彩園

宵町いつか

第1話

 空の縁が赤くなった。秋の入り口のことだった。

 机の上に置かれたペットボトルの水が煌めき、窓から差し込む橙の明かりを反射させる。秋のぬくもりのあるひかりが薄く机を濡らす。

 少女はふと外に視線を向けた。窓の向こう側に橙色が滲みはじめて、もうそんな時期になったかと思い、じっと窓から秋の空を眺める。空は橙以外にも温かい色に包まれはじめていた。どうやら本格的に秋に入ったようだった。この部屋の中からでは季節を感じられないため、少女の感覚はおかしくなる寸前であった。服装もずっと真っ白な入院着で、サイズが変わったところで柄は全く変わらなかった。変化を読み取ることができるのは景色だけだが、日中は検査のためその景色さえろくに見られない。そのため、日の入りや日の出の時間で感覚的に季節を感じ取るしか出来なかった。はっきりとした季節の変化を感じたのはひどく久しぶりのことだった。

少女はおもむろに手を窓に向かって伸ばす。それはなにも掴むことはなく、ただ景色にかざされるだけだった。手の先が色づく。途端に、胸に違和感を覚え、咳き込む。喉に何かが詰まる感覚がして、それがぱっと花開いてそっと枯れて、とっさに口元に置いた掌に舞った。今日は薔薇のような赤い花だった。少女には血のように見えて仕方がなかった。

少女はため息をついた。口の中に残っていた花びらが机の上に舞った。少女はそれを摘み取り、扉へ向かう。扉の横には棚があって、その棚は隣の部屋に繋がっている。

棚を引いて、中に血のような発色の花を入れ込む。ひらりと舞い降りた花は人間の体内にあったことなどを感じさせないほど美しかった。

 この花は調査された後、貴重なサンプルとして保管されると少女は聞いていた。少女のような花を吐く人間の研究を進めるためにだと、この部屋に入るときに聞かされた。少女に関することならばどんなものでもサンプルになる。頭からつま先、髪の毛の一本に至るまですべて。

 脳に異常はなかった。肺に異常はなかった。喉に異常はなかった。骨にも、肉にも異常はなかった。ただ、花が唐突に咲き、乱れ散る。少女にさえ理解できていなかった。

 はじめ、少女のことをただの構ってほしい人間が花を吐いているだけだと周りは評した。自傷を見せびらかす人間の類いと思われていた。しかし、少女が季節の違う花を吐き出すたびに、態度が変わっていった。興味から恐怖に、恐怖から無理解へと、変化していった。

 その年、少女は国に保護された。少女が周囲に無視されることに無関心になった頃だった。

 国に保護されて、椅子と机、そしてベッドしか生活を構成するもののない殺風景な部屋に連れてこられた。日中は検査に費やされるため、生活を制限する必要性すらなかった。毎日々々同じ事の繰り返しだった。

 その繰り返しが崩れたのは、九月。九月の十二日。その頃には少女の髪は肩ほどまでだったのが肩甲骨を通り越すあたりまで伸びており、顔に残っていた幼さも消え、少女と女性の狭間にいた。けれども、雪のような青白い肌や毛虫のような長い睫毛、丹花な唇は未だ健在で、どこかおぼろげな視線を向ける視線はやはりその日も何処かを捉えていた。

「こんにちは。」

 扉の前に髪の短い青年がいた。青年の背は高く、肉付きはあまり良くない。肌は青白く、眼窩は落ち窪んでいる。そのせいか目だけみれば五、六十歳のようだった。背中には大きなリュックサックを背負っている。角張り膨らんだリュックの中身に何が入っているのか少女は想像することすらなく、ただじっと見ていた。

 ベッドの上に座ったまま反応のしない少女を見て、青年は苦笑いをこぼし、空白の時間を埋めるようにまた「こんにちは。」と言った。

「こん、んちは。」

 少女はかすれた声を出した。声が喉を削るようにひりひりと痛む。少女はこの部屋に来てから、初めて声を出したような気さえした。それほど、声を出すのは久しぶりの事だった。

 青年は目を見開いて笑った。安心したように深い息を吐いて、少女を見た。内心に蔓延っている自身の緊張をほぐしていた。青年は国からの命令のため、ひどく緊張していた。青年は繊細で気が弱かった。昔から腹をよく壊し、些細なストレスで体調を崩した。

 青年は痰を払うように咳払いをする。突然、室内に響いた音に少女の肩は跳ねた。まるで猫のようだった。青年は少女のその反応に驚き、

「ああ、ごめん、ごめん。そんなつもりじゃ、ごめん。」

 と繰り返した。青年の瞳にも少女と同様、恐怖に似た変な思いはやはり宿っていた。

 青年はごくりと粘着質な唾を飲み、わずかながら体内を湿らせて申し訳無さそうに言った。

「私は、国からの命令で来た、ただの絵描きだ。」

 青年の説明に少女は訝しさの含んだ視線を向けた。青年は首筋をかき、困ったように笑った。

「本当のこと、なんだ。今、国はこの病気の原因を早く突き止めたがっている。君以外にも何十人、何百人の患者がいる。私が来たのもその治療の一環なんだ。」

 青年は必死に言葉を紡いだ。早口に、頬を軽く引きつらせながら言うものだから、少女には少しおかしく思え、わずかに頰を綻ばせた。

 その一瞬の表情を見て、青年は胸をなでおろした。大きく息を吐き、緊張や焦りを空気に溶かした。

 青年は国から絵に触れさせること以外に「少女にストレスを与えないように」といった命令を受けていた。

 国は少女が花を吐く理由はストレスが原因ではないかと考えた。絵に触れる、というのもストレス緩和を狙ったもので、絵に触れるといった芸樹分野以外に、運動や一種の破壊活動など多くのことを実験的に研究対象たちにさせていた。少女はまだ幸せな方だった。それを青年は知っていた。

 ただ、少女だけがなにも知らなかった。

 青年はリュックサックから道具を取り出した。使い古された筆にパレット、そして色のついた液体の入った瓶が数個。

「ああ、スケッチブックを忘れてしまった。」

 青年がそう呟くと、少女がいつも花を入れている棚が開いて、スケッチブックが出てきた。

「申し訳ありませんね、お国の方。」

 青年は少しおどおどしながらそう言って、スケッチブックを手に取った。ぱらぱらと捲り、おもむろに頷く。そうして少女の元に戻り、机の上に道具を置いた。

 青年の姿に惹かれて少女はベッドから降り、青年の隣に座った。少女には青年の姿がやけに寂しそうに思えたからだった。

 青年は隣に来た少女に一瞬視線を向ける。ささやかに笑い、青年は少女の姿を目に収め、いいようのない儚さを感じ取った。心が破滅に進み始めている人間特有のものだった。青年はその瞳をよく知っていた。

 青年は白紙のページを開き、鉛筆で下描きを始める。それを少女は無言で見つめる。青年はやはり緊張していた。

「何を書くのですか。」

 掠れ声で少女が問う。青年は緊張を悟られることのないように、わざとひどくゆっくり話しはじめた。

「この部屋を描こうとしているんだよ。」

 少女は驚いてさっと部屋を見渡した。少女たちのいる部屋は机と椅子、ベッドで構成されている。必要最低限のものしか置かれていない。入り口近くにトイレと小さなバスルームがあるくらいで本当に何もない。

「本当に?」

 少女は青年の発言が嘘に思えて、思わず聞いてしまう。青年はそれに苦笑いを返した。

「嘘をついて何になるんだい。」

 青年の発言に少女は納得し、黙って行く末を見守る。青年も揺れる手をどうにか押さえながら必死に線を描いていた。

 三十分ほどして、少女はベッドに戻った。青年はすっかり自分の世界に入ってしまい、少女だけ取り残されたからだった。青年の手から緊張が離れ、スケッチブックに取り込まれた。じっと進捗を眺めて時間を潰せたのもはじめだけで、もう少女にとっては青年が描いている姿はいつも眺めている部屋の内装と同じ意味を持っていた。青年はただの舞台装置と成れ果てた。

 ふと、色のついた液体が目に付いた。絵の具ではない。絵の具と言うにはあまりにも透き通っている。一つ、薄い黄色の液体の入った瓶を手に取って、天井の光に透かす。その瓶は天井の白光をうっすらと黄色に色づけた。少女の肌をうっすらと色づけた。青年は少女の行動に気がつき、動きを止める。一瞬、逡巡し「それは、綺麗かい?」とだけ聞いた。それ以上の言葉は少女にかけるのは酷だろうと判断した結果だった。

「はい。とても。」

 簡潔にそう返した少女の言葉を聞いて、青年は大の字になって寝転びたくなるほど安心した。そして自身の選択を呪った。小心者、と自身を罵った。そのことは少女に悟られることはなかった。

 青年は絵筆を取る。下描きが終わったのだ。

 少女の傍にあった瓶を寄せ、蓋を開ける。絵の具とは思えない、とてもいい香りが辺りを包み込む。まるで花由来のもののようだと少女は思った。

 青年はわずかながらに心を痛めながら、色のついた液体に筆を浸す。筆が色づき、花の香りが筆にうつる。青年は目を細め、そっと色を乗せた。今にも揮発してしまいそうなほど、淡い色だった。色を乗せたあと、水の入った瓶に筆をつける。

「いい、ですね。」

 少女は呟く。青年の表情はその声を聞いてわずかに曇り、コクリと頷いた。

「ああ、綺麗だよ。」

 青年はその発色を褒めた。少女は青年の腕を褒めた。たった、その程度の違いだった。

 その翌日、少女は青色の液体が入った瓶を手の中で暖めながら青年の描く絵の完成を待っていた。青年の手は昨日に比べ、震えは少なかった。

 少女は喉に違和感を覚え、瓶を置いた。青年も少女の変化に気がつき筆を置いた。一瞬、美しいほどの静寂が包んだ。

 少女の喉で花が咲き乱れた。

 少女が毛玉を吐き出すように花を吐く。今回は白い花だった。長細い、雪のような花だった。

「ダイモンジソウだ。」

 綺麗だ、と続けて突発的に青年が呟いた。驚いて、機械的に少女は青年の顔をじっと見つめる。少女にとって青年の感性は理解不能だった。理解できなくなった感性だった。

「本当に、そう思いますか?」

「ああ。」

 青年はそれきり言葉を発することはなく、無言で筆を進めた。良い香りの絵の具が紙の上を踊る。少女はその光景を漠然と眺めながら先ほど吐いた花を手の中に収めた。

 三十分ほどして、青年は筆を置いた。息を吐き出して、そっと少女に視線を向ける。その視線に気がついた少女は青年の絵をのぞき込む。

 机の上に花の散らばった、簡素な部屋が紙の上に描かれていた。ベッドの上には少女らしき人間が横たわっている。窓の向こうだけは白いままで、無い色は混ぜ合わせたのか、少し違和感のある独特な色合いを持って存在していた。例えば茶色の机は黄色と紫を混ぜ合わせ色を作っている。青みがかった紫色のせいか、少し物さみしさが混じっているように感じられた。

「この絵は、綺麗?」

 青年は少女を見て話しかける。少女は頷いた。青年は安心して息を吐いた。青年にはまだ少女にかつての感性が残っていると確信した。

「これはね、君の吐いた花を絵の具にして描いた絵なんだよ。」

 青年は言った。

 国の考えはストレスを感じる原因は自分が花を吐いているということではないかと考えた。花を吐く、ということに劣等感や嫌悪感を抱いているのではないかと。それならば、その花に付加価値があれば、その劣等感や嫌悪感が薄まり、ストレス緩和につながり花を吐く事がなくなるのではないかと考え、それを実行に移した。

 少女は言葉の意味を理解し、固まった。少女の人生を変えたこの花のことを自分は美しいと感じてしまった。そのことが嫌だった。少女にとって、吐き出された花はどうしようもなく気持ちの悪いもので、汚らしいものだった。少女の厭世観を形作るには花というものはあまりにも美しすぎた。花というものの匂い、形、そのどれもが少女にとっては無意味さを伝えるものだった。

 手元からダイモンジソウが落ちた。地面を白く色づけた。

 少女の喉でまた、花が咲いた。少女はそれを口の中に含んだまま、笑った。青年は、その顔を見て自身の間違いを知った。そこでやっと、知った。

 部屋を静寂が満たした。

「申し訳ない、と思っている。」

 青年の声が響く。悲しいほど、虚しい声だった。

 青年は気がついていた。変化する形を見せられたところで、人間はそう簡単にそれを好きになるわけではないと。人間はそこまで単純ではない。積まれた恨みや積まれた悲しみはそう簡単に変化することはないと知っていながら、自身のエゴを押し付けた。

 同時に少女も気がついていた。自身の心の変化を。けれどそれを否定したくて、また花が咲いた。途端に、少女はそれをまた口に含んだ。少女の顔が青く染まっていく。花が喉に詰まっているのだ。花は汚いものでなくてはいけない。罪でまみれていなくてはいけない。少女はそんな強迫観念に似た感情を携えていた。

「吐け、吐いてくれ。お願いだ。」

 青年は少女に訴える。背を叩き、少しでも少女を生かそうとした。地獄を見せようとした。

「きっと、これから良いことが起こる。ほんとうだ。きっと、仕合せになれる。ほんとうに。」

 青年はそう言って、何度も少女の背中を叩く。自然と力がこもりはじめる。少女に言葉は届かないことは知っていた。言葉から熱が失われ、行動に熱が入りこむ。

 少女は青い花を吐いた。ついに吐いた。いつもより多く青い花を吐いた。青い薔薇だった。美しい、薔薇だった。

 少女の体内から奇跡が全て吐かれた。

「もう、どうしようもないんです。もう、戻れないんです。私は花を美しい物と思えない。咲乱れている花も、枯れ始めている花も、美しいなんて思えない。その時点で、私は仕合せにはなれない。自然を美しいと思えない時点で生命として終りなんです。きっと、そうです。そうなんです。だって、そこにあるものを美しいと思えなければ、そんな人間は仕合わせとは言えないでしょう。変化を美しいと思えない人間はもうだめなのでしょう。あなたなら分かるはずです。一瞬でも仕合せを知っている人間には分かるはずです。仕合せは、綺麗な物です。純粋無垢な、素晴らしいものです。」

 少女は口の中にわずかに残った青い薔薇を吐きながら続ける。

「それに、不純物が混ざってみては、嫌いな物が混ざってしまえば、もうだめなんです。劣等感や自己嫌悪に潰されるんです。仕合せな自分が仕合せではないように思えてしまうのです。仕合せにならねばと思ってしまうのです。仕合せが辛くなってしまうのです。仕合せとはその残酷なことを指すんです。あなたに、それが分かりますか? あなたに、この感情が理解出来ますか? もう仕合せになれない人間の叫びが分かるというのですか?」

 絶望しか、残らないのです。

 少女は知っていた。自身が仕合せになることは不可能だということが。自身にそのような奇跡がないと知っていた。なぜなら今、こうして吐き出しているから。それが紛れもない真実であった。幻などではないことを少女は誰よりも理解していた。厭世観に染まり始めている少女を唯一止めているものは、吐いている新鮮な花のみ。もしそれが変わってしまったら少女は少女ではなくなってしまうのではないかと考えていた。少なくとも少女は嫌いなものによって生かされていた。

「嫌いな物を肯定されるほど苦しいものは無いんですよ。そんなこと、知っているでしょう。」

 少女はその未熟なままの感性で青年に言った。青年はもう少女に対して言葉を返すことはできなかった。

 少女はまた花を吐いた。それを棚には持って行かず、そのまま放置した。品種を知る必要は無かった。必要なのは色だけだった。

 青年はそれ以上この場にいるべきではないと判断し、立ち上がった。思い出したように絵の端に年号と日付を記した。青年のルーティーンであった。自身を肯定するための行動であった。その文字がまた少女を傷つけることを知らずに、青年は部屋を後にした。

 少女は青い花にまみれていた。何もかもが青い世界に少女は存在していた。

 少女が息を吐いた。口の中に残っていた花が舞い、地面の青い絨毯をその息でほのかに濡らした。

 少女の肩が小刻みに揺れる。悲しかったわけではない。うれしかったわけでもない。絶望したわけでもない。ただ、少女の心が少女の思考に耐えられなくなっただけだった。しかし少女はそれに気がついてはいなかった。ただ自分を慰めたくて、そっとベッドに潜った。

 夜が明けた。窓が青く色付いた。窓から差し込んだ光が花に吸収され、少女の淡い肌を青く濡らしていた。少女はベッドで蹲ったまま、じっとしていた。それを咎める者も、たしなめる人間もいない。少女に関わる人間はもういなくなった。

 何時間そうしていたのか、少女にも分からなかった。ただ、唐突に棚が開いた。

 少女はそれに驚き、立ち上がる。青年がやってくる時間のため動きがあったのだが、少女がそのことを知ることはできない。

 青年の代わりにやってきたのは新品のスケッチブックと筆、そして瓶のなかに入った透き通った色の付いた液体。少女はそれを手に持ち、机の上に置いた。視界に昨日青年が置いていったスケッチブックが置かれているのが映った。少女の記憶よりも三年進んだ日付に衝撃を受けながら、小さく息を漏らした。もう、どうしようもなかった。

 三年、経っていた。少女が日常から離れて、三年も経っていた。少女は、その間、成長したのだろうか。そんなこと、少女には全く分からないことだった。

 少女は瓶を開けた。花の香りが周囲を包む。少女はそのまま。瓶を逆さまにして、スケッチブックにかける。色はもう気にしていなかった。綺麗かどうかも気にしていなかった。少女にとって瓶の中身はすべて等しく汚いものだった。

 スケッチブックが濡れる。すべての紙がひっつき、連続したものとなった。すべてが必然で救いない日常。少女はその渦中にいた。

 少女は花を吐いた。赤い薔薇を吐いた。2本分吐いた。少女はやはりそれをそのままにした。少女の体にはもう奇跡も思い出もなにもなかった。少女がスケッチブックを絶え間なく濡らす。光がさして、その光の消える一瞬、青くなる時間のような、曖昧な儚い美しさがあった。

 青年が部屋にやってきた。いつものように大きなリュックサックを背負って。

 まず、青年の視界に写ったのは昨日置いていったスケッチブック。ずっと気にしていたということもあったのだろうが、青年は少女よりも先にそれを見た。

 次に写ったのは少女のスケッチブック。色がぐちゃぐちゃになって黒く滲んでいる。地面にまで液体が垂れていて、周囲には瓶が転がっていた。感情の渦のように混ざったそれらは断続的に床へ落ちて音を立てている。

 青年は少女を見つめる。その少女は虚ろな瞳で天井を見つめていた。少女は無感情にただ天井を眺めていた。青年は少女を見て一瞬の恐怖を感じ、足音を立てないようにゆっくり足を進めた。青年の体が動いたと同時にリュックサックが揺れ、中で瓶がぶつかった。軽い、鈴のような音が鳴って、空気が止まった。どんよりと重たくなり、少女の瞳がゆっくりと青年の方を向く。青年は少女の瞳から逃げるように、体をわずかに縮こめた。

 青年は一瞬、瞳に映った青年の姿を見てしまって、心臓を跳ねさせた。その瞳の中で、青年はどこか薄ら寒い闇を感じ取った。

 少女は凪いだ空気のような表情を浮かべていた。青年はその表情を見て、また固まった。震えることなく、固まった。恐怖を感じた。少女は破滅してしまった。青年はそう理解した。

 青年には分かった。もう、自分は必要がないのだと。きっと、目の前の少女に何を言っても意味がないのだと理解した。元々意味がなかったのかもしれない。青年が関わったことで、早まっただけなのかもしれない。けれど青年はそれを認めたくはなかった。ただ、殺風景ななかに少女だけ一人立っていた。ただ凛然と立っていた。青年はその光景を認めたくはなかった。少なくとも、国からの命令だったとしても自分は少女を救いたかったはずだったのだと、自分に向かって言い訳のような何かを頭の中で繰り返していた。名前も知らない人間に対して、その言い訳は意味がある物なのか思案することも無く、ただ、自らの考えをどうにか補強しようと思考を巡らせていた。青年の出来ることはそれだけしかなかった。

 目の前の少女が咳き込んだ。掠れた、水分のないものだった。

 ひらりと、しおれた花びらが何枚か舞い降りた。少女はそのうちの一枚を拾いあげて、美しく、さみしげに笑った。

 少女には分かった。厭世的な世界に染まってしまったということが。少なくともそれは少女が変化した結果であって、少女が変化したわけであって、国にとっては一歩前進した結果だったのだけれど、少なくとも少女にとって絶望の結果であった。

 青年はおもむろにリュックサックを降ろす。そして中から全ての瓶をとりだし、机に置かれていた青年のスケッチブックにむかって投げつけた。その行動は青年にとっては青年の否定で少女の肯定であった。

 スケッチブックの色がにじみ、くすみ、黒ずむ。苦しみの結果のように。

 少女は自身の厭世観が肯定されたような気がして、すっと笑った。

 青年はそれをみて、悲しげに笑った。引きつったように笑った。少なくとも青年にとってはそういうものだった。再び彩色にまみれたスケッチブックが机にへばりついていた。もう、青年にも少女にも剥がせるものではなくなっていた。


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彩園 宵町いつか @itsuka6012

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