山彦と海彦

@ninomaehajime

第1話

 朔杖かるかという木の棒で、小さな銃口に鉛玉と火薬を押しこむ。火皿に口薬くちぐすりを入れて、火蓋を閉じた。面前でくすぶる火縄を薄い瞳に映して、銃身を構える。その眼差しが射抜くのは一羽の野兎だった。狩人の気配を感じているのか、後ろ脚で立ち上がって長い耳をそばだてている。

 そのつぶらな瞳が映したのは、薄墨色をした僧衣そうえの男だった。火縄銃を構え、姿勢を低くして袈裟を垂らしているさまは、滑稽ながらも堂に入っている。野兎が危険を感じてくさむらに逃げる寸前に、引き鉄が引かれた。

 山林に銃声が鳴り響いた。樹上より一斉に鳥が飛び立つ。銃口から硝煙を上げて男は立ち上がった。火縄銃を肩に担いだまま、足袋を履いた足で獲物がいた地点へと向かう。身を屈めると、その手には長い両耳が握られていた。

「存外、錆びつかぬものだな」

 頭部を撃ち抜かれ、四肢を脱力させて痙攣する野兎を見下ろす。僧侶の出で立ちでありながら、五戒を破った呵責かしゃくは一切見受けられない。

 僧形そうぎょうの男は息絶えた野兎をぶら下げながら、樹上を見上げた。

「やってみろ、山彦やまひこ

 山毛欅ぶなの太い枝に人影が腰かけていた。雲が移ろい、木漏れ日が揺らめく。袖の短い麻の服に萌葱もえぎ色の袴姿の少年が、草履ぞうりを履いた足を交互に振っていた。まだ成人には届かない年格好ながら、日にけた筋肉質な肌をしている。腰を浮かせて飛び降りると、紐でくくった後ろ髪が尾を引く。

 身軽に着地した少年は、頭の後ろで両手を組んだ。

「あんた、殺生しても良いのか」

 色のない瞳が仕留めた獲物を眺める。

「俺に僧籍はない。国を巡るのに都合が良いから、僧侶にふんしていたに過ぎぬよ」

 剃髪ていはつをしておらず、垂らした前髪の下で呟く。

「神仏は、我々の生き死になど頓着せぬ」

 山彦は眉を跳ねただけだった。その少年に向かって無造作に火縄銃を放り投げる。

「あの木に当ててみせろ」

 僧衣の男が指差したのは、五間ほど離れた位置に生えた樫の木だった。高い杉の巣で、栗鼠りすが顔だけを覗かせて地上の様子を窺っていた。背丈が低い方の人間が受け取った道具をぎこちなく扱い、先端に何かを押しこんでいる。準備が整うと、長い筒を水平に構えた。胡桃くるみ色の瞳が離れた樫を映す。

 引き鉄が引かれた。再び轟音が鳴り響き、杉の樹肌が弾けた。驚いた栗鼠が巣の奥に引っこむ。

「随分と器用だな。どうしてそうなる?」

 両袖に手を入れた男は言った。足袋を履いた足元には、黒い煙を噴いた銃身が横たわっていた。少年の手からすっぽ抜けた火縄銃が空中を舞い、銃口から火花が散った。まるで見当違いの方向に発砲され、樫の木に弾痕が穿うがたれることはなかった。

 少年は自分の手を眺め、心底不思議そうに言った。

「何でだろうな?」

「わかった。弾と火薬の無駄だ」

 淡々と結論づけて、男は火縄銃を拾い上げる。わずかに眉をひそめた。引き鉄の部分が、持ち手となる用心鉄ようじんがねごと握り潰されていた。木の素材でできた銃身もひび割れている。

「人に寄っていても、やはり合いの子か」

 その呟きは山彦には届かなかった。悪びれた様子もなく、朽ちた倒木に腰かける。その樹皮に白い花びらが重なって見えるきのこが生えており、無造作にむしって口の中に放り投げる。

「おい、その茸は毒だ。死ぬぞ」

「なあ、国を巡ってるって言ったな。わざわざ僧侶に化けてまで、何で旅をするんだ」

 男の制止を無視して、山彦は頬張りながら尋ねた。少年の毒に強い特異体質を知っている男は、かすかにため息をつく。やがて言った。

「人、を捜している」

 なぜか一瞬だけ言い淀んだ。

「尋ね人か。どういう人なんだ」

「盲の娘だ。齢は七つほど、白装束を着ている」

 その断定的な口調に、山彦はわずかに首を傾げた。その娘をいつから捜しているかは知らない。少なくとも自分を育てているあいだは捜索できなかったはずだ。盲はともかく、年格好は変わるものではないか。

 喉仏を動かして、白い茸を呑み下す。少しの間を置いて、育ての親に尋ねた。

「あんたの、本当の娘か?」

 壮年に見える男は、わずかに口元をほころばせる。

「そんな大層なものではない。あれはただのうつわに過ぎぬ」

「器?」

「ああ、形代かたしろだ。本当に用があるのは、あれの中にいる神よ」

 少しのあいだ、その言葉の内容を噛み砕く。倒木に座ったまま、木立が開けた向こうにある山麓に視線を投げた。

「神って、ああいうのか」

 胡桃色の瞳には、極めて広大な湖をたたえていた。青々とした山麓を縁取り、傾きつつある太陽を呑みこんで水平線が空をわかつ。澄んだ真水が陽光に煌めき、流れる白雲を逆さに映す。まるで鏡だった。

 その磨かれた湖面の上に、背骨が浮かぶ人間の後ろ姿によく似た、白い巨人の体躯が盛り上がっている。奇形の鯨を思わせるが、そのひれは人の手足に酷似していた。小山を彷彿ほうふつとさせる背中を覗かせながら、大きな湖を静かに漂っている。

 ただの棒切れと化した火縄銃を肩に担いで、少年の近くに寄った男は白い異形を見下ろす。

「俺が追い求めるものではないが、少なくとも眷属なのだろうな」

 山彦は尋ねた。

「なあ、あれは何なんだ」

「理外のことわりよ。おおよそ人の理解が及ぶものではない」

 吹き下ろしの強風が吹くと、枝葉が一斉にざわめいた。少年の後ろ髪がはためき、僧衣の余った袖が風を孕む。山々を取り囲む湖面にさざなみが立ち、虎落笛もがりぶえに似た音が鳴り響いた。どうやらあの巨人が発しているらしい。

 その巨大な背中を眺めながら、山彦は問いを重ねる。

「ここで何があった?」

 自然に形成された地理と考えるには違和感があった。透き通った湖に四方を囲われ、脈絡もなく山々が浮島のごとく突き出ている。交通の便も悪く、人里と行き来するには小舟に乗らなければならない。まるで大規模な洪水に見舞われた直後に思われた。

 僧形の男は静かな眼差しで、遥か湖面を見下ろす。

「おそらくは闘争があった。かつてこの地を滅ぼした災厄の主と来訪神が相争い、片方を土地ごと平らげた」

 瞼を細める。

「その神こそ、俺が求めている水底の神だと考えている」

 山彦はその横顔を一瞥いちべつする。普段と同じく何を考えているかわからない表情なのに、その瞳には仄暗い光が見え隠れした。

「その神さまに会ってどうする。願い事でもするのか」

「質問ばかりだな、お前は」

 好奇心旺盛な少年の問いかけに、壮年の男は苦笑いをした。

「そうだな、願い事と言っても良いかもしれん」

「何を願う」

「さてな。お前が知るべきことではないよ」

 山彦が何か言おうと口を開きかけて、僧形の男は湖に背を向けた。

「今日はここまでだ。お前に相応しい狩りの道具を用意してやる」

 そう告げて、薄墨色の背中が遠ざかっていく。足音が唐突に止んだ。

「くれぐれも湖の中に入ろうなどと考えるなよ。あそこは人の世にあらず。二度と帰ってはこられぬぞ」

 返事を待たずに草鞋わらじの音が離れていく。山彦は倒木に腰かけたまま、改めて鏡に似た湖面を眺めた。あの白い巨人の姿は忽然と消え失せており、薄暮が湖の色を染めていた。

 どこか懐かしい匂いがした。

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