第2話

 俺が祟りで滅びたという故郷に戻る道中でのことだ。先を急いで、日中でも薄暗い森の中を通った。枝葉が鬱蒼うっそうと茂り、木陰に得体の知れない気配を感じた。一刻も早く通り抜けようとしたところで、継ぎ接ぎだらけの着物を着た娘がうずくまっているのが見えた。その女は裸足で、踵が汚れていた。物の怪の類かと思い、慎重に様子を窺うと、何かをさも大事そうに胸に抱いている。

 こちらの気配を感じたのか、娘が億劫おっくうそうに身を起こして振り向いた。

「どなたか、いらっしゃるのですか」

 やや間延びした口調で話す女の両目は、抉られていた。暗い眼窩がんかから、血が涙のように頬を伝っていた。

「私は……旅の僧侶だ。娘、何があった。その目は」

「ああ、お坊さまなのですね。良いところに」

 少し知恵が遅れているのか、あまり会話が噛み合わなかった。赤い涙を流す娘は、両手に乗せていたものを俺の眼前に差し出した。

「私の子供たちを、預かってはくれませんか」

 その手のひらの上でうごめいていたのは、奇形の赤子とも言い難い、形容できない何かだった。小指を寄り添わせた右手と左手に、それらが二体いた。

 聞けば、その奇妙なものたちは娘の両目を突き破って産まれたのだという。にわかには信じられなかった。ただ、手の上で四肢とも触手ともつかぬ器官を這いずらせるそれらを、とめどなく血を流す眼差しで愛おしそうに眺めていた。

 あの恍惚とした表情は、今でも忘れられぬ。



 赤熱するまきが音を立てて弾けた。神妙な顔をした僧衣の男の姿を照らし出す。

 寝泊まりしている山小屋の傍らで、山彦は自分の出生を初めて聞かされた。闇夜の森に灯る焚き火の中で、木を削った串に刺された肉が熱せられている。日中に狩られた野兎は血抜きをされ、少年の手によって解体された。育ての親である僧形の男から一人で生き抜く術を学んでいた。

 松のやにを含んだ木片をくべながら、胡坐あぐらをかいた少年は言った。

「兎は鳥だったか」

「俺は僧侶ではないと言っただろう。真面目に聞け」

 山彦は自分の両足首を掴み、満天の星空を仰いだ。

「人は目玉からは産まれない。それぐらい、世間知らずの俺だって知ってる」

「託された娘からそう言われたのだ。そのときのお前たちは、人の形をしてはいなかった」

 自らの出生で夢物語を聞かされるのは、何とも奇妙な気分だった。彼は憮然ぶぜんとした顔で、よく焼けた兎の肉片が連なる串を手に取り、口の中で滑らせた。

「俺の、その――母さんは、どうなったんだ」

 熱せられた肉を一気に頬張ったせいで、口内を火傷した。顔をしかめる。

「残念ながら亡くなった。お前たちが産まれたときに、暮らしていた村の衆から殺されそうになったそうだ。命からがら逃げ出し、目の怪我を手当てすることなく森の中を彷徨ったのだろう。お前たちを託されたときには、衰弱し切っていた」

 壮年の男は薄い瞳に橙色の炎を映す。

「ご遺体は丁重に葬ったよ」

 このとき、彼は嘘をついた。実際のところ、息を引き取ってから程なくして森に強いつむじ風が吹き抜けた。目を開けていられず、風が止んだ頃には彼女の亡骸は忽然と消え失せ、影も形もなかった。

 わずかに耳朶じだに触れたのは、祭囃子の音だろうか。

「右目から産まれたお前が山彦、左目から産まれたのが海彦うみひこだそうだ」

 そう告げられ、少年は自分の右目に触れた。わずかに瞑目めいもくする。

「海彦と言ったな。俺と一緒に産まれたという兄弟は、どうしてここにはいない」

 目を開け、育ての親を真っ直ぐ見つめた。その胡桃色の眼差しから顔を逸らす。

「海彦は俺の手から離れた」

 夜の闇に溶けこむ薄墨色の男は、静かに呟く。

「あれは、魔に寄っていた」

 山彦は眉を顰める。男はそれ以上語ろうとはしなかった。

 小舟で人里に出た男は、幾日かして約束通り新しい狩りの道具を持ち帰った。少年の身の丈に匹敵する大弓で、しなやかな真竹またけを芯とし、黄櫨はぜを側木としている。見事に湾曲した弓幹を矯めつ眇めつ眺めて、下弭しもはず末弭うらはずを繋ぐ弦を指で弾いた。細い弦はしばらく震え、涼やかな鈴虫を思わせる音色を響かせた。

 山彦は一目で気に入った。

「これは良いな。あの長筒よりも手に馴染む」

 弓の訓練に取りかかった。白鷺の羽根が矢筈やはずを飾る狩矢を渡され、前回と同じ条件で木の幹に命中させることを指示された。僧形の男が両袖に手を入れて見守る中、少年は堂々とした佇まいで大弓を構えた。白羽の矢をつがえると、腕の筋肉が大きく隆起した。弦が限界まで張り詰め、しなやかな竹弓が大きく湾曲する。

 胡桃色の眼差しが見据える的を目がけて、矢が放たれた。草葉を散らす一陣の風とともに、狩矢は真っ直ぐ飛翔する。その鏃は樫の木の幹を貫き、胴を抉り取って彼方へと飛び去った。自重を支えられなくなった樹木はゆっくりと傾き、土煙を上げながら倒れた。

 山彦は快哉かいさいを叫ぶ。

「どうだ、当たったぞ」

 男は顎に手を当て、少し沈黙した。

「そうだな、見立ては正しかったらしい」

 次いでこう言った。

「山彦、兎や野鳥といった小さな獲物を狙うのは止めておけ」

「どうしてだ」

「馬鹿者、身が残らん。命を粗末にするな」

 少年は腑に落ちなかった。見事に命中させたのに、どうして自分は叱られているのだろう。

 それからというもの、狩りの訓練に明け暮れた。獲物の追跡、気配の殺し方、仕留めた獲物を不要に苦しませないために止めを刺すことを教えられた。もっとも、猪や鹿といった体躯の大きい獲物であっても、山彦が放つ一矢を受けた相手は多くが絶命した。

 斧の一振りで、樹齢を経た松の木に刃が深く食いこむ。抜きん出ていた樹冠が傾いで、山中に松が横倒しになる音がこだました。僧衣の男と少年は、薪に使う燃料を定期的に伐採した。あるいは木材とし、人里まで売りに行った。山彦の仕事ぶりを眺めていた男は思案する。

「あるいは、きこりを生業にするのも良いかもしれぬな」

 その呟きが届いたか否か、少年は伐採したばかりの切り株に腰を下ろす。重々しい音とともに斧の頭を地面に突き立てた。

「なあ、どうしてここまで急ぐ」

 壮年の男はその問いの真意を測りかねた。

「何のことだ」

「あんたは、俺に一人で生きていくすべを教えてくれる。だけど、このままじゃいけないのか」

 彼の言葉は、最後に尻すぼみになった。手にした斧の柄に縋り、その筋肉質な体躯とは裏腹に幼子の弱々しさを滲ませた。男は顎を撫で、細めた瞳にその姿を収めた。

「お前はもうじき成人だ。独り立ちをせねばならぬ。それに、俺にはやらねばならぬことがあるのでな」

「――神さまを、探すことか」

「そうだ」

 男は頷き、かすかに唇を綻ばせる。

「お前たち兄弟に手間をかけていなければ、とうに事に取りかかっていたのだがな」

「だったら、どうして赤の他人の子を引き受けたんだよ」

 山彦は声を大きくした。初めて吐露とろした心情だった。仮初かりそめの僧侶は下唇を噛む少年を静かな眼差しで見つめる。やがて言った。

「さてな。……俺も、憐れに思ったのかもしれぬ」

 また別の日だった。このやり取りがあって以来、仮の親子の関係は少しぎくしゃくとしていた。言葉少なく狩りの訓練に山林に赴き、濃厚な血の臭いを嗅いだ。その源を辿ると、腐葉土の上に奇妙な死骸が仰臥ぎょうがしていた。山を住処とするツキノワグマで、その瞳からは光が失われている。牙が生えた口の回りは濡れ、舌が力なく垂れていた。

 その腹は食い破られ、溢れ出した臓物が落葉を赤黒く染めていた。

「何だ、これ」

 山彦は顔をしかめた。幾度も獲物の解体を行なった。その彼が顔を背けたくなるほど、残酷な光景だった。例え野獣の仕業であっても、ここまで食い散らかす真似をするだろうか。

 僧形の男は片膝を突き、哀れな死体をつぶさに観察した。かすかに眉を険しくする。

「腹の内側から食い破られている。尋常の殺され方ではない。湖に惹かれて、何かが山に入りこんだか」

 その鼻腔に、血の臭いとは異なる奇妙な香りがかすめた。

「これは、磯の匂いか」

 やがて男は立ち上がった。固唾を呑んでいた少年を振り返る。

「いてはならぬものが山に紛れている。自分の身は守れ」

 無残な死を遂げた熊の亡骸に手を合わせ、紛い物の僧侶はその場から離れる。薄墨色の背中を追おうとして、山彦は天を仰いだ死体をかえりみた。唇を引き結び、神妙に手を合わせた。

 磯の匂いが風に溶けた。

 夢を見た。夜目が利く山彦でもあっても見通せない森の中だった。その暗闇の中を、得体の知れない気配が蠢いている。不定形の黒い影が巨躯きょくを引きずり、樹上を複数のあしを有する何かが跨いでいった。下生えの向こうで誰かの声が聞こえて、そちらに目を凝らす。華奢な人影が木の根元に腰を下ろし、手のひらの上にいる何かに優しく語りかけている。

「お前は濡れた山の匂いがするから山彦。お前は磯の香りがするから海彦――」

 どこか懐かしい、女性の声だった。

 彼女に声をかけようとして、不意に祭囃子の音色が聞こえた。覚えていないはずの母親の幻影は消え、木立の向こうに仄かな灯火が連なっているのが見えた。その行列に自分も並ばなければならない。離魂りこん病に近い心地で、足がそちらへ向かう。

「あなたは、人でしょう」

 前触れもなく少女の声が聞こえた。細い指で袖が引かれる。振り向こうとして、意識が再び闇に呑まれた。その寸前で、言葉が紡がれる。

「見てはいけません」



 山小屋の中で山彦は飛び起きた。カモシカの毛皮がかけられた屋内を見回すと、傍らで眠っていたはずの育ての親の姿がない。鼻をひくつかせた。尊厳を踏みにじられた熊の死骸から香った、あの奇妙な匂いがした。

 迅速な動きで木壁に立てかけられていた大弓と矢筒を手にした。裸足のまま山小屋を飛び出す。木立を縫い、張り出した木の根を飛び越えて山の斜面を駆け下りる。身を低くしたその動きは、狼よりも速い。

 例の香りが強まってくる。その根源へ辿り着き、胡桃色の瞳に倒れ伏した僧形の男の姿を映した。草鞋の底を向けて、微動だにしない。声を上げようとして、言葉を失った。

 山林で倒れ伏した男の傍らに、白い人影が佇んでいる。小柄で、幼子にも見えた。老婆を思わせる長い髪を垂らして、一糸いっし纏わぬ姿を隠している。足元が覚束おぼつかない様子で、揺らめいていた。

 その白い左手には、育ての親の生首がぶら下げられていた。生気を失った薄い瞳が、絶句する山彦の姿を映し出している。長い髪の子供が、前髪の下で笑った。

「お前、海彦か?」

 山彦の直感がそう告げた。

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