第3話
樫や
「俺は、山彦という。お前の――兄弟だ」
粗末な麻の服に萌葱色の袴姿をした少年が、低い声音で言う。まだ成人に達していないながら
対するは、真逆の華奢な体格をした白い子供だった。着物を着ておらず、長い白髪が局部を隠している。前髪の下から見透かせる表情は、薄く笑っていた。落ち着かない幼児に似た佇まいで、絶えず上半身を揺らしている。
その左手には、壮年の男の生首がぶら下げられていた。無造作に白い指で髪を掴まれ、口を半開きにして薄い瞳を見開いている。その死に顔が揺れながら、山彦を虚ろに見ていた。
まるで共通点のない二人だった。にも関わらず兄弟だと断定したのは、山彦の直感が強く訴えかけていたからだ。目の前にいるのは血をわけた、
「なぜ殺した、海彦」
「その人は……俺を育ててくれた。お前も世話になったことがあるのだろう」
返事はなく、海彦は興味をなくした様子で生首を無造作に放り投げた。その首が空中を舞い、叢へ消える。死者を冒涜する行いに、山彦は
「答えろ、海彦」
矢筒から白羽の狩矢を抜き、竹の弓を構えた。真竹を軸に黄櫨を側木とした大弓である。矢を番え、弦を引く。剛力によって握られた弓柄が軋み、
足の裏に地響きが伝わった。斜面の下から何かが駆け上ってくる。その正体を特定する前に、海彦の背後から水の奔流が押し寄せた。逆巻く鉄砲水は逃げる間もなく山彦を呑みこみ、山林が水の中に沈む。無数の落ち葉や枝が舞い上がり、水の流れに木々の枝葉がたゆたう。
水中に没した山彦は口から大きな泡を吐いた。麓を囲う湖水か。いや違う。この水は辛い。いつか塩辛い水で満ちた、途方もない広さの水たまりがあると教えられた。確か海と言ったか。
海水の中の山林を漂いながら、それでも弓矢は手放さなかった。血眼になって白い子供を捜す。視界からは消えており、その代わりにさまざまな鳥獣が溺れながら流れてくる。猪、アオダイショウ、山鳥。必死に四肢を暴れさせる鹿の体をかろうじて避けながら、山彦は用心深く周囲に気を払った。海彦はまだ近くにいる。彼の五感はそのことを察知していた
どこだ、海彦。必ずこの手で仕留めてやる。
胡桃色の目が痛みを訴え、肺は悲鳴を上げている。それでも山彦は闘志を失わず、射抜くべき相手を追い求めていた。
水の彼方から
少年の背後で白い紙人形が寄り集まり、華奢な腕を
「今度は、間に合った」
少女の声と、
「
泡立った声音が同時に耳朶を打った。
神託に等しい一言に突き動かされ、手にした大弓を再び構える。白羽の矢を番え、全力を
その狩矢は水の抵抗などものともせず、螺旋状の軌跡を描きながら海水を切り裂く。鋭く尖った鏃は海彦の右腕を捉え、その肉を貫いた。この世のものとは思えない、けたたましい悲鳴が響き渡る。右手を失ったその姿は霧散し、白い軌跡だけが尾を引いた。二の矢を放とうとするも、息苦しさのあまりに果たせなかった。
急速に海水が引いていく。潮の匂いが染みついた地面に両膝を突く。山林は濡れそぼり、葉先から雫を垂らしている。周辺には横たわった鳥獣の水死体と、あの白い紙人形が樹木の幹に夥しく張りついていた。
山小屋で旅支度を終えた。冬を越えるためのカモシカの毛皮を纏い、育ての親が被っていた菅笠の紐を顎で結ぶ。竹の大弓を背負い、腰に矢筒を帯びた。
山彦はすぐに山を出ず、山林を越えて斜面を登った。木立が切れた崖の先に、金剛杖と火縄銃が立てられ、交差していた。その眼下には広大な湖が広がり、水平線から昇った朝日が水面を輝かせる。
「じゃあ、俺は行くよ」
菅笠を指で傾け、小さな声で彼のことを呼んだ。育ての親と養子という関係から、結局最後までその呼び方はできなかった。
合掌し、瞑目する。薄くなった目を開いた。踵を返し、顔を引き締める。これから海彦を追うために旅へ出る心積もりだった。宛てなどない。ただ、このままにはしておけなかった。
親の仇であると同時に、海彦をこの手で殺さなければならないと考えた。あれは存在してはならないものだ。魔に属しながら、人の世に近過ぎる。
山彦が去ってから、しばらくして木立から人影が現われた。
「相変わらず不器用な男だな。墓のつもりか」
交差した墓の前に立ったのは、首をもぎ取られたはずの僧形の男だった。五体満足で、以前と全く同じ身なりをしている。両袖に手を入れて、眼下の湖に薄い眼差しを向ける。小さな船影が遠ざかっていくのが見えた。
育ての親である男は、その後ろ姿に向かって語りかける。
「世に出て見聞を広め、良き
別れの言葉を告げてから、己の首に手を当てた。薄っすらと継ぎ目があり、白い紙人形のヒトガタが蠢いては繋いでいた。
「……やはり死ねぬか。魔に寄った海彦ならば、あるいはと思ったのだがな」
かつて猟師だった男の形代は呟く。
「俺は、誰なのだろうな」
自らの墓標を背後に、僧衣の男が
水底へと向かって。
山彦と海彦 @ninomaehajime
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