山彦と海彦
@ninomaehajime
第1話
そのつぶらな瞳が映したのは、薄墨色をした
山林に銃声が鳴り響いた。樹上より一斉に鳥が飛び立つ。銃口から硝煙を上げて男は立ち上がった。火縄銃を肩に担いだまま、足袋を履いた足で獲物がいた地点へと向かう。身を屈めると、その手には長い両耳が握られていた。
「存外、錆びつかぬものだな」
頭部を撃ち抜かれ、四肢を脱力させて痙攣する野兎を見下ろす。僧侶の出で立ちでありながら、五戒を破った
「やってみろ、
身軽に着地した少年は、頭の後ろで両手を組んだ。
「あんた、殺生しても良いのか」
色のない瞳が仕留めた獲物を眺める。
「俺に僧籍はない。国を巡るのに都合が良いから、僧侶に
「神仏は、我々の生き死になど頓着せぬ」
山彦は眉を跳ねただけだった。その少年に向かって無造作に火縄銃を放り投げる。
「あの木に当ててみせろ」
僧衣の男が指差したのは、五間ほど離れた位置に生えた樫の木だった。高い杉の巣で、
引き鉄が引かれた。再び轟音が鳴り響き、杉の樹肌が弾けた。驚いた栗鼠が巣の奥に引っこむ。
「随分と器用だな。どうしてそうなる?」
両袖に手を入れた男は言った。足袋を履いた足元には、黒い煙を噴いた銃身が横たわっていた。少年の手からすっぽ抜けた火縄銃が空中を舞い、銃口から火花が散った。まるで見当違いの方向に発砲され、樫の木に弾痕が
少年は自分の手を眺め、心底不思議そうに言った。
「何でだろうな?」
「わかった。弾と火薬の無駄だ」
淡々と結論づけて、男は火縄銃を拾い上げる。わずかに眉を
「人に寄っていても、やはり合いの子か」
その呟きは山彦には届かなかった。悪びれた様子もなく、朽ちた倒木に腰かける。その樹皮に白い花びらが重なって見える
「おい、その茸は毒だ。死ぬぞ」
「なあ、国を巡ってるって言ったな。わざわざ僧侶に化けてまで、何で旅をするんだ」
男の制止を無視して、山彦は頬張りながら尋ねた。少年の毒に強い特異体質を知っている男は、かすかにため息をつく。やがて言った。
「人、を捜している」
なぜか一瞬だけ言い淀んだ。
「尋ね人か。どういう人なんだ」
「盲の娘だ。齢は七つほど、白装束を着ている」
その断定的な口調に、山彦はわずかに首を傾げた。その娘をいつから捜しているかは知らない。少なくとも自分を育てているあいだは捜索できなかったはずだ。盲はともかく、年格好は変わるものではないか。
喉仏を動かして、白い茸を呑み下す。少しの間を置いて、育ての親に尋ねた。
「あんたの、本当の娘か?」
壮年に見える男は、わずかに口元を
「そんな大層なものではない。あれはただの
「器?」
「ああ、
少しのあいだ、その言葉の内容を噛み砕く。倒木に座ったまま、木立が開けた向こうにある山麓に視線を投げた。
「神って、ああいうのか」
胡桃色の瞳には、極めて広大な湖を
その磨かれた湖面の上に、背骨が浮かぶ人間の後ろ姿によく似た、白い巨人の体躯が盛り上がっている。奇形の鯨を思わせるが、その
ただの棒切れと化した火縄銃を肩に担いで、少年の近くに寄った男は白い異形を見下ろす。
「俺が追い求めるものではないが、少なくとも眷属なのだろうな」
山彦は尋ねた。
「なあ、あれは何なんだ」
「理外の
吹き下ろしの強風が吹くと、枝葉が一斉にざわめいた。少年の後ろ髪がはためき、僧衣の余った袖が風を孕む。山々を取り囲む湖面に
その巨大な背中を眺めながら、山彦は問いを重ねる。
「ここで何があった?」
自然に形成された地理と考えるには違和感があった。透き通った湖に四方を囲われ、脈絡もなく山々が浮島のごとく突き出ている。交通の便も悪く、人里と行き来するには小舟に乗らなければならない。まるで大規模な洪水に見舞われた直後に思われた。
僧形の男は静かな眼差しで、遥か湖面を見下ろす。
「おそらくは闘争があった。かつてこの地を滅ぼした災厄の主と来訪神が相争い、片方を土地ごと平らげた」
瞼を細める。
「その神こそ、俺が求めている水底の神だと考えている」
山彦はその横顔を
「その神さまに会ってどうする。願い事でもするのか」
「質問ばかりだな、お前は」
好奇心旺盛な少年の問いかけに、壮年の男は苦笑いをした。
「そうだな、願い事と言っても良いかもしれん」
「何を願う」
「さてな。お前が知るべきことではないよ」
山彦が何か言おうと口を開きかけて、僧形の男は湖に背を向けた。
「今日はここまでだ。お前に相応しい狩りの道具を用意してやる」
そう告げて、薄墨色の背中が遠ざかっていく。足音が唐突に止んだ。
「くれぐれも湖の中に入ろうなどと考えるなよ。あそこは人の世にあらず。二度と帰ってはこられぬぞ」
返事を待たずに
どこか懐かしい匂いがした。
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