第4話

「ごめんくださいまし――。ごめんくださいまし――」

 その日の夜、誰かが綱の屋敷を訪ねてきた。

 それは若い女の声だった。

 一瞬、腰を浮かしかけた綱だったが、このような時間に若い女が自分の屋敷を訪ねてくることなどはありえないと思い直し、無視を決め込み、きょうを唱え続けた。


「どなたかおられませんか――。どなたかおられませんか――」

 翌日の夜も、誰かが訪ねてきた。

 今度は男の声だった。声は屋敷の前でするだけであり、中へ入ってこようとはしない。

 綱の屋敷には安倍晴明による結界が張られており、邪の者は決して踏み入ることができないようになっているということだった。

 その夜も、綱は経を唱え続け、屋敷からは一歩も出ることはなかった。


 三日目、四日目とやはり声が聞こえた。

 それは子どもの声であったり、老婆の声だったりしていた。

 ここまで声が聞こえると、それは空耳なのではないかと思えるようになっていた。

けがれは、声色を変えて綱殿の屋敷へと七日七晩やってくるでしょう。その声に決して答えてはなりません」

 安倍晴明はそう綱に言った。

「もし、その声に答えたら?」

「穢れに取り込まれてしまいます。綱殿が穢れに取り込まれてしまっては、私でも手出しができなくなります。ですので、決して、穢れからの問いにお答えにはならないようお願いします」

「わかった」

 そう安倍晴明に告げられてから五日目を綱は迎えていた。

 この日も、経をあげ続け、穢れのもととなるものはすべて断っている。


「綱、綱よ――。聞こえておるか。ここを開けよ――」

 野太い声が聞こえてきた。今度は声だけではなく、戸を何度も叩く音も聞こえてくる。

「綱、わしじゃ、わしじゃ」

 その声は何度も何度も呼びかけてくる。

「わしじゃ、忘れてしもうたのか。この父の声を」

 声はそう告げた。

 幻聴だ。綱は経を更に大きな声で読み、気を集中させた。

 父の声など聞こえるわけがなかった。父は他界していた。それも綱が生まれる前に。だから、綱は父の声など知るよしもなかった。


「よくやったな、綱。終わったぞ」

 優しい声。その声は主人である源頼光のものであった。

 そうか、終わったのか。

 綱は経を読むのをやめて、立ち上がろうとした。

「待たれよ、綱殿」

 別の方向から違う声が聞こえてきた。この声は安倍晴明のものであった。

「まだ六日目であろう。お忘れになったか」

 その声で綱は、ハッとした。そうだ、まだ六日目なのだ。危うく聞こえてきた声に惑わされて経をやめてしまうところだった。綱は晴明に感謝し、経を唱え続けた。


「綱はおりますか?」

 七日目の晩。外から聞き覚えのある声がした。

「わたしです、綱」

 その声は間違いなく、母のものであった。

 年老いた母の声を聞いた綱は、懐かしい思いに駆られて思わず経を唱えるのをやめてしまった。

「綱、開けてください」

「母上。お待ちくだされ」

 そう答えると綱は閉じていた木板を外し、外にいる母のことを屋敷の中へと招き入れた。

 それは間違いなく、母であった。年老いているが、自分の母親の顔を見間違えることなどはない。

「母上、どうしてこちらへ」

「ちょっとした噂を聞いたからです」

「噂ですか?」

「ええ。綱が鬼を退治したとか」

「なんと、そのような噂が母上のもとにまで」

「そうです。あなたの噂話は、母のもとまで届いております」

「そうでしたか」

 綱は涙を流した。母は自分のことを今でも気にかけてくれていたのだと。

「して、綱。あなたが斬り落としたという鬼の腕を見せてはもらえぬでしょうか」

「え……。あのような物を見て、どうするおつもりですか、母上」

「いけませぬか?」

「なりませぬ。あのような穢れた物を母上は見るべきではございません」

「そういわずに見せてくだされ。せっかく、綱に会ったのだから、土産話のひとつにでもさせてくださいな」

「そうですか……」

 母に頼まれては、さすがの綱も断ることができなく、唐櫃を母の前に置いた。

 唐櫃には安倍晴明が貼ったと思われる護符が貼られており、しっかりと封がされていた。

 綱はその護符が邪魔なものだと考え、破り捨てると、唐櫃を開けた。

 唐櫃の中に入っていたのは、青黒い木の枝のような筋張った鬼の腕だった。

「あなやっ!」

 母は驚きの声を発して、のけぞるようにして倒れる。

「どうかなさいましたか、母上」

「札、札を取ってください」

「札?」

 綱が唐櫃の中の腕を見ると、腕には一枚の護符が貼られており、そこには泰山府君たいざんふくんの名が書かれていた。

 その札を綱はすぐに剥がすと、破り捨てた。

「母上、札は捨てましたぞ」

「そうですか。綱は孝行息子ですね」

 母はそう言って唐櫃の箱の中に左手を伸ばし、その腕を掴んだ。

 すると、母の髪は逆立ち、見る見るうちにその顔色は青く変化していく。

 綱は咄嗟に飛び退き、近くにあった自分の太刀を掴んだ。

「愚かなり、愚かなり、綱。お前が愚かな男で助かったぞ」

 母だった者の姿は、綱が戻橋で出会った鬼女の姿に変化していた。

 鬼女が喋るたびに、口からは青い炎が漏れ出てくる。

「おのれ、騙したな」

「騙される方が悪いのだ。我の腕、確かに取り返したぞ」

 鬼女は笑いながらそう言うと、綱に襲いかかってこようとした。

「愚かなのは、どちらの方かな。私がお前をおびき寄せるために罠を張っていたとしたら、どうする」

「なんだと?」

「ここは私の屋敷だぞ。お前はその中にいるのだ。これはどういう意味かわかっているのだろうな」

 そう言って綱は太刀を構えた。

「今度は右腕だけでなく、首をいただこうか」

「き、貴様……」

 鬼女はあと退りするようにして、縁側まで出ると後方の闇に向かって飛び去った。

 するとあっという間に、鬼女の姿は闇の中に溶け込んで消えてしまった。

「去ったのか」

 綱は呟くようにいうと、その場に膝から崩れ落ちた。

 七日七晩の物忌みは、体力的にも精神的にも限界寸前だった。

 鬼を斬る力など綱には全く残されてはいなかったのだ。

 だが、その限界寸前であったからこその気迫が、鬼を後退させたのだろう。

 縁側で仰向けに倒れた綱は、夜空に浮かぶ青く輝く月を見上げて笑みを浮かべた。

 綱の母は、もう十年以上前に亡くなっていた。 

 その正体がたとえ鬼であったとしても、母に会えたことは嬉しかったのだ。



 (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼の腕 -異聞、鬼切安綱伝- 大隅 スミヲ @smee

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説