第7話
翌朝、早くに和真が訪ねてきた。
「飛行機は何時だ」
「夕方三時の便で帰るよ」
「今日は海の状態が良い。龍神池のダイビング、行ってみないか」
もうダイビングをする理由は無くなったが、和真の熱心な誘いに乗ることにした。水着とバスタオルを用意している間、和真は縁側でおばぁと並んで話をしていた。
軽トラで港に向かい、小型船に潜水道具を積み込む。和真の操縦で波の上を滑るように船は走り出す。龍神池に通じる洞窟の近くからボートエントリーするという。
「二度目でぶっつけ本番かあ」
浅瀬とは違う深い青に緊張を覚える。
「この先は狭くて暗い洞窟が続く。身体を岩にぶつけないように、ゆっくり進めば良い。中性浮力の見せ所だ」
「ベテランインストラクターがいるから安心ね」
「まあね、でも怖かったらいつでも引き返していい、そのときはサインして」
引き返していい、と聞いて安心した。耳抜きをしてマウスピースを咥える。これから自分の力で呼吸が出来ない場所に行くのだという覚悟に身が引き締まる。和真と並んでボートのヘリに座り、海に飛び込んだ。
龍神池に通じる洞窟の入り口は先の見えない青い闇だ。音の無い世界で自分の呼吸音だけが低く響いている。ごつごつした岩の狭い洞窟は閉塞感があり、まだ潜水して五分も経っていないはずなのに地上の陽光がひどく懐かしく思えた。
洞窟は広くなったかと思えば細くなり、このまま永遠に闇の中を進んでいくのではないかという漠然とした不安にかられる。岩穴から飛び出した魚の群れに慌てて身を逸らしたら、岩に頭をぶつけてしまった。
青い闇が仄かに明るさを帯びる。和真が振り返り、この先だとジェスチャーする。目の前の青に光の筋が差した。それまで暗闇にいた私には目が眩む程の強烈な光だった。
洞窟を抜けると、そこは無限の青い空間だった。まるで宇宙に漂うような開放感に陶酔を覚えた。清澄な青の中に光の柱が突き抜けるのを目にした。私は光の柱に吸い寄せられていく。和真が上を見て、とジェスチャーする。私は天を見上げた。青い大きな円が飛び込んできた。ここは龍神池の真下だ。池を照らす太陽の光がゆらゆら揺れて輝いている。なんて美しいのだろう。私はこんなにも綺麗な世界の中にいる。透明な青に身体が溶け、温かい光の中で微睡んでいるような不思議な感覚。
和真がゆっくりと浮上していく。私もついて進んだ。美しい光景に心奪われて耳抜きを忘れてしまい、耳がツンと痛んだ。慌てて唾を飲み込む。
水面に顔を出し、マスクを外すと清々しい潮風が吹き抜けた。私は胸一杯に自然の空気を吸い込む。新鮮な酸素が肺に満ちて、生き返った心地がした。
「よくついて来れたな。引き返すことになるかもしれないと思ってたよ」
「途中すごく怖かったけど、前に進むしかないって思ったのよ」
そう言って、私はおかしくなった。そう、後ろを振り返って逃げ出すより前に進む方が楽なのかもしれない。
帰りの空港までは和真が送ってくれた。母の持たせた島の特産品は持って来た荷物よりも重かった。
「そうだ、これを」
和真がポケットから取り出したものを私の手の平に置いた。銀色に光るそれはおばぁにあげた史生からの婚約指輪だった。
「これ、どうしたの」
私は驚いて和真の顔を凝視する。
「今朝、おばぁが真帆に返してくれって」
「そう、おばぁはお見通しだったのね」
おばぁは指輪が自分のものではないと最初から気が付いていたのだ。私はおばぁの気遣いに感謝し、未練を押しつけようとしたことを恥じた。
「元気で、また島に帰ってきたらダイビングに連れていくよ」
「ありがとう、ハマりそうだよ」
今度は気持ちに余裕が持てそうだから、おばぁの指輪を本気で探してもいい。
「現実逃避、できたか」
「うん、現実に戻る気になれた」
私は指輪を左手の薬指にしっかりと嵌めた。薬指が脈打ち、指輪と一体になった気がした。
「いい顔になった」
和真は穏やかな笑みを浮かべる。
「美味しいものたくさん食べたからね」
言いながら私も笑った。和真に礼を言って出発ゲートを抜けた。スマートフォンが振動している。史生からの電話だ。
「休暇を取ったよ。これから飛行機で向かう」
史生の背後には空港のアナウンスが流れている。
「えっ、ちょっと待って、私今から帰りの飛行機に乗るのよ」
史生がそんな大胆なことをするなんて、驚いた。
「そうか、帰ってくるんだね」
史生は安堵の溜息をついた。人の良さそうな彼の顔が明瞭に思い浮かんだ。
「これから二時間で着くよ」
「わかった、じゃあ空港で待ってるよ」
「うん、ありがとう。それと、指輪見つかったよ」
「そう、良かった」
「心配かけて、ごめん」
通話終了ボタンを押すと同時に、飛行機の搭乗案内が流れた。私はバカンスを終えて名残惜しく島から離れる観光客の列に並ぶ。
亜熱帯植物の繁る庭園を抜けた先は蜃気楼に揺らめく滑走路が続いている。私は飛行機のタラップに足を掛けた。一歩一歩階段を踏みしめて上る。足取りは決して軽くはない。しかし、悲観でも諦念でもないことは確かだ。
ジェットエンジンの重低音を響かせ、飛行機は離陸を始める。強烈な加速度に身を任せ、私は目を閉じた。瞼の裏に青い円を照らす光の残像が浮かんだ。
銀色の機体は上昇を始め、方向転換をしてぐっと大きく傾いた。
四角く切り取られた窓をフレームにした紺碧の珊瑚礁は、まるで思い出の絵はがきのようだ。機体は透明な青に向かって上昇を続け、鮮やかな紺碧が縁取る島影は雲の彼方に遠く霞んでいった。
青の円環 神崎あきら @akatuki_kz
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