故郷
故郷
二人は日の出と共に出発した。
ハイダルは、はやる気持ちを抑え歩みを進める。長年戻りたかった故郷だ。家族は無事だろうか、自分のことを受け入れてもらえるだろうか…。期待と不安が入り混じり、彼の心は高鳴っていた。しかし、村に近づくにつれ、緑の爽やかな匂いが、焼け焦げた匂いに変わった。鼻をつく匂いがハイダルの肺を締め付け、足元には生命力溢れる緑はなく熱でひび割れた大地がギシギシと音を立てていた。心臓が高鳴りから、不穏な鼓動に変わった。
「ここが…、故郷…。」
焦げた大地が広がるその場所は、かつて幼い頃のハイダルが無邪気に走り回った場所だった。ムスカリの花の絨毯が広がり、子供たちの笑い声が響いていたあの場所は、今では焼け焦げた瓦礫の山と化していた。焼け跡に立つハイダルは、まるで時間の流れが止まったかのように、ただ虚無を眺めていた。
ナディムはハイダルに幾つかの励ましの言葉をかけたが、ハイダルの心は深い悲しみに沈み、それらの言葉は全てかき消されてしまった。
ハイダルは静かにナディムに告げた。
「少し、一人でこの村を見せてもらえないか。」
「ハイダル、危険だ。何か少しでも変化があったら知らせてくれ。」
ナディムは心配そうに見つめていた。
一人になったハイダルは、記憶を頼りに焼け跡を彷徨い、かつて井戸の近くにある自分の家があった場所を見つけた。そこには、瓦礫以外何も残されていなかった。焼け焦げた瓦礫を必死に退かすハイダルの目には、涙が光っていた。そして、ようやく見つけたのは、一際黒く焦げた小さな箱だった。恐る恐る開けると、そこには、偶然大火を免れた銀の指輪が眠っていた。
指輪の裏側には、村で使われていた文字で「ハイダル」と刻まれていた。幼い頃、職人だった父が愛情を込めて作ってくれた指輪。それは、ハイダルにとって宝物だった。ハイダルは指輪を握りしめ、目を瞑る。
故郷は失われた。しかし、この指輪には故郷の記憶が刻まれている。父の温かい笑顔、母の優しい手、そして幼い頃の無邪気な日々。それらの記憶はハイダルの心に永遠に残る。
指輪を指にはめると、温かいものがこみ上げてきた。失われたものへの哀しみと、未来への希望が複雑に絡み合い、ハイダルの心を揺さぶる。故郷は失われたかもしれないが、その記憶を胸にこれからも生きていこうと決意した。
その瞬間、馬達のいななきが空を切り裂いた。不意打ちに、ハイダルは心臓が飛び出しそうな感覚に襲われた。振り返ると、そこには何人かのローマ兵が立っていた。彼らの目は鋭く、ハイダルを一瞥すると、こちらへと近づいてきた。
「見つけたぞ!レオニウス!」
ローマ兵の一人が叫んだ。
見つかった…!ハイダルは動揺した。急いで剣を構える。
すると、立派な馬に乗り甲冑を纏った人物が現れた。
それは…何度も悪夢に出てきたデリーゲレだった。
「レオニウス、会いたかったぞ。」
デリーゲレは過去のことが何もなかったかのように微笑みながらそう言った。ハイダルには不気味に感じられた。
「何故…、何故俺を?」
ハイダルの声は震えた。幼い頃、二人は共に時間を過ごし、デリーゲレはハイダルにとって父親のような存在だった。しかし、デリーゲレは家内奴隷の虐待を止めようとしたハイダルの反抗的な態度に腹を立て、剣闘士の過酷な世界に放り込んだのだった。
「あなたは俺のことを売り飛ばした。だからもう関係はないはずだ。」
ハイダルの言葉にデリーゲレは嘲笑した。
「獅子は我が子を千尋の谷に落とす。」
そう言い放つデリーゲレの瞳は冷酷な光が宿っていた。
「何だと…?」
「お前に試練を与えただけだ。私の可愛いレオニウス。」
ハイダルは背筋を凍らせた。デリーゲレは自分の行為を正当化させていた。
「さぁ、再会の記念にアンティオキアの城に帰り、宴を開こう。私とお前だけの宴だ。」
デリーゲレは嬉しそうに言った。その言葉にはかつての二人の関係性、そして深い歪みが潜んでいた。
ハイダルは剣を握りしめ、静かにデリーゲレを見つめた。心の中では激しい葛藤が渦巻いていた。ハイダルは村の入り口で待機しているナディムのことが気掛かりだった。上手く隠れているのだろうか?このまま抵抗すれば巻き込まれてしまうかもしれない。ナディムの存在を気付かれないようやり過ごすしかなかった。
ハイダルは剣を鞘に戻し、デリーゲレに従い、武装したローマ兵達に囲まれながらアンティオキアの城へ出発した。
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