透明な幻影

 ◆


「喜べ、君は世界を手に入れた」

 高らかに少年が主張するのを、ソラはふわふわとした気持ちで聞いていた。

 確かに自分のほしいものはここにある。幻想世界で過ごす内はきっと、幸福だ。

「でも、ここが本当に俺が求めていた世界なのか?」

 ざっと周りを見渡す。花々が咲き乱れる澄んだ景色が広がる空間。ここでなら現実を忘れられ、永久の安寧に身を置ける。まるで楽園だ。

 しかし、妙な違和感が拭えない。おそらく幻想世界であるがゆえだろう。

「当たり前だろ。ほかならぬ僕が至った結末だ」

 へらりと笑う。まるで煽っているように見えた。

「でも、ここは現実じゃない」

 ハッキリと言い切る。途端に真顔になった少年。

「俺は夢なんか見ない。変えるのなら現実だ。そのための代償なら、なんでも払う」

 真剣な顔で訴えかける。

 張り詰めた態度を取っていた少年は、バカにするように破顔した。

「代償って? 君ごときが払えるとでも思ったのかい?」

 軽やかに高く笑い飛ばす。ソラは沈黙した。

「君からもらえるものはなにもない」

 きっぱりとした否定。体の温度が下がるのを感じた。

 失うものはなにもない。代償を払うことすらできず、むなしさがこみ上げる。

「空虚であればこそ人は平穏でいられるのさ。いい加減楽になって、理想に甘んじろよ。そうやってなにも考えずに安寧に浸るのも、いい生き方だと思わないかい?」

 口元にうっすらと笑みを浮かべて、手招きする。

「夢が叶わないと分かってる現実になんの意味がある? そもそも、君みたいな社会不適合者が日の下を歩く権利があるとでも?」

「痛いところを突くな。今は俺の身分なんか関係ないだろ」

 気まずそうに目をそらす。

「理由なんかない。ただ、ここにいたって心に空いた穴は埋まらない」

 彼が本当にほしいものは、幻想世界には存在しない。

 それはきっと、現実の――置き去りにしてきたものの中に隠されている。

 鋭く指摘すると、相手は凍りついた。まるで痛いところを突かれたような態度だが、ソラは気にしない。

「ああ、そうさ。俺が本当に欲しかったものは、こんな簡単に手に入るものなんかじゃなかった!」

 顔を上げ、ハッキリとした口調で主張する。髪が荒ぶり、額をのぞかせる。青年の目はクリアに澄み切り、硬い光に迷いはなかった。

 逸る気持ちに突き動かされるように、半歩前に出る。

 同じ顔をした子どもはつり上がった目で青年を見上げた。明らかな敵意とイラ立ちがにじみ出ている。ピリピリとした緊迫感の中で対峙し、二人は視線を合わせる。

「通してくれ」

 凛とした声で言い放つと、少年は口の端をつり上げる。

「じゃあ、幻想世界も手放さなきゃいけないよな」

 葛藤を投げかけるのを楽しんでいるような姿勢で、言葉をかけた。

「それができないのなら僕の一部になってしまえよ」

 突きつける。

「僕は君で君は僕。本来の形に戻るわけだから受け入れられるだろう?」

 首をこてんと傾け、誘う。

「なんで、そんなこと」

「確かに君は僕だが、世界を管理する権限はこっちにあるんだよ。その気になればマレビトごとき、一捻りにできるさ」

 目線のみで見下す。

 そして、すでにそれが始まっている。侵食する気配。崩れがかった世界。いや、壊れていくのはこちらのほうか。

 風が荒ぶり始める。静けさの中で空気だけが震え、循環していた。

 時間がない。早く相手を打ち負かさなければならない。焦燥が全身を貫く中、汗をかきながら一歩を踏み出す。


「俺は理想が欲しいわけではない。自分の力でなにかを創り出したいだけだ」

 大きな手振り、両手を広げ、声を張り上げる。抑えていた感情を爆発させた。

「なんで現実に戻りたいか。それはきっと俺がなにも得てないから」

 空っぽなままだからこそ、やり残したことをしておくべきなのだろう。

 そしてたった今、答えを得た。

「なにをバカなことを。僕は全てを手に入れたって言っただろ。今だってとっても満たされてるんだ。君だって、大切なものを得られるはずさ」

 大きく手を広げてアピールする。

「さあ、君だけでこの夢を独り占めするんだよ! 空室ならここにある!」

 テレフォンショッピングの店員のように押し付けてくる少年。

 ソラは冷静に相手を見据える。

「全て手に入れてしまったら、もう心に埋められるものはなくなる。お前だって分かってるはずだ。欲しいものなんてなにもない。なにも、得られはしないって」

 一定のトーンで指摘すると、少年は息を呑んだ。

 目を見開き、瞳を震わす。まるで核心を穿たれたような動揺だった。

「それに、なんで俺だけなんだ? 誰かに見せなきゃもったいないだろ」

 なにより、ずっと孤独で終わるなんて、嫌だ。

 至極当たり前のように言葉を吐くと、少年は黙り込む。

「なにより、俺はウズウズしている。早く夢のような世界のこと・ワクワクドキドキの体験を伝えたくって、たまらないんだ」

 筆をぎゅっと握り込と、体に力がみなぎる。

「描きたいんだ、この手で」

 失っていた熱が胸に宿る。

 最初はビクビクと幻想世界を探索するだけだった青年も、今では立派に二本の足で立っていた。

 まだ夢を見ていられると証明するため、筆をとる。引き返す気にはなれなかった。

 熱くよどみなく語り終えた青年を、少年はあきらめた目で見ている。まるで手に負えないと投げ捨てようとしているように。

 ただし次の瞬間、相手の顔色は一変する。


「俺は、夢を叶えた自分を手放す」

「ああ?」

 驚きの選択に、少年は顔をアシンメトリーに歪めた。

 信じがたいものを見る目をした相手に向かって、ソラは落ち着いた態度で話す。

「だって、お前は俺なんだろう? じゃあ同一存在として、カウントされる。俺は理想の自分を、手放せる」

 それに得たものならあった。

 果てに得た宝――理想を描く筆とインクすら失う。おのれが描いた一枚絵は当然のように残らない。

 本来の自分からなにも切り取れるものがないのなら、ここで獲得したものを差し出して、現実へ帰還する。


「それで君になにが残る? 無へと帰るだけじゃないのか」

「構わない」

 きっぱりと言い切る。怜悧な眼光。まっすぐな目をしていた。

「自分は無から這い上がる。ただそのためだけに生きてきた」

 ハッキリと主張すると、子どもは心底あきれた様子で、ため息をつく。

「いつまで経っても子どものまま。理想だけを追い求める。どうして大人になれないのかな?」

 グチグチと文句を言われる。

「でも、それが君だ。ほかでもない自分がたどり着いた結末なら、背中を押さなくちゃな」

 ゆっくりと顔を上げる。

 幼い少年は穏やかに笑った。


 瞬間、世界を彩っていた絵の具が剥がれ落ち、色が抜ける。裏庭を構成する景色が崩れ、果ての景色すら霧散した。

 遠くの山々も、浮遊島の街並みすら、今や白紙。

 全てのベクトルが逆向きになったかのような気配だけが全体を覆う。唯一、青年の周りだけは静かで、結界で守られたかのようだった。奥のなにもない空間が嵐で荒ぶっている。

 透明な壁はスタンドガラスのように割れ、砂時計のように落ちていった。

 霞む視界の中、青年はかろうじて目の前の少年に手を伸ばす。

「お前……!」

 歯を食いしばりながら、呼びかける。折り曲げた指の先が空を掴んだ。

 焦りを表に出す青年に対し、少年は悟ったように下を向く。

「知ってた。僕は幻想だ。本物はそっちのほうなんだって」

 全てを受け入れた上で、告げる。

「さあ、先へ行け」

 道を開けるように背を向けると、少年は霧に包まれた。足下からじんわりと、量子テレポートのように消えていく、子どものころの自分。


 最後に残されたのは光の中に立ち尽くす、無個性な男だけ。

 振り返ると遠くで子どもが手を振った気がした。


 ***


 現実に戻ると館はなかった。代わりに秘密基地が再現してある。異世界からやってきたらしき猫は、律儀にも幼少期の思い出を再現していったらしい。

 懐かしい気持ちがこみ上げ、じんわりと口元をほころばせる。


 それから近場の町に寄って、例の館に関して尋ねた。

 くすんだ顔の男や、体型のたるんだ主婦、占いに興味津々な女子高生などに声を掛けたが、答えは変わらず。

「あんなものはない」

 誰一人の例外なく、館について知る者はいなかった。

「そもそもお前は誰だ」と怪訝げに見られる始末。

 白昼夢だったのだろうか。

 分からないけど、とりあえず家に帰る。


 青く晴れた空の下、自転車で平野に伸びた道をたどりながら、今でも幻想の名残を追いかけている。

 頭の中にはおのれと同じ容姿をした子どもの顔が、風に舞う花びらのように、視界を横切った。

 きっと彼は自分を消す代わりに本体を生かしたのだろう。

 相手は完璧な山村ソラ。彼は青年が理想とするものを全て、手に入れていた。消すことを選んだのはこちらだけど、消えること選んだのは、少年のほう。

 そして、それはまぎれもなく自分自身の意思だったと、青年は気付いた。


 頭の中には絵の構想が浮かぶ。

 タイトルはやはり、「vacancy」

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「vacancy」 ‐虚ろな自画像と夢の楽園‐ 白雪花房 @snowhite

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