第5話

 いつの間にか太陽は西へ傾き、海を金色に照らしている。シャワーを浴びてTシャツとジャージに着替えた。バスタオルを肩にかけたまま、ビーチの倒木に腰掛ける。

「体験ダイビングはどうでしたか、お客様」

 和真がおどけていたずらぽい笑顔を向ける。

「優秀な先生のおかげで耳抜きはできそう」

「ははは、耳抜きだけか。龍神池は難易度が高いぞ。まあ、俺が連れていってやるよ」

 私は昨夜のとんでもない思いつきを和真に話した。


「三十年前に池に沈んだ指輪か」

 和真は神妙な表情で私の話を笑い飛ばすことなく聞いてくれた。

「池の底は石灰岩の複雑な地形が広がっているんだ。それに海が荒れているときは波の動きがあって、海に流されている可能性もある」

 話を聞く限り、見つけることは到底不可能だ。見つかりっこない、と心のどこかでは思っていたが、はっきりと否定されるとさすがに落胆した。

「でも、行ってみようか。せっかく真帆が龍神池に行こうって気分になったんだ。耳抜きの成果も試せるぞ」

 和真は私が中性浮力を保てずに四苦八苦していたのを思い出したのか、ぷぷっと吹き出した。


「どうして指輪を探そうと思ったの」

「もし見つかっておばぁが喜ぶ顔が見られたら嬉しい。それに、帰郷の目的が欲しかったのかもしれない」

 私は口籠もり、流れる沈黙に浜に寄せる波の音だけが響く。海に溶けて行く太陽が千切れ雲を燃えるような茜色に照らしている。

「和真はどうして私をダイビングに誘ったの」

 気まずい沈黙を破り、私は気になっていたことを尋ねた。

「ダイビングって人生観が変わるよ。人間が生身で行けない場所ではこれまで見てた世界とは全く違う世界が見えるんだ。そして呼吸してるってこと、生きてることを実感できる」

 眩しそうに目を細める和真の横顔を残照が照らしている。


「島には都会からバカンスに来る人が多いけど、現実から逃げてくる人もいる。そういう人って重いものを背負って、辛いなあって顔してる」

「私、辛いなあって顔してたの」

 私は膝を抱え込んで自嘲する。指先に冷たい飛沫を感じた。いつの間にか波打ち際が足元まで迫ってきている。

「うん、俺にはそう見えたよ」

 結婚から、史生から逃げてきた。辛い気持ちを忘れようともがいていることに和真は勘づいていたのだ。

「婚約してたの。でも、駄目になりそうなんだ」

 私は家族にも話していない悩みを思い切って和真に打ち明けた。夕闇迫るビーチで秘密を共有することに微かな罪悪感を覚えた。でも、誰かに聞いて欲しかった。

「結婚なんていつでもできるし、いつでも解消できる。面子に拘るのはナンセンス、正しい選択をする方が幸せだ。深く考えるなよ」

「わかったようなこと言うのね」

 私は困惑するふりをした。しかし、和真の言葉はシンプルだが力強く心に響いた。

「俺、バツイチなんだ。二十五のとき観光で島に来た子と結婚したけど、一年半で離婚。価値観の違いってやつ。今はフリーだよ」

「それ、誘ってるの」

「やっぱ俺じゃ駄目か」

 和真はおどけて頭をかいてみせる。パンツについた砂を払いながら立ち上がり、空を見上げて真顔になった。


「台風が近付いてる」

 台風が近いと、海がシケてダイビングどころではないという。

「もしかしたら、しばらく潜るのは難しいかもしれない。真帆はいつ帰るんだ」

「今週の日曜日だよ」

 帰りたくない、というのが本音だが私が休めるようやりくりしてくれた上席や同僚に不義理をかますわけにはいかない。


「三日後か、吹き戻しの風が収まってるといいけど」

 家に着く頃にはすっかり日は落ちていた。潜れそうなら連絡する、その言葉に淡い期待を抱きながら私は去っていく軽トラに手を振った。紫と橙のグラデーションの空を分厚い雲がみるみる覆い尽くし、輝き始めた一番星は姿を消してしまった。

 吹きつける熱帯の風に窓枠がガタピシ悲鳴を上げている。朝とは思えない不穏な暗さだった。窓を開けると、サトウキビ畑の上に筋肉のように蠢く灰色の雲が重くのしかかっていた。湿気を孕んだ温い風が潮と土の匂いを運んでくる。島の台風だ、と思う。生まれたての凶暴な台風は毎年容赦なく島を蹂躙していく。

 ローカルテレビのチャンネルでは、神妙な顔をしたニュースキャスターが「季節外れの大型台風が島を目掛けて北上している」と告げていた。スーパーやコンビニから食料が消え、島の人たちは巣篭もりの準備を始める。悪い(まじ)風(むん)が入らないよう扉を固く閉めて、ただ通り過ぎるのを待つしかない。


 縁側に腰掛けてサトウキビ畑を眺めるのが日課のおばぁは雨戸を閉ざした暗い部屋で落ち着かない様子だ。

「おじぃはまだか」

 おばぁは台風の知らせがあると畑を見に行くおじぃの帰りをいつも心配していた。

「大丈夫、おじぃはそのうち帰ってくるよ」

 私はおばぁの手を握った。おじぃが死んだことは理解しているはずだが、環境が変わると記憶の混乱が生じるようだ。

 母がスーパーの袋いっぱいに食料を買い込んで戻ってきた。子供の頃、台風の日には私と浩志でそれぞれ好きなお菓子を買ってもらえるのが楽しみだった。台風が怖いだけの記憶にならずに済んだのはお菓子のおかげだ。


 夜になるにつれ、風は勢いを増し甲高い口笛のように吹きすさぶ。早めに仕事を切り上げて帰った父と母、おばぁと私で食卓を囲む。

 そうめんちゃんぷると人参しりしり、ラフテーが並ぶ。私は自家製を越える味のラフテーを食べたことがない。ラフテーはおばぁの得意料理だった。私も母から教わったが、しばらく料理をしないうちに作り方を忘れてしまった。

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