龍に捧げられた少女
白雪花房
龍神の怒り
昔は水運に恵まれた地域で人が集まったが、今は見る影もない。古の時代より洪水が頻発する地域だ。
特徴的な場所だがとある少女からしてみれば、退屈なところでしかない。同じく田舎に閉じ込められた、自分にも。
彼女はなんの取り柄もなかった。ふわふわとしたウェーブヘアに丸みを帯びた目の形。花の唇は小さく均整が取れていて美しいが、長所とえいば顔だけ。
誰の役に立つこともなく、淡々と日々を過ごす。
いっそ、なにかが起きてほしい。混沌とした奇跡を心待ちにしながら、彼女は灰色の人生を送ってきた。
暗雲の下、影に覆われた広場、くすんだ服の集団がたむろしている。みんなして眉間にシワを寄せ、気難しげな表情をしていた。
「また龍神様が荒ぶっとるのか」
「そろそろこの時期かね」
「選定を始めねば」
今も薄墨色の空から雫が垂れていた。
最初は小雨だったが、何日も降り続くものだから皆は不安になる。日常に支障こそないため日常は続き、住民は傘を差しつつ平然と外に出ていた。
井戸の周りで騒ぎ声がする。
「俺、こんな村嫌だよ」
季節外れにタンクトップを着た少年健太は、唇を尖らせる。
「なにを申すか。古の風習を守っているのだぞ。誇りを思え」
「そんなこと言ったってな」
ドヤ顔で仁王立ちをする大人に対し、子どもの反応は冷めていた。
「俺だってスマホ持ちてぇよぉ……」
肩を落とした体躯から、情けない声が漏れた。
彼らのやり取りを素通りして、丈の長いセーラー服の学生の集団が、歩き去る。
「知ってる?
「祟神でしょ。昔、龍を殺したら、呪われて、町にも災いが降り掛かった」
「迷惑よね。あたしたち貧乏くじじゃない?」
「鎮めるために祭りを開いたはずなのに、なんでこんなに降るんだろう……」
黒髪ストレートの少女――結衣が、赤い傘越しに曇天の空を睨む。
ふわふわなウェーブヘアの娘もミラーリングするように、表情を曇らせた。
雨は日増に強くなる。
茶色く濁流した川は荒ぶり、かさを増した。嵐が吹いているかのごとき風が吹き付け、ひんやりとした空気が垂れ込める。
店は閉ざされ、学校も休み。
結露した窓越しに映る水浸しの景色が、不安を煽る。
セーターにふわふわとしたウェーブヘアを流した娘――
カンカンカンカン。
鐘を叩くけたたましい音が、町中を巡った。
「生贄だ。生贄を出せ!」
「白羽の矢が立ったぞ!」
メガホンを通して、触れ回る声。
「ああ、なんてこと……」
家の奥で両親の慟哭が聞こえる。
やがて扉が開き、青ざめた顔の母が、入り口に立った。
「お母さん。私、知ってるよ。生贄に選ばれたんですって?」
彼女の目には揺らぎはなく、口元は弧を描く。なめらかな肌には汗の雫一つつかない。まるで花畑にいるかのように、穏やかな雰囲気だった。
「私の命で町が救われるのなら、それでもいい」
最初から覚悟はしてきた。美しい娘が生贄に捧げられる伝承は、生まれたときから知っている。
「ああ、あああ……」
母親は崩れ落ちる。両手で顔を覆い、まるで自分が死地に赴くかのように嘆いた。立ち上がった少女は小さくなった女性を、じっと見下ろす。表情に憂いはなかった。
生贄の期日が迫る。
「ごめんね。私は遠くへ行かなくちゃいけないの」
すりすりと寄ってくる猫の頭を撫でる。さらさらとした毛並みが心地よく、気持ちが安らいだ。
「そうか、みんなお別れなんだ」
飼育していた猫、両親、親友、知り合いとも。
昼間の内にこっそりと会いに行く。
傘を差して広場まで出向くと、花壇の周りにはすでに、私服姿の少女たちが集まっていた。彼女たちは皆青ざめ、
「
「私、怖いよ。あんな伝承、嘘だって思ってたのに」
「ううん、今だって信じてないよ。なのになんて大人たちは」
むしろ相手のほうこそ生贄に捧げられるのではないかという勢いだった。
「みんな安心して。私がなんとかしてみせるから」
たちまち結衣は眉をつり上げた。
「やめてよ。あんたも抵抗してよ。こんなのってないよ」
「でも、私が行かなきゃみんな危険が」
「あり得ないって。だって、オカルトなんて、根拠も乏しい」
必死に説得を試みるも、
早々に切り上げ、背を向ける。傘を差した少女の姿を、数名の女子たちが見送った。彼女たちにできることは、なにもない。
健太の家の前に立ち、インターフォンを押す。彼は即、出向いたけれど、すぐにそっぽを向いた。扉が閉じ、バタンと鳴る音。
傘を差した少女は一人、取り残される。ザーザーと雨の音だけが激しくなった。
もしも、自分が死んだら皆は悲しむだろうか、喜ぶだろうか。
彼らの気持ちはもはや知ることはできない。
いずれにせよ、運命は決まっている。
いよいよ、儀式の当日を迎える。雨はなおも降り続いていた。
濁流となった川に船を置き、白く透き通る着物に着替えた少女は、流される。
先ほどからお経の声が聞こえる。幻聴か、儀式の一部か。少女は目を閉じ、運命に身をゆだねた。
龍に捧げられて自分は死ぬ。怖くはない。ようやくおのれの存在意義を示す瞬間が訪れたのだ。むしろ誇らしく、清々しい気持ちになる。
刹那、思いっきり飛沫が上がり、視界が遮られた。勢いよく下る。気がつくと前方に水路がない。滝だ。激しい流れに飲み込まれ、ボートは消失する。意識は閉ざされ、目の前が真っ黒になった。
気がつくと暗闇の果て。
ぼんやりとあたりを見渡す。
「死後の世界……?」
無意識の内につぶやく。
手のひらを見つめる。実体はあるようだ。頬をつねる。鈍く痛い。不確かな感覚のもと立ち上がろうとして、呼び止める声を聞く。
「ここは単なる異界。我の住処だ」
低い声に導かれ、顔を上げる。
奥の開けた場所まで誘い込まれると、荘厳なる龍が視界に飛び込んだ。血に濡れた鉄の鱗。臭いが生々しい。凄まじい存在感を前に、現実すら忘れる。
なんて迫力。思わず息を呑んだ。心臓がバクバクと音を立てる。全身に鳥肌が立ち目を疑いながらも、瞠目した。
臆する気持ちと畏怖が心の底から立ち上る。冷や汗をかきながらも、拳を握りしめる。
「あなたが龍神様ですね。どうか怒りを鎮め、雨を止ませてください。生贄は私で終わらせてほしいのです」
もう誰も犠牲者を増やしたくないと、彼女は声を張り上げた。
きちんと誠心誠意向き合えば、分かってくれる。一縷の奇跡に想いを託すように、彼女は相手と見つめ合った。
真剣な視線の先で、縦に割れた瞳孔が妖しく光る。不思議な光源に照らされながら闇夜に浮かび上がった龍のシルエット。相手は、嗤っていた。
「世迷い言を。我が人ごときのためになにかをするとでも?」
無慈悲な言葉を聞いた瞬間、体の表面が冷たくなる。少女は表情を消し、棒立ちとなった。
龍は口角を歪めたまま、楽しげに語り出す。
「強いて怒りがあるとすれば、愚かな風習そのもの。やつらは生贄に頼り全てを一人の娘に背負わせた。それで安寧を享受したつもりになっているのだろうが、甘いわ」
「でも、あなたはなんの解決も示してくれない」
「知らぬ。生贄の主には興味もない。我は死者を憂いているわけではないのだぞ」
ばっさりと切り捨てる。
絶望感が海のように広がり、身にしみる。純美は凍りついた。
「愚か者め。自己満足に身を捧げれば報われるとでも思ったか?」
低く、嗤う声。
「だが、貴様は美しい。飼ってやろう。誇れ。生贄は名誉だと申していただろう?」
無慈悲な言葉が心の隙間を通り過ぎる。
結局、自分はなんのために生き、死んだのか。全ては龍に飼育されるため?
「案ずるな。なにも滅ぼすわけではない。じわりじわりといたぶり、苦しめる。これこそが我のやり方よ」
龍の皮肉げな問いかけは、彼女の心にはなにも響かない。代わりに純美は空白の中に立ち尽くす。できることはなかった。
地上では雨が降り注ぐ。
「おかしいぞ。生贄は捧げたはずだよな」
「まさか不備があったのではないか?」
「もっとさらに生贄を!」
大人たちは慌てふためき、右往左往。
学校に通えない生徒たちが家にこもり、沈痛な面持ちでふさぎ込む中、雨はさらに強さを増す。
鉛色の空、薄墨色の景色。堤防は決壊し、川はあふれ出す。町の端はあっという間に飲み込まれ、渓谷の木々ごと粉砕した。
けれども、被害は中途半端なところで食い止められる。死者は数名――若い男女が浪に攫われた後、ピタリと止まった。
雨は止み、地面を浸す水は引く。住民は歓喜した。
「生贄ばんざーい!」
「龍神様は我々を見てくださったんだ!」
「うおおおおお!」
彼らが高らかに拳を突き上げる脇で、ひそやかに犠牲者が発表される。
水谷健太。
河辺結衣。
二人の名前は次第に忘れ去られ、朝刊の一ページに消えていく。
空は依然として曇り、暗雲が広がっていた。冷たい風が吹き荒れ、煤けた気配を運んでくる。不穏な影はいまだに
龍に捧げられた少女 白雪花房 @snowhite
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