愛猫
凪 志織
愛猫
トクンと心臓が打つ。息が止まる。
それは一瞬のことだけど、いつも長い時間のように感じられる。
心臓はひきつり、息を吸うことも吐くこともできない。
再び正常に脈打ち始めた時、ゆっくりと息を吐き呼吸を整える。
仕事終わり、電車の乗りかえのため駅のホームを移動中のことだ。
なんでもないのに、今はなんでもないのに、私は何が怖いのだろう?
日々流れるニュースは芸能人の不倫や国会議員の不祥事や物価の値上がり、株価暴落など自分にとって関係あるのかないのかよくわからないまま、取捨選択できないまま、いやきちんと大事なことにはもっと目を向けないといけないのかもしれないけれど、そんな選ぶということが、決めるという作業が、考えるということが面倒で、すべてまとめて脳内に注ぎ込む。
頭の中を埋めていかないと、私は見えない何か、迫りくるものに気持ちを押しつぶされそうになってしまうから、スマホの画面を指先でスクロールし、流れる情報で頭の中を満たしていく。
彼はそんな私を突き放すでもなく、でも過度に心配するでもなくただ当たり前のように接してくれていた。
彼のことは好きだ。たぶん。
今まで出会った人間の中では一番。
「猫は好きですか?」
初めて会ったその日、彼は唐突にそんな質問をしてきた。
「どうして?」
「君の目は猫の目に似ているから」
私の目が猫の目に似ていることと、私が猫好きであることがどうしてイコールになるのかわからなかった。
それに猫の目に似てるといわれてもどう反応したらよいかもわからなかった。
「あの、それって褒めてるの?喜んでいいこと?」
「褒めてるよ。僕は猫が好きだもの」
彼の妙な言い回しに思考が止まる。
「僕が好きなものと君が好きなものが同じだったらいいなと思って」
返答に困り沈黙していると、彼はしびれを切らしたように大きくため息をついていった。
「伝わってる?僕は君のことが好きだと言ってるんだ。猫と同じくらい愛おしいと思っている」
なんとなく彼の顔が赤いような気がした。好きなら好きと最初からそう言えばいいのに。
休日、疲労のためベッドから出ることができずに布団の中で丸くなっていると彼は「やっぱり君は猫みたいだね」とベッドの端に腰掛け言った。
「録画したバラエティを一緒に見ようよ。体を起こした方がすっきりするんじゃないかな。それとも音楽を流そうか。あ、おすすめの小説があるけど読んでみる?」
彼はいつも私が前向きになれるような提案をしてくれる。でも、
「最近、テレビは面白くないし、小説は元気がないと読めないし、音楽は聴くと夜眠れなくなるし。もうどうにもこうにもならんのだよ」
そういって、布団を頭から被った。
「この怠け者め」
彼はそういいながら布団の上からのしかかってきた。
細身な割に意外と重みのある彼の体に押しつぶされ「ウゥ」と声が漏れる。それでも抵抗する気も起きずそのまま私は眠りに落ちた。
夢を見た。
彼と一緒にひと気のない街の中を歩いている夢。
人間が誰一人存在しないことが嬉しくて、でもなんとなく不安な気もして。
「私ね、人が誰もいない場所を探したことがあるの。自分以外の人間が存在しない場所。くたくたになるまで歩き続けて。でも、どこへ行っても必ず人の気配が必ず漂っていて。人が誰も存在しないなんてそんな場所どこにもなかったのだけれど。でも、ここは私が探し求めていた場所かもしれない」
夢の中で彼にそう話しかけたけれども彼は前方をみたまま答えない。
それでも私はそんなこと気にならないくらい目の前の珍しい景色に心が奪われていた。
ある一角に朽ち果てた石像の群れがあって、よくよくみるとその中の何体かは首のないお地蔵様だった。
首の付け根には小さな穴が開いていてピンク色の蓮のような花が一輪ずつそれぞれに刺さっていた。
どこからともなく現れた白髪の背の高い老人がそのお地蔵様についてそれぞれの意味を教えてくれたが、夢の中のそれはどこか遠い国の言語のようでよく理解できなかった。
「あそこへ上がってみよう」
先ほどまで言葉を発しなかった彼が急にそう言った。
彼の視線の先には手すりのない石橋があって、そこを私たちは足を踏み外さないように注意しながら歩いた。
橋の上から見る朝焼けに包まれた世界は右手に港、左手に街並みが広がっていた。
街を眺めながら彼となにか言葉のやり取りをしたような気がするが、目が覚めた時には、その内容は夢の中に置き忘れてしまったように、記憶から抜け落ちていた。
何か大切な約束だったような気がする。
彼との約束で何か忘れていることがあったかしら。
そう思い「ねえ」と彼に声をかけようとしたがベッド付近に彼の姿はなかった。
窓からは午後の日差しが射しこんでいる。
寝起きは過去のいろんなことを思い出す。
子どもの頃「死ね」というツッコミが流行った時期があった。
何か気に入らないことがあったとき、仲間内でふざけ合っているとき、故意に誰かを傷つけたいとき、それは万能の言葉として使われた。
私はその言葉が冗談でも嫌いだった。上手く流せればいいのに。うまく流れてくれなくて。
心の柔らかい部分をチクリと刺していく。
言った方も言われた方も顔は奇妙に歪み、笑っているのに泣いているようだった。
どちらも醜くて見ていられなかった。
寝返りを打つ。
ベッドサイドの丸テーブルに文庫本が置いてあった。
彼が置いていったのだろう。
本を手に取り横になったまま開く。
彼が崇拝する小説家の本だった。
80年代に流行ったロックバンドの楽曲が出てくる。
私はこの作者の本を読むといつもなぜかたばこの匂いと湿気のこもるかび臭い部屋を連想し少し気分が悪くなる。
「膝を抱えて座らない方がいいよ。寂しくなっちゃうから」
体育座りで本を読んでいると紙袋を手に持った彼が帰ってきた。カラフルなドーナツのイラストが描いてある。
「ねえ、私たち前に何か約束してたっけ?」
「約束?」
彼は、どうだったかなぁと言いながら紙袋をテーブルに置き開く。
中にはチョコレートでコーティングされたもの、砂糖がまぶしてあるもの、カスタードクリームが詰まっているものなど複数の種類のドーナツが入っていた。
私は立ち上がり飲み物を取りに行く。
食器の戸棚を開け彼のグラスを手に取った。
青いマーブル模様が美しいそれは以前沖縄に行ったときに買ったものらしい。
「今度沖縄行こう」
私は麦茶の入ったグラスを運びながら彼に言った。
「珍しいね。君が行きたい場所を自分から言うなんて」
「私もこのグラス欲しい」
「ああ、琉球ガラス?わざわざ沖縄行かなくてもネットで買えるよ?」
「こういうのは旅先で買うからいいんだよ。それに君と一緒に選びたい」
彼は床に座ったままこちらを不思議そうに見上げた。
「やっぱり君の目は猫みたいだね。下から見るとなおさら」
彼に麦茶を手渡す。
「あとさ、私まだ君に話してないことがあった」
「なに」
「私も猫好きだよ」
愛猫 凪 志織 @nagishiori
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