追跡者
追跡者
ハイダルは夢を見た。
辛く苦しい過去の景色だった。
血生臭い闘技場の熱気、観客の歓声と野次、そして、倒れた仲間たちの無残な姿。ハイダルは拳を握りしめ、自身をこの地獄に堕とした張本人の姿を思い浮かべた。
「デリーゲレ…。」
デリーゲレの冷酷な笑みを思い出した。ハイダルは、自分の人生を狂わせた男への復讐を誓う。しかし、同時に、その憎しみから解放されたいという願いも感じていた。
「レオニウス、私の息子……。」
デリーゲレに優しく抱きしめられた過去。
光溢れる優しい記憶と闇に突き落とされた暗い記憶。
記憶が交差する。
奴隷であるハイダルにラテン語やギリシャ語、そして哲学を授けた優しい保護者のようなデリーゲレの姿は、鞭を持った冷酷で恐ろしい姿に変わった。
「失望したぞ。レオニウス。お前なら私を理解すると信じていた。」
いつのまにか少年の姿になっていたハイダルは、足元に広がる奈落の底へ落ちていく……。
「…イダル、ハイダル…!」
ナディムの声にはっと目が醒めると、酷い汗をかいていた。暗闇に月の光が照らされている。
「酷くうなされていたぞ。」
「あぁ、過去の夢を見ていた…。」
ハイダルの声はかすかに震え、項垂れた。
ナディムは、彼の様子に気づき、そっと手を握った。
「過去は変えられないが、未来は変えることができる。あなたが良ければ、共に前を向いて歩こう。」
ナディムの言葉にハイダルは目を瞬かせた。
「それは…、つまり…。」
「……あなたを…守らせてほしい…。」
ナディムの瞳は心なしか潤んでいた。
ハイダルは思わずナディムの瞳に吸い込まれそうになる…。
突如天幕に一人の男が飛び込んできた。
「ナディム、大変だ!」
「兄よ、何があったのだ。」
「ローマ兵が取り囲んでいる!」
月の光が差し込む、静かな天幕の中から外を見つめた。
「見つけるぞ、レオニウス!」
「この集落に隠れているはずだ!」
ローマ兵達は、松明を照らしながら、あたりを見回している。集落は弓矢や槍を持ったローマ兵に完全に包囲されていた。
ナディムは息を呑んでハイダルを見つめた。
「ローマ兵が…、なぜここに?」
ハイダルの顔には、動揺の色が浮かんでいた。
「まさか、デリーゲレか…。」
彼はゆっくりと呟き、過去を回想しているようだった。
「でも何故…俺を手放したはずだ。」
「どうする、ハイダル?」
ナディムは、緊迫した表情で尋ねた。
「戦うしかないだろう。だが、このまま戦うのは無謀だ。奴らの数は我々をはるかに上回る。他に方法はないか?」
ナディムは思案した。
「魂の祠に行こう。」
「魂の…祠…?」
ハイダルは首を傾げた。
「一族に伝わる隠れ家だ。」
アミールが言った。
「砂漠の奥深く、洞窟の中にある。洞窟の複雑な地形を利用すれば、ローマ兵の追跡を振り切れる可能性がある。」
ハイダルは
「ならその洞窟を利用するんだ。ローマ兵は、洞窟の構造を知らない。そこに誘い込んで、一人ずつ仕留めていこう。」
ナディムは、ハイダルの考えに賛同した。
「だが、ローマ兵も警戒しているだろう。どうやって彼らを誘い込む?」
ハイダルは、自信満々に答えた。
「ローマ兵は、必ずこちらを追ってくるだろう。あえて奴らが追跡しやすい道を通って、洞窟へと誘い込むのだ。そして、中で待ち伏せしてやろう。」
「私は一族を守らねば。」
アミールが言った。
「では、二人で行こう。」
弓矢を持ったナディムが言った。
二人は静かに天幕を抜け出した。砂漠の夜空には、無数の星が輝いていた。
ローマ兵の視界から姿を消し、洞窟へと続く道をたどった。道中わざと足跡を残したり、火を焚いたりしてローマ兵を誘導した。
洞窟に入ったナディムは急いで天井に罠を仕掛けた。
ローマ兵たちは、二人の足跡を追って、洞窟へと近づいてきた。洞窟の入口に到着したローマ兵たちは、警戒しながら中へと進んでいった。
洞窟内は薄暗く、視界が悪かった。ハイダルとナディムは事前に決めていた場所に隠れ、ローマ兵が近づいてくるのを待った。
最初のローマ兵が現れると、ハイダルは素早く飛び出し、剣を振るった。ナディムは、弓矢で遠距離から攻撃を加えた。
洞窟内は、たちまち戦場と化した。ハイダルは剣術の技を駆使して兵士を倒す。ローマ兵達は予想外の攻撃に驚きながらも、必死に抵抗してきた。
ハイダルとナディムは、狭い洞窟内での戦いに苦戦したが、互いに助け合いながら次々と敵を倒していく。
ローマ兵の隊長と対峙したハイダルは、激しい戦いを繰り広げた。隊長は、大きな斧を振り回し、ハイダルの隙を突こうとする。ハイダルは、ローマで学んだ剣術の全てを出し尽くし、必死に抵抗した。
ナディムも弓矢で隊長を狙いながら、ハイダルを援護する。しかし、隊長の攻撃は容赦なく、ハイダルは次第に追い詰められていく。
その時、洞窟の天井から大量の石が崩落した。これはナディムが事前に仕掛けた罠だった。ローマ兵達は突然の事態に混乱し、攻撃の手を緩めた。
その隙をついて、ハイダルは隊長の脇腹を突き刺した。隊長は悲鳴を上げて倒れ込んだ。
ローマ兵達を片付けたハイダル達は洞窟の奥へ進んだ。
洞窟の奥深くへと進んだハイダルとナディムは、薄暗い通路をたどるにつれて、高まる緊張感に包まれていった。壁には、古代の壁画が描かれており、この場所がかつて人々に崇められていたことを物語っている。
やがて、視界が開け、広大な空洞が現れた。洞窟の中心には、石造りの祭壇があり、その上に奇妙な形の石が置かれていた。それが、ラムル族が代々伝えてきた魂の祠だった。
「これが、魂の祠か。」
ハイダルは、息を呑んで祠を見つめた。石には、無数の模様が刻まれており、神秘的な雰囲気が漂っていた。
ナディムは、祠の前に跪き、手を合わせた。
「祖先よ、私たちをお守りください。この試練を乗り越えさせてください。」
ハイダルも、祠に向かって頭を下げた。この場所で、ローマで失った平和な日々を取り戻したいと心から願った。
ラムル族の集落へ戻ると、アミール達がローマ兵を倒した後だった。ハイダル達は互いの無事を喜んだ。
しかし、アミールは再びローマ兵が襲ってくる可能性を危惧していた。
「皆の者、我々はここから立ち退く。新しい土地を求め、再び旅に出よう。」
一族は驚きの声を挙げたが、アミールの固い決意に納得せざるを得なかった。
ハイダルは己のせいで追われることになったのだと同行を断った。ナディムは共にハイダルの故郷を探すと言って聞かなかった。
族長アミール率いるラムルの一族とハイダル達二人の別れの時が来たのだった。
翌日、ハイダルとナディムはラムル族に別れを告げ、砂漠を後にした。旅立ちの時、ナディムの母ニスリーンとアミールの妻ファティマは二人に食糧や旅具を授けた。母親は息子の旅立ちに胸を痛めた。しかし意思を尊重し温かく見送った。
駱駝の背に乗りながら、二人は後ろを振り返った。小さな集落は、砂漠の中にぽっかりと浮かんでいるように見えた。
「ナディム、よかったのか?」
「ラムル族はどこにいようとも、心は繋がっている。」
ナディムの言葉にハイダルは前を見据えた。故郷への道は遠く、険しい道のりだが、もう一人ではなかった。ナディムとの絆を胸に、新しい一歩を踏み出した。
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