トラウマ
***
おのれが迷い込んだ場所は単なる異界ではない。いわゆる精神世界であるのなら、攻略はできる。自分のことは自分が一番に知っているからだ。ソラは筆を握りしめる手に力を込め、凛とした目つきで前を向く。
青に包まれた幻想的な風景は、絵本に出てくる舞台だった。小学生のころに夏休みの課題として提出したもの。
ヒロインの心の風景が幻想的な花畑だとしたら、かつての主人公の暮らした場所は秘密基地だ。
彼女が最期に遺した青い破片を手のひらでかざすと、一筋の光が伸びる。闇を照らす明かりを道しるべにして進むと、郊外に出た。
あたりには一面の平野が広がっている。一見すると途方に暮れそうな景色だが、今の彼には道筋が見えている。
ソラはおもむろにキャンパスを取り出し、筆を走らせる。リアルな小屋を描き、絵画として完成。なにもない空間に嵌めるようにして設置すると、輪郭が薄れ、馴染んだ。キャンパスが消えると同時に、小屋が目の前に現れる。
本当に画と同じ景色となり、のけぞった。
目を疑いながらも、前に進む。小屋の戸を開けると簡素な空間が広がっていた。窓際にはアイビーがカーテンのように絡みつき、隅にはハンモックが設置してある。
ノスタルジックな空間の奥――隠された扉を開けた先は、秘密の庭だった。明らかに魔法の力を宿していそうなカラフルな花々が、陽光を浴びて輝いている。
まるで夢の光景だ。思わず息を呑むかたわら、感慨がにじむ。
「おやおや、人の庭に無断で足を踏み入れるとはなんという料簡か?」
不躾な声に振り向くと、幼い少年が立っていた。相手の容姿に対し、ソラは「あ」と息を呑む。すっきりとした顔立ちにふてぶてしい態度。雰囲気こそ違えど、足元にやってきた少年は、アルバムの中に眠るソラの幼少期だった。
互いが互いの過去と未来。目と目を合わせ、二人は察した。
全てを理解した上で子どもは目を伏せ、手で示す。
「ふーん、まあいい。気になるならついてくるがいいさ」
相手は勝手に歩き出し、庭の奥へと進んでしまう。ソラはあっけに取られながらも追いかけることを決めた。
案内を受けてさらに先へ進む。
「自分はこの世界の主だ」
堂々と主張する。
「お前は俺の未来だな?」
険しい顔つきのまま、言い当てる。ソラは嫌な予感がして、黙り込んだ。
「今までなにをしてきた? いったいなんのために生きてきたんだよ?」
案の定厳しい指摘が飛び出し、萎縮する。
「そういうお前はなんだ? 俺より上手い絵を描けるのか?」
汗をかき顔を引きつらせながらも、あえて強がった態度を取る。
「当然」
挑発するつもりで言ったのに、相手はあっさりと引き受けた。子どもは宙へ向かって、指先を向ける。筆も画材もないのに、彼は3Dペイントのように楽々と、なにかを創造し始めた。
できあがったのは芸術的なデザインの生き物。もふもふとした毛並みの猫だった。彼が指でなぞると一つの生命が浮き上がり、地に生まれ落ちる。
「にゃあ」
鈴のような鳴き声を出す子猫を、ソラは口をあんぐりとさせ、見下ろした。
「どうだ?」
ドヤ顔。
「俺だってこれくらい」
懐から筆を取り出し、キャンパスに描く。相手に負けないくらいかわいらしい猫を描き、使い魔として召喚してみた。
首輪をつけたナチュラルな見た目。かがみ込み、なでてみると顔をとろけさせ、すり寄ってきた。よく懐いているのも相まって、とてもかわいらしい。癒やされる。
「うちのニャンちゃんかわいいだろ?」
立ち上がるなり、腰に手を当てて主張してみる。足下にはおのれの猫がすりすりと、まとわりついていた。
興奮している青年に対して、子どもの反応は冷ややかだった。
「ずいぶん弱そうな使い魔だな。まるで君の精神みたいだ」
上から鋭く言い放ち、青年は眉を寄せた。
「分かるんだろ。君の中には迷いと不安がある。これから先どこへ進めばいいのか、未来に立ち向かっていけるのか。今だって怖いんだろ? そいつも、とても敵の前には出せそうにない」
「なんでそんなこと言えるんだ」
「僕は君、君は僕」
真剣な顔で、彼は語る。
言いつつ、あたりの景色は曖昧に曇ってきた。風が吹きすさび、雨が斜めに降ってくる。子猫はか細い声を上げて、逃げ出した。
「今、懸念を抱いただろ? こいつはその反映さ。君が世界を操ってるのさ」
「神はお前のはずだろ」
「確かに僕は世界の主。君と違ってなにもかもを手に入れたイフの存在だ。だが、言ったろ? 僕も君なんだって」
まっすぐに青年を見澄ます。
「気をつけろよ。精神に飲み込まれたら、二度と帰ってこられないぞ」
低く、忠告を繰り出す。
瞬間、ドクンと心臓が音を立てる。冷ややかな空気を背に感じ、身震いした。なにかが来る。胸騒ぎが加速する中、視界が暗転。
空間がハッキリと切り替わったような感覚があった。そして一気に点灯して、明るい場所へと移り変わる。
最初に見たのは好きな女の子の家。おしゃれな家具で統一され、花がらのカーペットやピンクのカーテンで彩られた部屋だ。
丸いテーブルを囲んで二人で遊んでいる。年齢は互いに小学生低学年ころだ。少年は紙一枚になにかを書き込み、喜々として女友達に渡す。
「な、俺から見た君」
笑顔で見せつけたそこには、ぐちゃぐちゃに描かれた似顔絵が描かれていた。クレパスの線は汚く、色だけが濃い。顔は歪み、服のシルエットも膨張している。
明らかにブサイクであった自画像を直視し、少女は表情を歪めた。眉を垂らし、口を曲げる。やがて目が潤み、体が震えだした。
「ひどい。なんでこんな嫌がらせするの!」
泣きながら罵倒する。
よかれと思って描いたことなのに。少年は唖然として、腕を下ろす。手のひらから力が抜け、描いた絵がフローリングに落ちた。
次に高校の教室の風景が映し出される。
「ねえ、こいつまた下手くそな絵描いてるよ!」
ミニスカートに開襟の女子が紙切れを掲げて、注目を集める。
「お前さ、こんなんでプロになれるとでも思ってんの?」
「自分に酔って描いてるから気づいてないんだろうな。でも、俺は優しいから言ってやる。お前さ、才能ないんだよ」
「こんな無駄なことやってる暇あんなら、もっと有意義なことしようぜ」
クラスメイトたちはニヤニヤとしながら話し掛け、どっと笑う。
嘲笑の渦の中で少年は静かに紙と向き合い続けた。
「なあ、もういい加減にやめたら?」
昔からの友人がキャンパスまみれになった自室に足を踏み込み、いたたまれない顔をこちらに向けた。
「お前はもう夢なんか叶えられないよ。練習を始めてなにが変わった? 勉強もせずに無為に過ごした時間になんの意味があったってんだよ?」
目をすがめて、口を尖らせる。
ソラは彼に背を向けながらも、体の筋が張り詰めるのを感じていた。真顔の裏側で心が揺れる。体の表面にはうっすらと汗がにじんでいた。
いつまで経っても景色は灰色。シンプルな絵を描き続けて夜になり、またなにもなしとげられないまま、朝になる。彼の日常は無為な時間の繰り返しだった。
精神世界を通して過去の情景を見切ると、意識が現実に引き戻される。正確には舞台から退場してはいない。いまだにあたりはかすかに赤色を帯びた薄暗さに染まり、自身を中心にスポットライトが当たっている。
なにかを得るにはトラウマと向き合わなければならない。試練の内容を理解した青年は目を閉じ、深呼吸をする。心を落ち着かせ準備を整えたときだった。
キャンパス――もしくは隠し扉のように立ちふさがっていた壁が、大まかなブロックと化して、崩壊する。
ぎょっと目を見開いている暇はなく、外からいくつかの影が実態をもって、襲いかかってきた。
禍々しい気配を放つ怪物は、いままで関わってきたトラウマの対象と似ている。
「どうしてやめないの?」「あんたなんてお手本をなぞることしかできない癖に!」「いい加減に現実と向き合いなさい!」「お前は絵描きに向いてないんだよ」「なにもかも無駄なのに、お前が絵と向き合う意味はなんだ?」
かつて言われた言葉が渦となってまとわりつく。
グサグサと胸に突き刺さる。かつての痛みを思い出すような光景。
「さあ、どうだい? 言い訳ができるかい? できないんだろ?」
虚空から子どもが楽しげに呼びかける。
「これは君が過去に言われた言葉だ。嫌がらせだけじゃない。真実をうがっているとは思わないか? だって、君はまだ素人だ。何年修練を積もうと、結果はない。いつまでも下手くそな絵を描く意味がどこにある? もう誰も求めていないことくらい、分かるだろ?」
大仰に両腕を広げて主張する様が見て取れる。彼のドヤ顔も。
彼は痛いところを突いてくる。何年描いても成果が出ず、賞も取れずにいる。絵を描くことに意味はないと思っているのも事実。
なにもかもが正論だ。
奥歯を噛みながら、拳を握りしめる。彼が立ち尽くしている間にも化け物たちは陽炎のように揺らぎながら、迫ってきた。
「さあ、向き合ってみろ? 君はそいつらを直視できるかな?」
楽しげな声が上からかかる。
三体の影がびゅんと動き、襲いかかった。ソラはなんとか体をひねってかわす。敵を直視し、目を凝らす。神経を研ぎ澄ましながら、なんとか隙を探す青年。
「君の人生は無意味さ。何度も絵を否定され、傷つきながら、それでも立ち向かう意味がどこにある? いい加減、楽になってしまえよ。ここに完成された僕がいる限り、もうなんにもなれないんだからさ」
高圧的な声が降りかかる。
彼に同調するように化け物たちがさらに激しく荒ぶった。攻撃が鋭く、勢いを増してソラに迫る。ついに青年は壁際まで追い詰められた。
「豆腐メンタルが無理するなよ。誰かにけなされただけで描けなくなる分際でさぁ!」
子どもが気持ちよさそうに煽ってくる。
前方では影の怪物がじりじりと距離を詰めてきて、相手をしている余裕がない。
「君の部屋には廃材しか置いてない。暗い倉庫に押し込められた絵画は、みんな同じ。変わらないんだ。過去も今も」
語尾が低く、響く。
ソラは筆を握りしめながら、悔しそうに奥歯を噛んだ。
化け物には立ち向かえない。勝機を探そうにもこちらの戦闘力はゼロだ。なによりも精神がぐちゃぐちゃになりそう。果たして立ち向かえるのか、いままでなにもできなかった存在だ。
気持ちが揺らぐ中、不意にブーンと軽やかな音を背後に聞く。振り向く間もなく光が差し込み、扉が開いた。
「さあ、逃げろ。今なら助かるかもしれないぜ」
善意の中に悪意が滲む、詐欺師のような物言い。
敵に臆する気持ちがある中で、それは恵みのようなもの。逃げてもいいという選択肢はある。脱出すれば命だけは助かるかもしれない。
でも、本当にそれでいいのか。ソラは今一度前を見据える。黒い影は膨張し、山のような形になって、揺らいでいる。
過去のトラウマと向き合うのは精神への負担が大きい。それでも彼は何度でも立ち上がってきた。闇の底から、空虚な運命から。
ただ一つ思い出した。自分がどうして絵を描いてきたのか。
そうだ、まだ自分は筆を持っている。
深く息を吸い込む。力強く、筆を握りしめ、腕を上げた。
「うおおおおおおお!」
筆についた透明な液体が、鮮やかな色に染まり、空中に飛び散る。
ソラは無我夢中で絵を描いた。まるで道具を剣のように使い、おのれの感情をぶつける。
「なにを。君にできることなんて、なにも」
虚空から唖然とした声が聞こえる。
ソラは反応せずにペンキで影を塗りたくった。たちまち敵は慄き、小刻みに震えだす。頭を抱えた猫ミームのようになり、HPを削っていった。
一体ずつ、ダメージを受けた怪物はしょぼしょぼと小さくなり、色が塗りたくられる度に存在が薄くなる。
「俺はこんなところで終わる男じゃない! いままで何度、こういうのとぶつかり合ってきたと思ってるんだ!」
完全に思い出した。
おのれが封印してきた過去のことも、絵を描く意味も。
「絵を描く理由は今も昔も変わらない。ただ、空想を現実にするために描くんだ!」
筆を走らせる度に喜びがあふれる。自分の世界が広がっていく。
ワクワク・ウキウキ。ああ、自分は画を描くのが好きだった。
初心に戻った気分で思いのままにやると、いつの間にか闇は溶けていた。
四方を覆う壁は消え、あたりはファンタジーのような美しい景色で彩られる。霧が晴れすっきりとした心地。雨上がりの清々しい気分だ。背筋を伸ばし、前を見据える。青年は爽やかに口元を引き締めた。
いつの間にか景色は元の花園の形へ戻っている。ソラの手には虹色に輝く宝石があった。おそらく報酬。手持ちの筆を組み合わせてみるとアップデートされ、豪華なデザインとなった。
「過去を乗り越えたということか」
実につまらなさそうに鼻を鳴らす。
「まあいい。ちょっと試してみろ」
「なにを?」
「描いてみろって言ってんだ。なんでもいいからさ」
彼にうながされ、見様見真似で筆を動かす。念じろ、理想を思い浮かべろと言われたので、その通りに描いてみた。
目を開けると郷愁を誘う光景が広がる。若草の萌える爽やかな平原で、カラフルなシートを敷いてピクニックをする少年たち。
弁当の手前では薄くポップな本が並び、中身を確かめながら談笑する。
「今日はこんな話を書いたんだ」
「見せて見せて」
和やかにやり取りが続く。
見ているこちらまで温かな気持ちになる。まるで
「お前すごいな」
「だろ?」
懐かしい光景。まるで記憶の蓋を開けた気分。もしくは心象風景か。
見守っていると、子どもたちはもっと大きなキャンパスを持ってきて、二人で絵を描く。
空を駆ける竜に、聖剣を掲げマントをたなびかせた勇者、無骨な杖を持った賢者、古代の迷宮、水底に沈んだ都市、未踏のジャングルの果てにある秘宝……。
青年にとっての理想がこの世界にある。
そしてその全てはおのれの絵から生み出された。
今の彼は完璧な絵を描くことすら、たやすい。
あれほど渇望したものがいとも簡単に手に入るなんて――
空っぽになっていた心に新たな風が吹き込む。
全てから解き放たれた気分だ。今はただ風に吹かれ、じんわりとした感動に身を委ねる。青年は体から力を抜き、乾いた笑いを出した。
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