ムスカリの花
ムスカリの花
パルミュラの市場は、香辛料や絨毯、そして様々な種類の果物や野菜が所狭しと並べられていた。砂漠の町とは思えないほど、色とりどりの光景が広がっていた。素晴らしいオアシス都市だなとハイダルは言葉を溢した。
食料を買いに行くナディムと一旦別れ、市場を歩きながら失われた故郷の記憶を探すように、一つ一つの品物に目を向けていた。
そんな中、ハイダルは青い花に視線を奪われた。それはムスカリだった。春の訪れを告げる可憐な花。その青紫色の花びらは、まるで小さな葡萄のようだった。
不意に懐かしさを感じ思わず一束買い、深呼吸をしてその花に顔を近づけた。すると、かすかな麝香のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。その香りの中に、断片的だった幼い頃の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
母が作ってくれたムスカリの花冠、祖母と花摘みをしたこと、村の広場に広がる青い絨毯のようなムスカリ畑。膨大な記憶が脳裏を駆け巡る。
「この香り…、故郷だ…。」
ハイダルは、思わず呟いた。ムスカリの香りは、失われていた故郷の記憶を呼び覚ます鍵となった。ハイダルの心は喜びと感動で満たされた。
「この花はどこで…?」
ハイダルは市場の主人に声をかけた。
「ナディム!」
ハイダルは、急いでナディムの元へ駆けつけた。ムスカリの花束を抱え、興奮気味に言った。
「故郷の花だ!北西の山間部だそうだ!」
ナディムは、ハイダルの様子に驚きながらも、すぐに笑顔を見せた。
「本当か!?やったな!ハイダル!」
二人は再び旅の準備を始めた。ムスカリの花は二人にとって故郷への道を照らす灯台のような存在になった。
ムスカリの花束を胸に、ハイダルとナディムは北西の山間部を目指して旅を続けた。灼熱の砂漠から一転、緑豊かな山々が現れ、涼しい風が吹き抜ける。道中、様々な風景が広がり、二人はその変化に目を奪われた。
森の中を歩いている内にムスカリの花が咲く川岸に到着し、そこで休むことにした。
川岸に腰を下ろし、二人はしばし静かに時を過ごした。澄み切った川の水が、陽光を浴びてキラキラと輝いている。耳を澄ませば、鳥のさえずりと川のせせらぎだけが聞こえてくる。川岸に広がるムスカリの絨毯のような光景に、ハイダルは息をのんだ。故郷の村の広場で咲いていたムスカリの花と重なり、温かい感情で満たされる。ナディムは、そんなハイダルの横で静かに微笑んでいた。二人は、この静かな場所で、ようやく安らぎを感じることができた。
「少し涼んでくるぞ。」
と、ハイダルはそう言うと、服を脱ぎ捨て川へと飛び込んだ。冷たい水が体中を駆け巡り、爽快感が広がる。ナディムもそれに続き、二人は子供のように無邪気にはしゃいだ。
夕焼けに染まる川面が、二人の心を穏やかに包み込む。水の音と鳥のさえずりが心地よく響き渡る中、ハイダルは川の流れに身を任せていた。
静かに近づいたナディムは、背後からハイダルの肩にそっと手を置いた。そして、ゆっくりと腕を回し抱きしめる。ナディムの濡れた髪がハイダルの頬に触れ、心臓が大きく跳ねる。
ハイダルはナディムの温もりを感じ、思わず息をのんだ。心臓が鼓動を早め、頬には朱がさす。ハイダルを覗き込むナディムの瞳には官能的な色があった。
その瞳に吸い寄せられ、いつのまにか自然とキスをした。
口付けは次第に深みを増し、二人は互いの体を求め合うように絡み合った。夕焼けが二人を照らし、まるで燃え上がる炎のように二人の感情を熱くする。
いつまでも続くかと思ったキスだったが、次第に二人の呼吸は荒くなり、最後は静かに唇を離した。しばらくの間、二人は何も言わずにただ抱きしめ合った。
そして見つめ合い、どちらからともなく身体を重ねた。
夜の帳が下り、寛げた格好のナディムが竪琴を弾いている。その傍らには焚き火が焚いてあり、二人は静かに語り合っていた。火の光が二人の顔を照らし、まるで二人だけの世界のようだった。ハイダルはナディムの奏でる音楽に耳を傾け、穏やかな気持ちに包まれた。
火がパチパチと音を立てる中、二人は食事の準備を始めた。素朴ながらも味わい深い食事だ。干した羊肉は、噛むほどに肉の旨味が口の中に広がる。羊乳で作られた濃厚な乾酪は、ナツメヤシの実と共に食べると甘さと見事に調和し、贅沢な一品となっていた。それらを酢を入れた水で流し込む。
「この羊肉は美味いな。」
ハイダルは思わず言葉が溢れた。
「あぁ、それは母が作ったのだ。私の大好物だ。」
ナディムは嬉しそうに言った。
「母か…。」
「ハイダルは故郷に帰ったらどうする?」
ナディムが問いかけると、ハイダルはしばらく考え込んだ。
「何も考えていなかったな。ただ一目故郷が見たい。それだけだった。家族は覚えていてくれるだろうか…。」
故郷への郷愁と不安を入り交ぜた表情を浮かべた。
「きっと覚えているとも!それに私が傍にいる…。」
ナディムはハイダルの手を握りしめ、
「故郷に帰っても、共にいさせてほしい。」
静かにそう告げた。
彼の瞳には、深い愛情と決意が宿っていた。
火の光に照らされた二人の顔には、満足げな笑みが浮かんでいた。彼らは言葉はなくとも、互いの気持ちを理解し合っていた。
森の静寂の中で、二人の絆はますます深まっていった。
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