最後の言葉
今日のお客は何か悩み事でもあるのだろう、窓の外をぼんやりと眺めている。こういう時はそっとしておくべきだ。私の思いとは裏腹に、青年が口を開いた。
「なあ、あんたくらいの歳になると、大事な人を亡くしたこともあるだろう?」
私は無言で頷く。この間は親友が若くして亡くなってしまった。末期がんだった。健康に気をつかう奴だっただけに、衝撃は大きい。人間は生まれながらにして環境要因などで勝ち組、負け組が決まってしまう。しかし、死は平等に訪れる。
「俺は最近彼女が死んだんだ。交通事故でね」
「ご愁傷様です」
死は平等に訪れるが、それまでの時間はまちまちだ。赤ん坊は自我ができる前に死んでしまうし、老人は認知症でボケたまま死を意識せずに亡くなる場合もある。この青年の彼女はまだまだ輝かしい将来があったかもしれない。
「原因は対向車線から突っ込んできた車だった。裁判が始まれば相応の報いを受けるに違いない。だから、俺はそいつのことは忘れることにした」
若いにもかかわらず、人間ができている。いや、恋人の死を受けいらられず、現実逃避しているのかもしれない。どちらにせよ青年は誰かに話を聞いてもらいたいのだろう。気を紛らわせるために。一時の関係であるタクシー運転手だからこそ話しやすいのかもしれない。
それにしても、なんと救われない話だろうか。聞いているこちらも辛くなる。彼の心中を察するに余りある。彼は一息つくと言葉を続ける。
「不幸中の幸いと言えるかは分からないが、彼女が死ぬ前に病院に駆けつけることができた。それが唯一の救いだった。だから、最後の言葉を聞くことができた。言葉と言えるか分からないが」
言葉と言えるか分からない? 青年の言っている意味が理解できず、頭がフリーズする。こちらから聞くのは憚られたが、聞く前に青年が答えを言った。
「モールス信号って知ってるか?」
「もちろんです」
「そうだよな、あんたくらいの歳なら知っていて当たり前か。SOSは『トントントン ツーツーツー トントントン』。俺の彼女はアマチュア無線をしていてね、それがきっかけで付き合うようになったんだ。俺と趣味が一緒だったから」
今の時代、アマチュア無線が縁で付き合うというのは珍しい。
「すると、先ほどの言葉の意味は――」
「そう、最後の言葉はモールス信号だったんだ。彼女らしくね」
そこまで言うと青年は首をひねった。何か引っかかるものがあるに違いない。彼もアマチュア無線が好きなら、何と打ったのか分かるはずだ。何が彼を悩ませているのだろうか。
「中身はこうだった。『A・I・4・1・0・6』。わけが分からなくてね。きっと意識がもうろうとしていたから、間違えたんだろう。そう思うことにしたんだ」
「でも、心のどこかでは意味があるとも思っている」
「そう……かもしれない」
謎のモールス信号に心ひかれた私は、信号待ちの間に無意識のうちにハンドルを指で叩いていた。トントンと。そこで一つの疑問が思い浮かんだ。青年の解釈が間違っていなければ、アルファベットと数字が混在していることになる。そこに意味がある気がした。
「彼女はどんな方でしたか?」
「いたずら好きでした。あとはサプライズも」
彼女を思い出したからか、青年は目じりを拭う。
「それから……古いものも好きでした。ほら、流行は繰り返すって言うでしょう?」
私は頷く。最近は――すでに流行は終わったが――タピオカブームがあった。
なんとなく彼女の人となりは分かってきたが、モールス信号の謎の糸口にはなりそうもない。なんとかして、この謎を解きたかった。いや、青年のためにも解かなければならない。しかし、目的地に着くまでに解くことは出来なかった。探偵を自負している自分が情けなく思えた。
「いくらですか? クレジットカードでお願いしたいのですが」
青年がそう言って財布を取りだした時、一枚の紙が胸ポケットからひらひらと舞い落ちる。それはポケベルの語呂合わせ一覧だった。
「ポケベルも形を変えて再流行しているんですよ。SNSとかショートメッセージで」
そういえば、自分も若いころはポケベルで友人とやり取りしたものだ。懐かしさが込み上げてくる。ポケベル……ね。ふと、モールス信号を思い出す。どちらも暗号の類に似ている。次の瞬間、天啓にうたれた。
「もしかしたら、彼女のメッセージが分かったかもしれません」
「本当ですか!」
身を乗り出す青年に「あくまでも私の考えですよ」と告げる。
「彼女はこう言い残したんです。『愛してる』と」
「愛してる……? どうすれば、そういう解釈になるんですか?」
「ポケベルです。あれの語呂合わせですよ。数字をポケベルに置き換えるんです。そうするとこうなります。4・10・6で『してる』と。アルファベットと合わせれば――」
私はその続きを言うことができなかった。青年が嗚咽していたから。しばらくして落ち着いた彼は顔を上げるとこう言った。「あなたに会えたのも彼女の導きかもしれません」と。
青年を降ろした私はアクセルを踏んでゆっくりと車を走らせる。その時、ミラー越しに頭を下げた彼の姿が映っていた。そして、車が角を曲がるまで頭を上げることはなかった。
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