2章:終わらない夢②
☆ ★ ☆
廊下に出たが、誰もいなかった。
姿もなければ、声もしない。人の気配がない。
さすがに、その光景を見た瞬間は気圧された。
薄暗く無音の廊下にいると、自分が独りになったような焦りで体の芯がヒュンっとなる感覚。
偶然だ、と自分に言い聞かせて隣接する学棟へと歩き出すが、やはり人影は見当たらない。
廊下どころか、隣の教室にもいない。
「どういうこと?」
自分の気持ちを敢えて吐露する。今は自分の声を聞くだけでも安堵できた。
エレベーターホールも階段も、学棟を繋ぐ渡り廊下にも、その先の新食(フードコート)にも誰もいない。
長期休みの期間でもまだ人の気配はする。
まるで自分以外の生命が死に絶えた別世界に飛ばされた気分だった。
ああ、イエシキさんはいたから、他人はいるのか。
それでも、いつも活気のある場所が静まり返っていると不気味さが拭えない。
フードコートの端まで移動して、ようやく足を止める。
異世界に迷い込んだなどという妄想を頭から追い出し、どこかで笑っているだろう友人に降参を伝えるためスマホを取り出した。
「うっ」
手帳型のスマホケースを開けると、画面から細い足の生えた黒い毛むくじゃらの塊が無数に蠢き、溢れてくる。思わず俺は短い悲鳴を上げてスマホを落とした。
しかし、スマホが床に落ちる頃には、黒い塊はどこにも見えない。消えている。
幻でも見たのだろうか。いや、そうとしか思えない。何かがいた痕跡もないのだから。
まだ動悸が治まらないが、気にしないことにしてスマホを拾うために屈む。
そばにある自販機の下の隙間と目が合った。
わずかな隙間の奥にこちらを覗く顔がある。男か女かは分からない。
全身に悪寒が走り、意識するよりも早く、弾かれたように立ち上がった。
ヤバい。何かいた。
もしかしたら、先ほどと同じように見間違いかもしれない。いや、見間違いだろう。
だって、自販機と床の数センチしかない隙間に人がいるはずがないのだから。
ただ、それを確認するためにもう一度屈む勇気はない。
立ちすくんでいると、背後から心臓に響くような異様な音が聞こえる。
ドッドッドッドッド
振り向くと、渡り廊下の奥から徐々に明かりが消えていくように暗闇が迫っていた。
音はその暗闇から聞こえており、近づいていた。
ドッドッドッドッド
一切見通すことのできない暗闇の中に巨大で歪な何かが確かに接近する。心臓を打ち付ける音に、俺の鼓動は高鳴り、呼吸が苦しくなった。言葉で表現することはできないが、それには潜在的な嫌悪感があった。
黒く巨大で毛むくじゃらの球体。
見えないのに、なぜかそう思った。
それがもうそばまで来た時、俺の足はようやく動く。
追い付かれないように走り、そのまま外へ出る自動ドアに体当たりする勢いのまま潜った。
「どういうことぉ?」
今度は意識することなく、呟いていた。
外に出たはずなのに、気付けば学棟を繋ぐ渡り廊下の真ん中に立っていた。
周囲を見渡すも、相変わらず人影はないが、先ほどの異様な存在も暗闇もない。
心臓の高鳴りが、現実であることを示している。
異常事態に俺の頭はすでに思考が停止していた。
ここが異世界なのか、俺の頭が狂ったのか。
ここはどこで、どうすれば出られるのか……。
恐る恐るスマホを見るが、今度は画面から異形が現れることはない。見慣れたホーム画面がが、圏外の表示になっている。いかに俺の大学が田舎にあろうと、圏外になることはない。
やはり、ここはおかしい。
スマホを見ていたことで、少し落ち着くことができた。
誰にも連絡を取れない、人影もない、しかもよく分からない存在がいる。おまけに、外に出ようとしたら、この渡り廊下に移動していた。
落ち着こう。そして、ここから抜け出す方法を考えよう。幸い、この校舎には出入り口は他にもある。
俺は自分に「大丈夫」と言い聞かせてかて、周囲を警戒しながら歩き出した……。
☆ ★ ☆
どれだけの時間が経っただろうか……。
もはや精も根も尽き果てた。
覗き込む誰かの顔に、溢れ出る黒い虫のようなもの、そして迫りくる暗闇から逃げつつ、全ての出入り口を試した。しかも数えきれないほど。
しかし、結果は同じ。渡り廊下の真ん中に戻される。
スマホの画面を見ると、文字や数字が文字化けしており読み取れない。鏡を見て、自分の変貌した姿にここでの時間の経過を知るのみだ。
髪の毛や髭は白くなり長く伸び、酷くやつれたせいか、だいぶ老けている。いや、実際にそれだけの時間を過ごしているのかもしれない。着ている服もボロボロだ。
もはや、ここから抜け出すことは諦めた。どれだけ叫んでも、泣いても、時には怒鳴り散らしても、状況が変わることはない。むしろ異形の存在をおびき寄せるだけだった。俺は怯えながら、ただただ逃げて生き延びている。
空腹や喉の渇きは、新食に置いてある物をもらった。食材は渡り廊下に戻される度にリセットされているのを知ったので、餓死する心配はなかった。しかし、いくら食べても満足することはなく、常に空腹だった。
途方に暮れ、ぼーっとする時間が増える。
自分は生きているのか、それとも死んでいるか。
昔のことを思い出そうとしても、いろんなことを忘れてしまっているようで、頭の中に靄がかかってうまく思い出せない。その中で、あることに気付いた。
そう言えば、ここに来た時に誰かに会ったはずだ。何て言っていたか……。
『江刈内君。困ったことになったら、僕を呼びたまえ』
頭の中で声が降ってきた。
「イエ、シキ……」
頭に浮かんだ名前が口から漏れていた。
「江刈内君。随分とかかったじゃないか」
急に隣に現れた声に、驚きすぎて腰が抜けた。久しぶりの他人の声が未だに信じられないが、俺の目の前にイエシキさんが立っていた。
「鳩が豆鉄砲を食らった顔とは今の君のことを言うのだろうね」
久しぶりの他人の声と存在に、嬉しすぎて涙が溢れてくる。何かを話したいのだが、いろいろとありすぎて頭が整理できずに口をパクパクさせるだけ。
そんな俺の姿に彼女は笑う。
「無理もない。ここまで来るのに、僕調べでは三十年と二十五日、ここにいるからね」
「三十、年?」
イエシキさんの言葉に俺は耳を疑う。
「で、で、でも、君は。その姿は」
未だに他人と話す感覚が戻ってこないが、どもりながらも彼女を指さす。三十年と言ったが、彼女は最後に会ったままの姿だった。
「永かったよ。君が僕を認識しない限り、僕はここでは何もできないんだ。ゲームのお助けキャラみたいなものだからね」
イエシキさんは俺に手を差し伸べて、立ち上がるのを助ける。その手に伝わる温もりに、俺は再び泣きそうになる。
「いや、ホント、マジで……よく分からないけど、イエシキさん。マジで、ありがとう」
感極まって謎の感謝まで。
「君も大変だね。こんな経験をさせられ続けているとは」
「どういう意味?」
「追い追い分かるよ。取り敢えず、ここを出るとしよう」
何気ない言葉だが、俺は心底安堵した。
これまで俺が何度も挑戦し、試行錯誤しても三十年(彼女の言葉が本当ならば)も脱出はできなかった。そんなに簡単なことではないと分かり切っていることだが、それでも他人の口から「出る」と聞く、変化に期待してしまう。
「でも、全ての出入り口や窓を試したけど、ここに戻ってくるだけだ」
「それは手順を踏んでいないからだよ」
鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌にイエシキさんは答える。
「手順?」
「手順1、どんな世界なのかを認識する」
よく理解できない俺を横目に、彼女はない胸を逸らす。
「この点は、僕を認識できた時点でほぼクリアしているけどね」
「どういう意味?」
「さっき言ったろ? 僕はこの世界ではお助けキャラだよ」
「なるほどね~……とは、ならない」
彼女と話していると、気力と会話の調子が戻ってくる。
「ちゃんと説明してくれ。ここはどこで、俺がここに三十年いたって、どういうことか?」
「いいだろう。耳の中かっぽじって、よ~く聞きたまえ。ここはね、君の夢の中だよ」
しばしの沈黙。彼女の言っていることを理解するのに時間がかかった。
「夢?」
「そう」
「ここが」
「そう」
「夢の中なの?」
「インセプションみたいなもんだね」
「レオナルド・ディカプリオ主演の?」
「ケン・ワタナベも出てたね!」
ほぉ~ん、と曖昧な返答しかできなかった。急に、言われても信じられない。
「自分の夢に、閉じ込められたってこと?」
「そうだね」
「な、なんで。なんでそんなことに?」
「もちろん、誰かの意志によって君はこの夢を見させられている」
「誰か……誰だよ?」
「良い質問だが、それには僕は答えられない。知らないから。でも、これから思い出していくよ」
突拍子もない話だが、なぜだか自分の中で腑に落ちた。
「俺の夢だとして。どうすれば醒めるんだ?」
「どんな時に起きる? 強いショックを受けた時だろ? 死ぬとか」
確かに言われてみれば、そうだが……。
「ちょっと、死ぬのは、怖いな」
「インセプションだと、水に落ちるって方法もあったね」
「水は嫌だ」
俺は確固とした決意をもって言い切る。それに関しては、譲らない。
「死ぬのも、水も嫌かい。まぁ、焦ることはない。夢であると自覚したなら、あとは地道に上っていけばいい。自ずと道は開かれるよ」
彼女が言い終わる前に、チンッと聞き慣れた音がした。
エレベーターが到着した時に音だ。
俺とイエシキさんがエレベーターホールへと向かうと、二基あるうちの一台の扉が開いていた。上階に行くことを示している。
イエシキさんを見ると、『言ったろ』と言わんばかりの、したり顔だった。少しムカつく。
「これで、この夢から覚めるのか?」
「せっかちだね。君は。急いては事を仕損じる、だよ」
乾いた笑いをしながら、イエシキさんはエレベーターの中へ。俺も意を決して、踏み入れる。
するとエレベーターの扉は閉まり、勝手に上昇を始めた。
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覗く『奴ら』は愚者見て嗤う 檻墓戊辰 @orihaka-mogura
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