猫の瞳は廓然無聖
長門拓
猫の瞳は廓然無聖
磨曰く、
――『
〇
カミーユの父は宇宙飛行士だったが、八回目のフライトによって帰らぬ彼岸への旅路に就いた。不調を起こしたエンジンの馬力が不足したことが原因で、父の乗った船は航路を外れ、太陽に吸い込まれたという。公式発表では行方不明という扱いになっているが、あれからもう七年も時が過ぎ去っている。既に行政の記録の上では彼岸の住人と変わりがない。
カミーユに父の思い出はそう多くはない。もとより家庭をあまり顧みることのない父親だったからだ。東洋の島国の血を色濃く受け継いでいる父親は俗に言うワーカーホリックであり、さらに言うと父の心の大半は「無限の彼方」に奪われていた。たまに地上で過ごす休暇のさなかも、父の眼はここではないどこかの景色を映し出していた。カミーユの幼い心にもそれは何となく察せられたものだった。
だがカミーユの母はそんな父を愛していた。愛するとは往々にして一個人の属性のみを愛するに過ぎないが、母は父のほとんど全てを愛していたのだと思う。母は家庭から彼を奪う彼の仕事も愛していた。彼の仕事が彼そのものをも奪ってしまった時、母の心中はいかばかりであったろう。まだ二十歳にもならないカミーユは誰かをそこまで愛したことがないので、それを実感として呑み込むことが出来ない。そして亡き父のように「無限の彼方」に憧れることも出来ない……。
父の訃報が旧式の電報によって
「エンジントラブル」「操行不能」「太陽上空で消息を絶つ」「予算削減の余波」「生存は絶望的」「宇宙局長、隠蔽を指示か」
その当時のことは、それ以外ほとんどカミーユの記憶に残っていない。かろうじて思い出せることと言うと、餌を出して貰えなくなった飼い猫が愛想を尽かして出て行ったことに、数週間後ようやく気付いたことぐらいだろう。
意気消沈した母は暗い部屋のベッドに寝込んだまま、昼夜となく時を過ごすようになった。カミーユがシリアルにミルクをかけただけの食事を二口ほど頬ばると、それからまた長い時を暗闇の中で過ごした。そうしてあたかも
幸い、と言うべきかどうか、遺族年金と幾ばくかの遺産がカミーユには遺されていた。それも母方の叔母があれこれと手続きを肩代わりしてくれなかったら、カミーユの手元には届かなかったであろう。
かろうじて復学だけはしたが、パパラッチがおまけに付きまとった。ユーチューバーが無許可でカミーユを盗撮したことが問題になることもあった。だがこの頃、外出時のカミーユの顔は例外なく傘で隠されていたことは多くの面で有利に働いた。これは何もカミーユがプライバシーを守ろうとした結果ではない。彼の
「母さん、少しは食べないと」
「もう見たくない」
「何を? 何を見たくないって?」
「太陽を。太陽を見たくない。空を見たくない」
そうして母は文字通り、何も見ないで済む世界へと旅立った。彼女は意図しなかっただろうが、一人息子は彼女の呪いを引き受けてしまった。言霊は暗い部屋を飛び回り、しっかりと彼に取り憑いてしまった。
カミーユはどのような日も傘を差して出歩いた。亡き母の言霊はカミーユの心を変え、心は行動を変え、行動は習慣を変えた。日傘は彼の一部になり、雨傘も彼の一部になった。俯いて歩くカミーユは勢い猫背がちになり、孤独の殻は強度を増した。彼は空を見上げない。太陽を見つめない。暇さえあれば部屋にこもって太陽とは無縁の動画や物語にふけった。ネットの谷間に投げかける声は似た毛並みの声でこだまする。世界はただ認識だけが支配しているのであって、外界などは主観的な虚構に過ぎない。
カミーユは二十歳になるまでをそうして世界の
そうして何となく惰性で続いていたある日のことであった。
ちょうど雨季に入った頃合の季節。雨傘を差して最寄のディスカウントショップまで行くと、軒先に一匹の猫が彼と似た猫背で佇んでいた。カミーユは雨傘と地面の隙間からその猫を一瞥した。
セルフレジで買い物を済ませて出て行こうとすると、先ほどの猫がカミーユをちらりと見た。カミーユも何となくその猫が気になって視線が合った。その猫の体毛は宵闇のように真っ黒で、瞳は両方とも鮮やかなブルーに染まっていた。
カミーユは暫しその場に佇んだ。そうしてなかなか動けなかった。
その黒猫は昔飼っていた猫に生き写しかと思われるほどそっくりであることに気付いたからだ。
黒猫は恐る恐るカミーユの雨傘に入り込んでくる。彼はその動作を邪魔しなかった。ゆっくりと彼らは家路に就いた。
これも何かの成り行きだろうと思い、カミーユはその猫を彼一人の自宅に住まわせることにした。誰かと一緒の空間を共有することは母が亡くなって以来だった。
黒猫の瞳は両方とも鮮やかなブルーの色彩だった。これは実際に瞳が青いわけではなく、メラニン色素の欠乏により、わずかな色素が光の作用で拡散して青く見えるからだとグーグル先生が教えてくれた。へぇ。
さらにググってみると、ブルー系統の瞳を持つ猫は聴覚に異常を来たす確率が高い、という情報も出て来たが、数日接してみた限りではこの猫にそんな感じは見受けられない。呼べばきちんと応えるし、わずかな廊下のきしみからでもカミーユの訪れを察知する。
もしかして七年前に愛想を尽かして出て行った猫がまた戻って来たのかとも妄想したが、よく考えてみると、昔の猫はあの時点でかなりの高齢だったから、その見込みはかなり薄そうではある。
黒猫とカミーユはいくたびかまどろみ、いくたびか目覚めた。カミーユはわずかな記憶とネットの情報を頼りに、黒猫が暮らすに不自由でない体裁を整えて行った。最寄の動物病院に電話で尋ね、血液検査やワクチン接種などもやってもらった。ここ数年、カミーユ自身ですらやってもらった覚えのない医療処置を猫に施すというのも、考えてみればおかしな話だと思う。
何年もほったらかしにしていた部屋の納戸を久しぶりに開けてみると、埃にまみれた猫用の道具も見つかったが、そのほとんどは買い換えた方が良いという結論に至った。まぁ、その結果として、家の中の様々な場所の掃除と整理が
慣れない肉体労働に疲れて、適当な場所で仮眠する。そうして何かの鳴き声に目覚めてみると、目の前で猫がカミーユに餌か何かを要求していることに気付く。
そうして黒猫との同棲生活が進行するにつれて、カミーユは何かを思い出しかけている。
それは黒猫の青色の瞳を眺めている時に、もっとも心がざわついているらしい。
この色は何だろう。自分は何を忘れているのだろう。
その答えは思いもよらない形で解答が下ることになる。カミーユの夢の中だ。
夢の中でカミーユは誰かに抱えられていた。がっしりとした体付きの男の腕の中で、カミーユはそれが他でもない父親であることに気付いた。
夢の中のカミーユはまだ言葉もろくに喋れない赤児であるらしい。
世界は見渡す限りの遥かまで、鮮やかな青に染まっている。
「ご覧、カミーユ。これが海だ」
現実のカミーユは、これが実際の出来事であったことを思い出す。記憶の内部に納められているワンシーンであることを認知する。赤児のカミーユはぼんやりとした目付きでキョロキョロと辺りを見回し、回らない舌で父親の発音を真似しようと試みる。
「……う、うぃー。まぅいー」
「ははは、カミーユは勉強熱心だな。そしてこれが空だ。今日はよく晴れてて気持ちがいいな。やっぱり来てよかった。いつもお前のことは母さんに任せきりで、構ってやれなくてごめんな」
「……す、すぉあ。すぉらー」
「空だ。そ・ら。父さんの国の言葉だから、お前は使う機会がないかも知れないな。それともこの日のことを、お前はいつか思い出してくれるだろうか」
「……」
カミーユはわかってもわからなくても、ただ信頼している父親の言葉に耳を傾ける。大事なことは忘れない。一度あった出来事は、決してなくならない。
「……父さんの父さん、つまりお前のお爺さんは偉いお坊さんだった。だけど家庭を顧みない人だった。一度だけ、本当に一度だけ、父さんが子どもの頃に山登りに連れて行ってもらったことがある。その日の空も今日のように青く晴れ渡っていて、雲ひとつない、いいお天気だった。廓然無聖という言葉を教えてもらった。後にも先にも、お爺さんから物を教えてもらったのは、それきりだった」
かくねんむしょう? 現実のカミーユにもその言葉の意味がわからない。赤児のカミーユは何となく眠たそうにしている。
「この広い青空の下では、聖も俗もない。無限の宇宙の中では、そんなものはちっぽけなものに過ぎない。詳しくは知らないけれど、大体そんな意味だそうだ」
カミーユの瞳は青空を眺めている。こんなに澄み切った青空を眺めるのはいつ以来だろう。黒猫の瞳のような、吸い込まれるような青一色の世界。廓然無聖。
「……カミーユ。やっぱり父さんは宇宙に行くことを止めることは出来そうにない。お前はもしかしたら、こんな父さんを恨むのかも知れないな。言い訳のように聞こえるけど、それでも父さんは父さんなりに、お前のことを愛しているよ」
「うあ、うー、うー」
「明日になれば、父さんはまた宇宙に行くことになる。せめてそれまではお前と一緒にいるよ。もちろん母さんともな」
遠くの方で母がカミーユたちを呼ぶ声が聞こえる。懐かしい声だ。
けれども夢はそこから先へは行かない。肝心の赤児のカミーユがたまゆらの眠りに就いてしまったからだ。記憶はそこまでで途切れている。赤児のカミーユはどんな夢を見ているのだろう。
現実のカミーユが薄暗い部屋の中で覚醒する。傍らには黒猫が瞳をとじて寄り添っている。
黒猫を起こさないように静かに立ち上がり、カミーユは何かに誘われるように、閉め切ったカーテンの傍に歩み寄る。そして、数年ぶりに外界の光線を室内に招き入れた。
ちょうど雨季が通り過ぎたものと見え、世界は雲一つなく晴れ渡っていた。蒼天はくまなく満ちている。この澄み切った青空の下では、聖も俗もない。無限の宇宙の中ではそんなものはちっぽけなものに過ぎない。
太陽が眩しかった。涙がとめどなく溢れた。
背後ではせっかくの眠りを妨げられた猫が不機嫌そうにあくびをしていた。
廓然無聖。
猫の瞳は廓然無聖 長門拓 @bu-tan
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