。前はそんなことなかったのに、急にだ」
彼の言葉を聞いた瞬間、ある推測が頭をよぎった。しかし、この場でそれを告げるのはあまりにも直接的すぎる。本人に直接確かめさせるのが一番だろう。
「お話の内容から、私には一つの答えが浮かびますが、ここでお伝えするのはやめておきます。奥さんから直接聞かれるのがいいでしょう」
「なんだって? どうしてだ?」
「これはご家族に関わる重要な話ですからね。あなた自身が奥さんに聞くべきです」
彼はしばらくの沈黙の後、ため息をついた。
「わかったよ。でも、どう切り出せばいいんだ?」
「『嬉しい知らせがあるんじゃないか』と、柔らかく尋ねてみてください。それが最も自然な切り出し方でしょう」
私たちが目的地であるマンションに到着すると、彼は一度降りて「少し待っててくれ」と言い残して建物に向かっていった。私はエンジンを切って、ぼんやりと車内で待った。静かになった車内には、外の喧騒とは対照的に、穏やかな時間が流れていた。
しばらくして戻ってきた彼の顔には、驚きと喜びが交じっていた。
「あなたの言った通りだったよ! 妻が妊娠していたんだ。俺の知らないうちに、赤ちゃんの服をこっそり買って準備してたんだ」
その言葉を聞いて、私は心からの笑顔で答えた。
「それはおめでとうございます。素敵なニュースですね」
彼は感謝の言葉を繰り返し、支払いをしようとしたが、私は軽く手を振ってそれを止めた。
「お祝いの気持ちです。今日はお代はいただきません」
彼は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに深く感謝を示して車を降りた。夜の街を再び走り始めた私は、胸の奥に温かな満足感を抱きながら、次の乗客を探して車を流し続けた。
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