デリーゲレ

デリーゲレ

煌びやかな燭台の灯りが、神話の場面を映し出したモザイク画の床に幾重もの影を落とし、まるで星空が広がっているかのようだ。奏者の奏でるウードの音色が響き渡る。給仕の奴隷達は華やかな衣装を身に纏い、まるで神話に登場する神々の使いのようであり、その所作一つ一つに神秘的な美しさが宿っている。艶やかな踊り子達のしなやかな動きの舞は見る者の心を奪う。


食事用の簡易的なトガを身に纏ったデリーゲレは、ハイダルを招き入れた。

「さあ、ハイダル。これだけ多くの美食が揃っている。どれを最初に味わうか、迷うところだろう?」

デリーゲレは、肩に手を置きハイダルに微笑みかける。しかし、ハイダルの視線は、煌びやかな装飾でもなく豪勢な料理でもなく、遠くに一点に定まっている。彼の表情は硬く、口にした言葉は少ない。

「…食欲がない。」

ハイダルは、給仕に差し出された料理をそっと断る。

周囲の笑い声と音楽が、ハイダルの心に響くことはない。心は故郷の焼け焦げた大地と、失われた家族の面影に今もなお囚われていた。そしてナディムの身の安全が気がかりだった。

「ハイダル、どうしたのだ。旅の疲れが出たのか。」

デリーゲレはローマ兵達に合図を送った。

「では、とっておきの見せ物だ。見せてやろう。」

そう言ったデリーゲレは謎めいた笑みを浮かべた。

 

「アンティオキアには、クレストゥス教徒が蔓延っておる。しかし、クレストゥス教など取るに足らん。」

デリーゲレは海水で割った葡萄酒を仰ぎながら言った。

「今や皇帝は受容しようとしているが、私は認めぬ。」

デリーゲレの瞳には、野心と傲慢さ、そして一抹の狂気が宿っていた。

クレストゥス教が提唱する愛や平等など、デリーゲレには理解できなかった。この世は弱肉強食の世界であり、強者が生き残り、弱者が滅びるだけのことだった。デリーゲレはローマ帝国を自らの手で支配し、永遠の栄光を手にすることを夢見ていた。


大広間の扉が開き、数人のクレストゥス教徒が連行されてきた。彼らの顔には恐怖の色が浮かんでいた。デリーゲレは、冷酷な笑みを浮かべながら、こう告げた。

「この異教徒どもを、神々の名の下に裁くのだ!」


その時、突如としてハイダルはデリーゲレの前に立ち塞がった。

「待て、デリーゲレ!」

ハイダルの声は響き渡った。

「無辜の人々を殺すなど、許されることではない。」

デリーゲレは、怒りに震える声で叫んだ。

「お前は何を言うのだ、レオニウス。邪魔をするならば、お前の大切な者を人質にしてやろう。」


デリーゲレの合図で二人の兵士が縛り上げられた男を連れてきた。故郷の村で隠れていたはずのナディムだった。

「この男を傷つけたいのか?ならば、私の命令に従え。」

ハイダルは、ナディムが無事であることを確認し、苦渋の表情を浮かべた。デリーゲレの要求を受け入れるしかなかった。ハイダルは跪いた。デリーゲレは満足そうに笑った。

「賢明な選択だ。」

しかし、ハイダルの心の中では激しい葛藤が渦巻いていた。ナディムを助けたい一心で、デリーゲレに従わざるを得なかったが、同時に自身の信念を裏切ったような気持ちにもなった。


煌々と灯りが灯された大広間は、忠実な兵士達によって一瞬にして地獄絵図と化した。血しぶきが飛び散り、床は血で染められていた。豪華な絨毯の上には、無惨にも切り裂かれた遺体が横たわっていた。傍らにいた奴隷や踊り子達は恐怖し、目を背けている。デリーゲレは、その光景を満足そうに眺めて葡萄酒を嗜んでいた。赤い液体が彼の唇を染め、鋭い眼光はまるで飢えた獣のようだった。ハイダルはその様子を無力に見つめるしかなかった。


そして、デリーゲレは杯を置きハイダルへ視線を向けた。

「お前は私の期待を裏切った。相応の罰を与える。」

剣闘士に身を堕とさせられた時と全く同じ言葉だった。

鞭打ちで虐待された奴隷を身を挺して庇った。幼き日の自分を優しく受け入れ、勉学を授けた慈悲深いデリーゲレの姿は影も形もなく、あの日もあるのは冷血と狂気だった。

「さぁ、私に忠誠を誓え。」

デリーゲレは、冷笑を浮かべながら、足先を突き出した。ハイダルは、震える手でその冷たく滑らかな足に触れる。その瞬間、ハイダルの指に嵌めていた指輪がきらりと光ったように見えた。故郷の美しい風景、父からの贈り物、母からの愛…。父よ、母よ…どうかお守りください。そして深呼吸をして、ゆっくりと目を閉じ唇を近づけた。


一瞬、世界の全てが止まったような気がした。ハイダルの頬を伝う、熱い涙。そして、デリーゲレの唇から漏れた甘い言葉。

「よくやった、レオニウス。それでこそ私の愛しい息子だ。」

デリーゲレは、突然立ち上がり、ハイダルを優しく抱きしめ、頬に熱くキスをした。その温もりがハイダルの心を凍りつかせる。

「お前を愛している。」

デリーゲレの言葉は、まるで呪いのように聞こえた。ハイダルは、この男の歪んだ愛情に深い嫌悪感を抱く。

デリーゲレの腕の中越しにナディムと目が合った。ナディムの瞳には深い悲しみ、デリーゲレへの怒りと憎しみが宿っていた。そしてハイダルへの愛が痛いほど込められていたのだった。

突然、デリーゲレはハイダルの首筋にキスをした。

ゾク…と、悪寒が走った。気付いているのだ、ナディムと見つめ合っていることを。

デリーゲレの腕の中に閉じ込められたまま、ハイダルは絶望を感じた。奴隷から解放されたはずなのに、この男の所有物でしかない。

ハイダルは目を閉じ、従うしか他になかった。


奴隷達に傅かれ、身を清められ、そして寝室に連れて行かれた。身体には香膏を塗られた。

豪奢な装飾の寝台の上にはシルクロード交易で手に入れた絹の敷布が引かれ、傍にある剣闘士の姿が描かれた香油瓶からは官能的なダマスクローズの香りが漂っていた。

首筋に口付けをされた時点で、デリーゲレが何を求めているのかが分かっていた。閨の相手として選ばれたのだ。

黄金の鎖で拘束された。なんて悪趣味なものを…と、ハイダルは、心の中で呟いた。黄金の鎖は自由を奪い、デリーゲレの所有物として縛りつける象徴だった。

寝室に入ってきたデリーゲレは、生きた人形の様になったハイダルを満足そうに見下ろした。

その瞳には、所有欲と征服欲が渦巻いていた。ハイダルは、この男の欲望の対象でしかないことを痛感した。


地下牢に閉じ込められたナディムは、怒りと悔恨に打ちひしがれていた。自分のせいで無辜の人々は殺され、ハイダルがこのような屈辱を味わうことになり、心を痛めている。

「ハイダル…、許してくれ。」

ナディムは、暗い独房の中で自らの無力さを呪った。


ハイダルは幼い頃の夢を見た。

デリーゲレはギリシャの地図を広げ、指でなぞりながらギリシャ語で話していた。ギリシャの都市の名前、神話に登場する場所、そしてそれぞれの場所にまつわる物語。ハイダルは、一つ一つの言葉の意味を理解しようと必死に耳を傾けた。複雑な文字と、聞き慣れない発音に最初は戸惑ったものの、デリーゲレの穏やかな声に導かれるように、少しずつ言葉の世界へと引き込まれていった。

地図を眺めながら、ハイダルは自分が今まさに、世界を旅しているような気がした。想像力を膨らませ、地図に描かれた場所を一つ一つ訪れていく。アテネのアクロポリス、オリンピアの考古遺跡、クレタ島のクノッソス宮殿…。デリーゲレの声がハイダルの心に響き、古代から続くギリシャの歴史を生き生きと蘇らせてくれる。

いつか共にギリシャへ旅をしよう!デリーゲレはハイダルに言った。その言葉が嬉しくて元気よく返事をしようとした途端、目が覚めた。


「私の可愛いレオニウス。」

夢の中よりも年老いたデリーゲレが顔を覗き込んでいた。

デリーゲレの表情は夢の中で目にした慈愛のある表情ではなく、冷酷で猜疑心に満ちたものであった。ハイダルは、この男こそが自分の人生を狂わせた張本人であることを改めて認識した。

「お前はよく成長した。すっかり立派な男になった。」

デリーゲレは、そう言いながらハイダルの頬に触れた。その温もりが、ハイダルの心を凍りつかせる。

頬に触れた手はやがて首筋に降りゆっくりと愛撫し、ハイダルの心臓を震わせた。

やめてくれ…、ハイダルはそう言いかけたが人質のナディムのことを思い出し、その言葉を呑み込んだ。

デリーゲレは、まるで彫刻家が作品を仕上げるように、ゆっくりと丁寧にハイダルの体を撫でた。

胸の飾りを掠め、鍛え抜かれた腹部そして下生えも。

その様子は、ハイダルがデリーゲレの所有物であることを示しているかのようだった。

ハイダルの心の中では、激しい嵐が吹き荒れていた。この男の支配から逃れたいという激しい衝動と、ナディムを傷つけたくないという恐怖の間で揺れ動いていた。

「お前は私の物だ。永遠に。」

ハイダルはデリーゲレの歪んだ愛情の言葉に怒りに震え唇を噛み締め、黄金の鎖を引きちぎらんとしたが、その抵抗は無駄に終わる。ハイダルは無力感に支配された。もう二度と幼き頃の平穏な時は戻ってこないのだと思い知った。

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