第6話

「真帆、そろそろ結婚はどうなんだ」

 脈絡なく言い出した父の言葉に、私の心臓はしゃっくりをしたように跳ねた。一番触れて欲しくない話題だった。順当に進んでいたら、史生を連れて結婚の挨拶に帰ってくるはずだった。疎遠なわけではないが、家族には婚約したことは黙っていた。彼の親への挨拶が無事に済んでから告げよう、と思っていたが頓挫した。実のところ、破談になることを一切予測していなかったといえば嘘になる。

「仕事が忙しくて考えてない」

 私はそれ以上答えたくなくて、人参しりしりを頬張った。ポリポリ、と耳の奥で軽やかな音が響く。


「まあ、今の子は晩婚だし、自分のペースでやりなさい」

 父と母も晩婚だった。ワーカホリックだった母は仕事も趣味も両立して結婚の必要性を感じていなかったそうだ。それでも縁あって趣味の山登りで父と出会い、三十八歳で結婚した。私が結婚しないことについてもとやかく言うつもりはないようだ。

「おばぁはどうして池に指輪を投げちゃったの」

 私は意図的に話題を逸らした。

「たばこ吸うから怒ったんじゃ」

 おばぁは興奮して声を荒げる。


「ああ、思い出した」

 父は当時の話を教えてくれた。おじぃが五十代のとき、心筋梗塞で倒れた。病院の先生からたばこを止めるようにと言われおばぁが口酸っぱく注意していた。しかし、愛煙家のおじぃはしぶとく畑の中で隠れて吸っていたらしい。それを見つけたおばぁはおじいを追い回し、龍神池まで追い詰めて「たばこを止めないなら指輪を棄てる」と脅した。ムキになったおじぃは売り文句に買い文句で「勝手にしろ」と叫んだ。頭に血が昇ったおばぁは池に指輪を投げ捨てた、という。

「結局、おばぁはおじぃが心配で仕方なかったんだ」

 倒れた本人は喉元過ぎれば不摂生を働く。一番心配したおばぁが怒るのも無理はない。おじぃがたばこを止めると平謝りに謝っておばぁの怒りは収束した。しかし、おばぁは指輪を投げ棄てたことを密かに悔やんでいた。おじぃは自分の指輪も外して二度とつけることは無かった。


「もう昔のことじゃ、忘れた」

 おばぁはひとしきり怒鳴って気が済んだのか、澄ました顔でそう言って茶を啜った。

 ふとんに寝転がり、スマートフォンの画面を見ると史生からの不在着信が入っていた。時間をおいて三度。島に来てから一度も返信をしていない。さすがに愛想を尽かされているに違いない。


 ―今は実家。週末は会えない、ごめん。


 無視をするのも大人げないと思い、メッセージを返した。それから電源を切ってふとんに潜り込んだ。私は卑怯だ。現実から逃げている。

 電灯を消すと雨戸を閉め切った部屋は墨汁を溶かしたような濃い暗闇になった。これで何も考えずに済む。吹き付ける暴風に家がみしみしと軋む。家鳴りの不穏な音を子守歌に私は眠りについた。


 一夜の間に台風は進路を変えて島をかするように通過した。午前中強かった風は収まり、午後には太陽の日差しが戻ってきた。雨の降り込んだ縁側はまだ乾いていない。私はレジャーシートを持って来て板張りの縁側に敷いた。その上に座布団を置くと、定位置を見つけたおばぁがいそいそと腰掛ける。私が淹れたお茶を飲みながら、お気に入りの粒黒糖をポリポリ囓りはじめた。


 今朝早くに和真からLINEが入っていた。台風一過でまだ波が高く、ダイビングは難しい、という知らせだ。私は明日、飛行機で帰ることになっている。龍神池に潜るチャンスは無いかもしれない。おばぁの結婚指輪を探そうというのはただの思いつきだったが、なんだか何もうまくいかない気がして私は気落ちした。

 台風が吹き過ぎたあとの空は眩しいほどに青く澄み渡り、蝉時雨は夏の到来を告げている。私はバッグの中から青色の小箱を取りだした。箱の中には果たされない約束の指輪が入っている。私はそれを丁重に取り出した。


「おばぁにあげる」

 私は婚約指輪だったものをおばぁの手の平に握らせた。

「どうしたんか」

 おばぁは不思議そうな顔で私の顔と指輪を見比べた。

「龍神池の底に落ちてたんかなあ」

「そうかぁ、龍神様の。帰ってきたんか、ありがてぇなあ」

 おばぁは小さな皺くちゃの手に指輪を握り締めて祈るように何度も頭を下げた。私は満足感と微かな胸の痛みを覚えた。史生には婚約指輪を無くした、と言おう。きっと頭にきて婚約は正式に解消されることになるだろう。それでいいのだ。互いに踏み切れないこの状態はあまりにも苦痛で不幸でしかない。


 私はちゃぶ台の上のヒラミレモンに手を伸ばした。鼻に近づけると青々とした爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。私は青い果実に思い切り囓りついた。強烈な酸味が脳天を突いた。身体中にビリビリ鳥肌が立ち、反射的にぎゅっと閉じた目から涙がこぼれ落ちる。舌に残る微かな苦みと鼻に抜ける柑橘系の香り。島の強烈な太陽を受けて育った果実は小さくてもこんなにも力強い。

「青いヒラミレモンはそのままで食えん」

 おばぁが私の酸っぱい顔を見てカッカッカと笑う。つい先日、自分が囓りついたのを忘れているのだ。私もおかしくなって涙目のまま笑った。古い庇の向こうに広がる空は沁みるような青色だった。

 島で過ごす最後の夜。開け放した窓から吹き込む風は、夜露に濡れたサトウキビの青臭い匂いを運んでくる。私はバッグの中から青色の箱を取り出した。箱を開けると空っぽだ。それでいい。未練は島に置いて帰ろう。


 バッグの中が明るく光り、スマートフォンが振動している。史生からの電話だ。一度切れたが、再びコールが鳴る。私は観念して通話ボタンを押した。

「今いいかな」

 史生の声が遠くに聞こえる。ここが彼の居場所から遠く離れた島だからだろうか。

「うん」

「君ときちんと話がしたいんだ」

「私も話があるよ。指輪、無くしちゃった」

 私はまるで自動音声のように何度も心で繰り返した台詞を口にした。永遠かと思うほどの沈黙が続いた。怒っているのか、呆れているのか、彼は今どんな顔をしているのだろう。思い浮かべようとするとノイズがかかったように像がぼやけた。耳元に彼が息を吸った音が聞こえて、私の心臓はどくんと脈打つ。


「君が指輪を無くしたのなら、ぼくのも棄ててしまおう。最初からやり直したい」

 全く予想だにしない言葉に、私は胸が詰まる思いがした。彼だけが悪いわけじゃない。私は自信と覚悟が無かった。だから彼の母に何も言えなかった。口の中に酸っぱくて仄かに苦い青いヒラミレモンの味が蘇ってくる。

「考えさせて欲しい」

 そう言って、電話を切った。逃げ出した自分の卑屈さがとてつもなく嫌になる。青色の箱を開けると中はやはり空っぽだった。

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