旅路

旅路

砂漠の空の下、駱駝の足跡が刻まれていく。

黄金の太陽が肌を焼けつく。

ハイダルは強すぎる太陽の光線に少々意識が混濁し、駱駝の揺れに合わせてハイダルの視界は揺らめいた。

砂漠の広大な風景の中に、突如としてコロッセウムが現れた。満員の観客席、血で染まった砂、そして遠くに見えたローマの街並みが、まるで昨日のことのように鮮明に蘇った。荒れ狂う獅子や熊の咆哮、剣と盾がぶつかり合う金属音、そして歓声と悲鳴が入り混じった騒音がハイダルの耳を打ち鳴らした。鼻腔を刺激する生臭い血の匂い、哀れな罪人を喰らう獣の息づかい、そして汗と土の匂いが残虐な記憶を呼び覚ました。栄光と残酷さ、歓声と孤独。二つの感情が彼の心の中で激しくぶつかり合っていた。

しかし次第にその景色は薄らいでゆく…。

次の幻覚は故郷での景色だった。

母の歌声、井戸の水の冷たさ、人買いに捕らえられ乗せられた船、奴隷市場での競り、そしてデリーゲレ…。

目まぐるしく止まらぬ幻覚に駱駝の背から転げ落ちそうになるが、ハイダルは駱駝の首にしがみつき必死に耐えた。

 

「ハイダル、大丈夫か?少し休もう。」

ナディムの声が現実に引き戻した。

ハイダル達は駱駝から下り、砂地に腰を下ろした。砂の熱が体にしみ込む。

「…デリーゲレ…。」

呟きのような声は、砂漠の静けさに消えていった。ナディムは、ハイダルの様子を案じて、静かに彼を見つめる。

「また、夢を見たのか。」

ハイダルはうなずき、砂漠の空を見上げた。

「ローマで過ごした日々は、まるで悪夢のようだった。」

ナディムは、ハイダルの手を握りしめた。

「もう、過去のことだ。大切なのは、これからだ。」

ハイダルは、ナディムの温かい手に触れ、少し安らぎを感じる。

「でも、俺は…。」

「あなたは強い。ローマで生き抜いたあなたなら、どんな困難も乗り越えられる。」

ナディムの言葉に、ハイダルはかすかに微笑む。

「ありがとう、ナディム。」

二人はしばらくの間、何も言わずに遠くを見つめていた。

「ナディム、あれは何だ?」

立ち上がり、目を凝らすと、砂煙が立ち上り数頭の駱駝と人間らしき影が見えた。

「盗賊だ。気をつけろ!」

ナディムは、素早く弓を構え、矢を射放った。矢は、盗賊の一人の肩をかすめ、悲鳴が上がった。

ハイダルは、剣を抜き、戦闘態勢に入った。

盗賊達は野獣のような眼光をぎらつかせながら迫ってきた。砂塵が舞い、視界が不明瞭になる。

一人の盗賊が、ハイダルの背後から襲いかかった。

「危ない!」

ナディムは、咄嗟に体を投げ出して、ハイダルを庇った。盗賊の刀が、ナディムの肩をかすめ、血が流れ出た。ナディムは痛みを堪え、盗賊の腕を掴み地面に叩きつけた。

ハイダルは怒りに燃え、盗賊のリーダーに向かって突進した。二人は激しい戦闘を繰り広げた。砂が舞い、汗が飛び散る。一瞬の隙をついて、ハイダルは男の腕を切り裂いた。男は悲鳴を上げ、剣を落とし地面に倒れ込んだ。

残りの盗賊たちは、リーダーが倒れたのを見て、逃げていった。

ハイダルとナディムは、息を切らしながら、地面にへたり込んだ。

「ナディム、大丈夫か?」

「少し傷があるが、すぐに治る。あなたはどうだ?」

「ああ、少しばかり疲れただけだ。」

二人は、互いに安堵の表情を交わし、静かに息を整えた。

「こいつをどうする?」

ナディムは傷を押さえながらハイダルに訊いた。

「ま、待て…命だけは!」

男は声を荒げた。

「お前を生かして何になる。」

ハイダルは剣を男の顔の横に突き立てた。

刃が男の頬を掠め、出血した。

「あ、案内してやろう。」

「何?」

「この先は流砂や砂嵐が多発する地帯だ。おれならば迂回することができる。どうだ…?案内人として雇っちゃくれないか?」

男は震えていた。

「こんな状況で取引か…。それ程生きたいか。」

「養う家族がいるんだぁ!助けてくれぇ!」

「ハイダル…、案内してもらおう。この先は越える自信がない。」

「仕方ない…。」

突き立てた剣を抜くと、盗賊は安堵からさめざめと泣いた。


盗賊の名はイツハクといった。元来の盗賊ではなく、度重なる重税から盗賊に身をやつした農民だったそうだ。


「おれはもう盗みなんてやめるぜ。こんなに怖い思いしちまったんだからよ。かみさんとこ帰ったら畑仕事でもなんだってする。本気だぜ。」

ハイダル達に怪我の治療を施されたイツハクは、荒涼とした砂漠の空を見上げ、静かにそう呟いた。その瞳には、これまでの荒んだ日々を悔やむような影が浮かんでいた。度重なる重税に耐え切れず、盗賊の道を選んだ自分。家族を養うためとはいえ、多くの悪事を働いてきた。しかし、ハイダル達との出会いがイツハクの心の何かを変えた。

「羊はどうだ?毛も乳もなんだって恵みになる。」

ナディムが言った。

「そりゃいいな。羊飼いだって悪くねぇ。」

イツハクはニカッと笑った。


ハイダル達は駱駝を連れ、流砂地帯へと足を踏み入れた。太陽が照りつけ、砂がゆらめく大地は、一歩踏み出す度に足を取られそうになる。イツハクは、自らの経験を頼りに、最も安全なルートを進む。

「この辺りは昔、商隊が飲み込まれた場所だ。砂が煮え立つように動くから、一歩も踏み外すな。」

イツハクの言葉に、ハイダルとナディムは背筋を凍らせた。砂漠の静寂を破るように、どこからともなく悲鳴のような声が聞こえたような気がした。それは、流砂に飲み込まれていく者の絶叫か、それとも気のせいか。

一行は慎重に歩みを進めてようやく流砂地帯を抜け出した。その時、地平線に黒い雲が湧き上がり始めた。

「あれは…!」

ナディムが叫ぶ。砂嵐の兆候だ。

イツハクは焦りを見せながらも冷静さを失わず、ハイダル達を安全な場所に導こうとする。

「急げ!あそこに岩陰がある!」

イツハクの指示に従い、岩陰に身を隠した。砂嵐は、想像をはるかに超える勢いで襲いかかる。視界はほとんどなく、耳を覆う轟音が響き渡る。風によって巻き上げられた砂が、まるで生き物のように襲いかかってくる。

砂粒が肌を刺すように痛み、呼吸が苦しい。

嵐が過ぎ去り、再び太陽が顔を覗かせたとき、彼らは生きた心地がした。


砂塵が舞い上がり、視界を遮っていた世界が、徐々にクリアになっていく。太陽の光が砂漠の彼方から差し込み、彼らの顔を温かく照らした。目の前に緑豊かなオアシスが現れ、鳥のさえずりが聞こえる。

ナディムはイツハクの手を握りしめ、感謝の言葉を述べた。

「ありがとう、イツハク。冷静な判断と勇気のおかげで、私達は無事だった。」

ハイダルもイツハクに礼を述べた。

イツハクは照れくさそうに笑った。


オアシスの泉のそばに腰を下ろし、ナディムは竪琴を取り出した。夕焼け空を背景に、彼は故郷を懐かしむようなメロディーを奏で始めた。その音色は砂漠の静けさを切り裂き、彼らの心を癒やした。

ナディムは言った。

「パルミュラへ行こう。巨大なオアシス都市だ。きっと、そこで何か手がかりが見つかるはずだ。」

「パルミュラか…。」

ハイダルは、ナディムの言葉を反芻し、遠い視線を砂漠の彼方に向けた。

「長い道のりになるな。だが安心しろ、そこまで案内するぜ。」

イツハクはハイダルの肩に手を置きながら言った。

一行は早めに眠りにつき、英気を養った。


砂漠の朝は静寂に包まれていた。太陽が地平線からゆっくりと顔を出し、砂漠を黄金色に染めていく。一行は、オアシスを後にし、再び広大な砂漠へと足を踏み入れた。砂丘を越え、時には蜃気楼に惑わされながらも、彼らはひたすら南へと進んでいった。

砂漠の昼は容赦なく暑く、夜には冷え込む。彼らは互いに励まし合い、困難を乗り越えていった。限られた水と食料を大切にしながら、砂漠の厳しさを肌で感じていた。


砂塵舞い上がる視界の先、蜃気楼のようにぼんやりと現れたのは、巨大な石造りの門だった。刻まれたレリーフが栄華を物語っている。太陽の光を浴びてきらめくその門は、砂漠の広大な風景の中にひときわ異彩を放っていた。

「ついに来たか、パルミュラ…」

ナディムは、息をのんで見入っていた。

ハイダルは長かった旅の終わりを感じ、心は高鳴っていた。ハイダルとナディムはそれぞれに思いを馳せながら、門へと近づいていく。

「おれの案内はここまでだ。」

イツハクが後ろから声をかけた。ハイダルとナディムは振り返り、静かに彼を見つめた。長い旅を共にした仲間との別れは、何とも言えない寂しさを感じさせた。

「ありがとう、イツハク。お前がいなければ、ここまで辿り着けなかった。」

ハイダルの声には感謝の気持ちと同時に、別れを惜しむ切なさも滲んでいた。イツハクはにこやかに頷き、

「気をつけてな。」

とだけ告げ、再び砂漠へと消えていった。

静寂が二人を包み込む。イツハクの姿が見えなくなった後も、ハイダルとナディムはしばらくその場に立ち尽くしていた。イツハクは無事に帰れるのだろうか。家族との再会を果たせるだろうか…。そんな思いが二人の心を締め付けた。

そして、深呼吸をして、再びパルミュラの門へと歩みを進めた。

重厚な石造りの門をくぐると、砂漠の荒涼とした風景から一転、そこはまるで絵画のような美しさだった。そこには青々とした庭園が広がっており、色とりどりの美しい花が咲き乱れていたのだ。花達は太陽の光を浴びて微笑んでいるようだった。

庭園を抜けてさらに進むと、活気あふれる市場が現れた。そこには、香辛料や布、宝石など、様々な商品が並べられていた。商人達の威勢の良い掛け声が響き渡り、人々の笑顔と溢れんばかりの生命力に圧倒され、心が躍る。砂漠の真ん中にあるとは思えないほどの豊かな緑と活気に満ちた都市。それが、パルミュラだった。

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