第3話

1日目は、ホテルに直行、2日目はジベルニーのモネの家、3日目、4日目はフォンテーヌブローとバルビゾン散策、4日目はルーブル美術館とオルセー美術館、一行の旅はまさに「フランス美術の真髄を探る旅」であったのだが、志穂は何をみても気持ちがふさいでいった。10月のパリと郊外は、すでに秋色深く、旅行中は天気が悪かったので、さびしさがいっそうつのった。時差ぼけのせいか、夜もよく眠れなかった。

4日目の朝、佐々木先生は、朝食の時間になっても、レストランに降りてこなかった。

志穂が先生の部屋に行ってみると、普段もの静かな佐々木先生の声が、ドアの外からも聞こえてきた。

「ぼくの論文のどこが、盗作だというんだ。日本に帰ったら、決着をつけてやる。」

志穂がドアをノックすると、佐々木先生がドアをあけた。その顔は憔悴しきっていた。

「あのう」

志穂が何と声をかけてよいのか、ためらっていると、

「どうにもこうにも、ひどい話だ。今大学の研究室から、電話があってね、先日ぼくが書いた論文『聖フランチェスコと中世ウンブリア地方の宗教美術』が、自分の著書からの引用だといってきた教授がいる、というんだよ。あれは、ぼくのライフワークともいえる論文だ。他人の意見を引用するくらいなら、自分で反論を展開するよ。」


その日の夜は、パリの最後の夜ということで、リドに行くことにしていた。

リドとは、パリでも名高い、ヌードダンサーが豪華な衣装と、躍動感あふれるダンス、パリの舞台美術はこうであるかという、洗練された演出で見せてくれる、有名なショーである。予約をするときに、関西出身の鶴田さんと、松本さんは、「パリの宝塚や」とたいへんなはしゃぎようだった。夜の10時と12時の2回ショーがあり、10時の回は満員だった。

佐々木先生が、「翌日は出発だし、12時では遅いから、やめませんか。」

と提案しても、志穂をのぞく3人は、断固として行くといいはった。

夜10時半にホテルのロビー、と佐々木先生は集合時間を一行に伝えた。

待ち合わせ時間になって、やってきたご婦人たちはというと、鶴田さんは、くるぶしまであるロングスカート、松本さんは、金ラメのショールをまとっている。小林さんは、普段より数倍も化粧が濃い。暗いところでお化粧したのだろうか、ほお紅が丸く赤く、鼻の両側にうきでている。

ロビーに足をふみいれようとして、志穂は一瞬めまいのようなものを感じた。

佐々木先生は、ソファにもたれていた。今朝日本から連絡があった盗作問題で、心ここにあらずという感じである。

「全員そろいましたか。」志穂が加わるのを見届けて、佐々木先生が声を発した。

「では、行きましょう。」

ホテルの先にはタクシー乗り場があった。その前を通りすぎると、先生は、メトロ(地下鉄)の駅の方角にスタスタと歩いていってしまった。

女性たちは驚いて、「先生、ちょっと待って、どこへ行かれるんですか。タクシーにはのらないんですか」。

先生は、「5人じゃタクシーには乗れませんよ。2台に分乗するにしても、途中ではぐれたら困ります。フランスのタクシー運転手は英語ができないんですから」。

「なら、どうして先に言ってくれないの。こんなカッコウしてくるんじゃなかったわ」と言ったのは鶴田さんだ。

「私は平気よ。パリのメトロはムードがあっていいわ。」小林さんがこたえた。

険悪なムードになりながらも、メトロ4番線の「サンジェルマンデュプレ」駅に着いた。

サンジェルマンデュプレ駅から、リドのある1番線「ジョルジュ・サンク」駅までは、地図上では、「シャトレ」駅で乗り換えたほうが近いし、乗り換えも1回ですむ。が、先生は

「夜のシャトレ駅は、麻薬の売人が多いそうだから観光客は通らないほうがよいと思う」

そう言って、シャトレ駅とは反対方向の、モンパルナス駅方向のホームへと進んだ。

「モンパルナス駅から、6番線にのって終点のシャルルドゴール・エトワール駅へ、この駅からリドのあるジョルジュ・サンク駅はひと駅だから、歩けなくもないけど、夜風が冷たいし、料金は同じだからジョルジュサンク駅まで行きましょう。リドはもう駅のすぐそばですから・・・」。

先生の説明に、

「ド、ドゴールだか、ボンジョルノだか、わからへんけど、なんかけったいやなあ。タクシーでぴゃあといくわけにはいかへんのやろか。」

鶴田さんが怒ったように、言い放った。

むっとした表情を浮かべながらも、佐々木先生は無言で、メトロ内の手すりにつかまっていた。

志穂は、出張先でヌードダンサーが踊るショーみたいなものは見たことがあったので、リドに期待する、というよりも、ショーに払う金額のほうが気になっていた。

今回の旅行でいくら名画をみても、気持ちが晴れなかったので、翌日の出発前までの時間を利用して、サンジェルマンデュプレにあるブティックでバッグを買いたかったのである。

パリの最後の夜ではあったが、おつきあいだからしょうがないか、というあまり気乗りのしない気持ちであったことは、確かだった。

「明日、日本に帰るというのに、気持ちは沈んだまま。今回の旅行は来ないほうが、お金をつかわなくて、よかったかしら」とまで考えていた。

シャルルドゴール・エトワール駅に着くと、乗り換えという意味の「コレスポンダンス」を探す、佐々木先生が落ち込んでいるからには、志穂がみなを先導して、リドまで連れていかねばならなかった。

6号線からジョルジュサンクのある1号線の乗り換えはスムーズだった。

次の駅ですぐおりるから、という気持ちがみんなのあいだにあったといえる。これまで、寡黙に先生と志穂についてきた3人が、急におしゃべりになった。

鶴田さんが、志穂に「先生は行きたくないんやね」と話しかけてきた。

「そうではないと思いますよ。」

志穂は、先生の憔悴の原因を言いたかったが、鶴田さんに話したら鬼の首でもとったように、他のふたりに言いふらすにきまっている。先生の名誉を守るため、本当のことは言えなかった。

松本さんがやさしい声で、小林さんに話しかけている声がきこえた。

「あなた、眠そうやなあ。ホテル帰って寝たほうがええんとちゃうか」。

「いいえ、大丈夫よ。」

そんな会話が耳に入るとまもなく、メトロはジョルジュ・サンク駅に着いた。

(さあ、ソルティーの方角はどこ?)

ソルティーというのは、出口のことである。志穂は、先生の手助けをしてみなを先導しなくては、という気持ちが強かった。メトロのドアがあくと、まっさきにホームへ降りた。ソルティーを確認して、ふりむいたときに、すぐ後ろには佐々木先生、その後ろに鶴田さんと、松本さんが降りてくるのが見えた。(これで全員かしら)と志穂が不思議に思った瞬間、佐々木先生の叫び声が聞こえた。

「小林さんは?」

その場の全員が、ふりむいて、メトロのドアを凝視した。ドアはいかにも機械的に、ピシャリとしまって、列車は走りだしてしまった。メトロの窓からは、小林さんの影もかたちも見えなかった。そしてホームにも。


メトロの最後尾が左に大きく揺れたかと思うと、小さくなってトンネルの向こうへと、消えていった。そしてその後には深い闇が残った。

「どうして小林さんは降りなかったの!」佐々木先生の声はふるえていた。

「あの人寝てはったんだと思いますわ」

「でも、直前までお話してたんでしょう。」

詰問口調になってしまった志穂に、松本さんは、

「あの人、しゃべってたと思うとすぐ寝てしまうの。でも、たった一駅だから、私後ろも見ないでおりてしまって・・・」と答えた。

「先生、こういうときは、降りそこなった人が、次の駅で待っているものです。すぐに次の列車で、追いかけましょう。」

志穂がいうのを、さえぎって佐々木先生は、

「いや、行き違いになるといけないから、ここで待っていよう。」

その意見に納得できない志穂は、次のジョルジュサンク行きの列車がきたときに、

「先生、本当にこんなところで待っていていいんですか」ときいてみた。

先生は、仏頂面のまま、うなづいた。

そのときはだれもが、小林さんはすぐに戻ってくると信じていた。

反対側のホームに1本列車が入ってきた。しかし、小林さんは降りてこなかった。

2本目、3本目の列車が着いても。その場にいた全員がため息をついた。

佐々木先生がいった。

「ところで、小林さんはホテルの住所とか、電話番号をもっているのかな」。

志穂は心に寒い風がふきぬけたような気がした。

ほかの4人は無言だった。

「じゃあ、リドに行くっていうのもわかっていたのかな。」

誰も口をきかなかった。しばしの沈黙があって、鶴田さんが口をひらいた。

「私たち、踊りを見に行くんや、とはしゃいどったけど、リドという場所名なんて

トンと知りません。今きいたばかりや。」

志穂は小林さんの眠そうな眼、細いあご、持ち物、グレーのスーツなどを思い浮かべていた。こんなにもはっきりとあの場の情景が目に浮かぶのに、小林さんはどこで、目を覚ましたのだろう。

目的地のリドはわかっているのだろうか。自力でたどりつけたとしても、帰りはどうするのだろう。小林さんが、列車にのったまま、いなくなってしまってから、30分くらいすぎただろうか。

このままここにいても、無駄だという気持ちが全員の心にあった。

佐々木先生は、「そろそろ、リドの開演時間の12時になります。ぼくたちはこのまま、残りますから、おふたりだけでもショーを見てらしたら、どうですか。

リドはこの駅のすぐそばなんですよ。」とうながした。

が、松本さんも、鶴田さんも、「人がひとり行方不明やというのに、踊りなんてみにいかれへん」とかたくなに拒んだ。

「大勢で待っていてもなんですから、おふたりはタクシーでホテルに帰って待機していてください。」

佐々木先生の言葉に、松本さん、鶴田さんは、ふたりだけで、夜のタクシーに乗るのはこわいといった表情で、先生をみつめていた。だが、このままホームにいてもどうしようもないのは、明白だった。

志穂が、もっていたホテルの名刺を差し出し、これをタクシーの運転手にみせて「オテル・シルブプレ」といえば通じるというと、ふたりは、少しほっとしたようすで、駅のホームの階段を、服のすそがじゃまをして、よたよた上がっていった。


佐々木先生の提案で、彼と志穂は、メトロ1号線をひと駅ずつ、小林さんを探しながら見ていくことにした。ひと駅ごとに降りていては、効率が悪いし、そろそろ終電の時刻が近づいていた。一番前の車両に乗り込めば、駅に着いたときに、ホーム全体をながめることができる。

小林さんらしい人がいたら、すぐ降りようと先生と志穂は、決めていた。

ジョルジュサンクの次の駅に列車が着いたときに、もしかしたら小林さんがいるのでは、という期待は裏切られた。その次の駅に、列車がすべるように入っていったとき、志穂はこれ以上見つめられないといった様子で、駅のすみからすみまで、眼を凝らした。小林さんらしい姿は、影もかたちもいなかった。

そんなことをしながら、5駅ぐらいがすぎたころだろうか。今までの駅にくらべると、大きな駅に着いた。佐々木先生が通りたくないから、とわざわざ遠回りをしたシャトレ駅だった。

ホームの片隅で、背丈の高い男たちが5、6人かたまって、何か騒いでいる。

志穂は一瞬どきりとしたが、そのグループのなかに、日本人らしい人影がいないことが、わかると安心した。

志穂は、「小林さん、いったいどこにいるんでしょうね。」と話しかけようと、佐々木先生のほうをむくと、先生は志穂がこれまで、見たこともないような恐い顔をして、押し黙っていた。

責任を感じているというよりは、「できることならこんな場面から抜け出したい」そんな後ろむきの態度を感じて、志穂は先生に話しかけるのをやめた。何がなんでも小林さんの居場所をつきとめなくてはならない。先生は頼りにならないから、自分がしっかりしなくてはいけないのだ、志穂はそう思ったら、いてもたってもいられないような気持ちになって、ため息をつく代わりに大きく息を吸った。


1号線は割と短いメトロで、30分ほどすると、終点のシャトー・ドウ・ヴァンセンヌ駅に着いてしまった。警察犬を連れた警官が、佐々木先生と志穂のほうに近づいてくる。

「日本人の中年女性を探しています。グループで観光をしていたのですが、メトロで行方不明になってしまいました」

頼る人はこの人しかいないと、志穂は、懸命に説明した。

だが、若いフランス人の警官は英語を、まったく理解できず、早くホームから出ろらしいことを、犬の手綱をひいていないほうの手で、ジェスチャーで説明すると、去っていった。どうやら、志穂たちの乗った列車は、最終列車だったらしい。

ふたりがすごすごと、ホームから地上にでると、メトロの終点駅はマロニエの並木道と、道路のほかには何もない閑散とした場所だった。夜の空気がひんやりと冷たい。マロニエの木の下に、透明の電話ボックスがぽつんと建っていた。

「ひとまずホテルに帰って、警察に連絡しよう。われわれのできることはこれまでだ」

佐々木先生のあっさりした言い方に、志穂は、なぜか反発を覚えた。

もう少しねばってみては、と考えていた志穂の頭に、小林さんの口ぐせ「大丈夫、大丈夫」がきこえてきた。

「本当にそうなら、よいけど」ひとり言をつぶやいた、志穂の頭に一瞬ひとつの考えが浮かんだ。「でも、まさか」志穂は自分で打ち消しながら、「でも、もしかしら」。

自問自答の末、佐々木先生にこう言った。

「先生、小林さんは自力で、リドにいっているかもしれませんよ。」

「そんなことは、できんだろう。小林さんは、こんな夜ふけに、迷って困っているんだよ。」

悲しそうな佐々木先生の顔をみて、志穂はこれ以上自分の意見を押し通すのは無理だと思った。が、バッグのなかにガイドブックが入っているのを思い出した。有名なリドなら、絶対載っている。索引のなかのエンターテイメント欄をひいて、かじかんた指でリ、リドを探すと電話番号はあった。

「先生、リドの電話番号はわかります。このまま帰る前に、電話してきいてみたらどうですか。」

「うーん」

佐々木先生の性格を考えると、たとえ電話番号がわかっても、かける電話がなかったら、何もしなかったはずだ。だが、ふたりの視界には、電話ボックスがあった。

志穂の剣幕におされるように、佐々木先生は、しぶしぶコインを入れて、志穂がさしだすガイドブックの電話番号をみながら、電話をかけた。

「私は佐々木と申します。本日そちらの予約をしたものですが、日本人で小林昌子というものがひとりだけ、行っていないでしょうか」

理路整然と話す先生の流暢な英語を耳にして、志穂はやっぱり先生に頼んでよかったと思った。

「えー、年は45歳前後の女性で、ダークグレイのスーツを着ています。グループからはぐれてしまったんですが」

相手の話す声をきくため、受話器に耳をあて沈黙していた佐々木先生の声が急に、かん高くなった。

「今すぐその人を電話口に出してください!」

何といっているかはわからないが、電話の向こうから、言葉の断片だけがきこえてくる。

「では、彼女が見付かったら、ホテルにいるミセス・マツモトに電話するように伝えてください。ホテルは…、電話番号は…。必ず伝えてくださいよ。」

「メルシー、ムッシュー」といって電話を切った佐々木先生の顔は、紅潮していた。

「小林さん、リドにいたよ。」

佐々木先生は、志穂の顔をみつめると、こう続けた。

「これからリドに迎えに行く。」

「先生、ホテルで待っている鶴田さんと松本さんに連絡したほうがいいのではないでしょうか」

「ああ、そうだった」

志穂は、佐々木先生が宿泊先のホテルに電話し、102号室の松本さんにとりついでほしいと告げてから、松本さんが出るまで、かなり長い時間がかかったような気がした。

ホテルは家族経営のこじんまりとした、ホテルである。もしやあのふたりに何かあって、まだホテルに着いていないのだろうか。志穂が時計を見ると12時30分をすぎていた。

「あ、松本さん、佐々木です。小林さん、リドにいたんですよ。これから迎えに行きます。

えっ。どうして行けたかって。う~ん。本人と話したわけではないので…。

リドに電話したんですよ。そしたら、小林さんみたいな日本人のおばさんがロビーでウロウロしてたっていうじゃないですか。

ぼくは、『いますぐ、電話口にだしてください』っていったんですけど、『ショーははじまっています。300人の日本人が見ているんですよ』って断られたんです。いやあ、でも見つかって本当に良かった。

これからぼくらは、リドに迎えに行きますから、おふたりは休んでいてください。」

電話を切ろうとした佐々木先生が、その手をとめ、けげんそうな顔で、電話の向こうの様子をうかがっている。佐々木先生を見上げるように見つめている志穂に気づくと、志穂のほうに顔を近づけて、こういった。

「今ホテルに小林さんから、電話が入ったらしい」


タクシー乗り場は、駅の反対側にあった。乗客はだれもおらず、タクシーが3台と、その運転手が3人、ひまそうにタバコを吸っていた。

「リドまで行きたいのだが。」

佐々木先生が声をかけると、3人は、ふたりをチラとみただけで、タバコを吸う手をとめなかった。

「どのタクシーに乗ればいいのかね。」

佐々木先生が、強い口調で言うと、3人のうちふたりがひとりの男を見て、見つめられたほうの男は仕方ないとでもいうように、吸っていたタバコを地面に捨て、自分のタクシーが停めてある方角をあごでしゃくった。


リドへは、15分くらいで着いた。劇場のような大掛かりな入り口を予想していた志穂にとって、リドの入り口は狭くて、普通のビルの入り口とかわらないような気がした。佐々木先生が、

「ここで、タクシーの精算をしてしまうと、流しのタクシーをつかまえるのは難しいし、小林さんを迎えにいくだけだから、タクシーにはわれわれを待っていてもらおう。」と言った。

志穂は、運転手とふたりだけで、タクシーに取り残されるのは嫌だったので、小林さんを迎えに行くほうをとった。

志穂がリドのなかに足をふみいれると、床はふかふかのじゅうたんがしきつめられ、壁も床も青で統一され、まるで一流ホテルのロビーのようだった。

フロントの前をだまって通り過ぎ、そのまま劇場の扉をあけ、中を覗くと舞台ではきらびやかなダンサーが足をあげ、水しぶきがあがっている最中だった。客席のほうを見ると、なるほど広い。

ステージが明るい分客席は暗くて、どこに小林さんがいるかとても探せそうにもない。あきらめて扉をしめ、フロントに戻ると、志穂はたずねた。

「先ほど電話しました、ササキグループのものですが、ミセス・コバヤシはどこでしょう」

リドの制服らしい、青い背広を品よく着こなした若い係員が、志穂の後ろの方を差して、右手を軽く上げた。志穂がふりむくと、さっきの扉の前に、小林さんがニコニコして、手を振っていた。

志穂のほうからは、客席は見えなかったが、客席の小林さんからは、志穂が扉があけたときに、光が差し込んでわかったのだった。

「小林さん!」

志穂が小林さんに駆け寄ったとき、小林さんは、

「まあ、みんなどうしちゃったの。とっても楽しいショーなのよ。」

「小林さんがいなくなって、ホテルで待機しているんです。外で、佐々木先生とタクシーが待っています。早く帰りましょう」

そういって志穂が小林さんをせかしたとき、彼女はまだ見ていたいようなことを、つぶやいた。

それにはかまわず、志穂は腕をひっぱって、出口のほうへと足早にいそいだ。

すると、先ほどの係員が立ちはだかってフランスなまりの英語で言った。

「お客様、ご予約されたのですから5名分の代金をお支払いください。」

「何ですって。私たちショーは見ていないんですよ。」

「こちらのお客様はごらんになりました。」

「じゃあ、ひとり分払えばいいじゃないですか。」

「いいえ、ご予約ですから、5名分2500フラン(当時のレートで約5万円)いただきます。」

そんな、ばかな話があってよいものだろうか、志穂はハンサムな係員に軽い怒りを覚えながら、小林さんを連れて、いっそタクシーまで、駆け足で逃げてしまおうかと思った。だが、もじもじしながら、扉の奥のショーを気にしている小林さんを見ると、そんな考えはふきとんでしまった。

「小林さん、ここにいてください。私、佐々木先生を呼んできます。」

佐々木先生は、志穂がひとりだけでタクシーに戻ってきたのを見ると、不思議そうな顔をした。息せききって、タクシーに戻ると志穂は言った。

「先生、小林さんは中にいます。でも、係員が5人分の料金を払えってきかないんです。」

「ええー。そうか、わかった。」

佐々木先生がリドの中へ、消えてしまうと、志穂はタクシー運転手とふたりきりになってしまった。運転手はすぐに、いつまで待たせるんだみたいなことをフランス語で言いはじめた。

「すぐきます。お願いですから待ってください」

と英語で話しかけてみたが、返事はなかった。むしろ、声のトーンがよけいに荒っぽくなってしまった。運転席から、志穂の座る後部座席をむいて、後ろむきでわめき散らしている。

「もう、いいかげんにしてほしい。」

運転手の怒鳴り声に志穂の神経は、すりきれんばかりだった。どうしてこう一難去ってまた一難なのだろう。言葉の通じない相手に、何を言ったらいいのだろう。志穂は運転手の前で、両手をバタバタと上下させ、「押さえて」「押さえて」というジェスチャーをしてみたが、無駄のようだった。志穂は、ついに砂漠で、砂嵐がすぎさるのを待つラクダのように、じっとしていることにした。

「東京砂漠という歌があったけど、ここはまさにパリ砂漠なのかもしれない。」

運転手の怒りの激しさは、まったくおさまる様子がなかった。志穂と運転手を隔てている座席シートをこぶしでたたきながら、怒っていた。

佐々木先生が小林さんの両肩を抱きながら、リドの入り口に姿を現し、こちらに歩いてくるのが見えたとき、志穂はこの運転手から一瞬でも逃れたい気持ちで、ドアのロックをはずすと、車の外にでた。リドはシャンゼリゼ通りに面している。

10月のパリのひんやりとした夜風と、車の喧騒が一気に志穂を包んだ。

右手に先生と、小林さんが近づいてくる姿を認めながら、志穂は左の方角に見える光景に目を見はった。そこには光を放ちながら、整然と並ぶシャンゼリゼ通りの街灯が連なり、その先に凱旋門がそびえているのが見えた。照明に彩られたその門は、見るものを圧倒する、力強さ、美しさに満ちていた。

「きれい。」思わず志穂は感嘆の声をあげた。

凱旋門の美しさだけではない、門の上にくっきりとひろがるパリの夜空、夜空を縁取る並木道の木々、シャンゼリゼ通りの照明、車のライト、道ゆく人々。そのどれひとつ欠けても、パリのもつ都市の魅力は完成しないのだろう。

うっとりとした気持ちで、志穂はタクシーの前で立ちすくんでいた。

佐々木先生と小林さんが、志穂の前までくると、志穂はわれにかえった。

先生に連れられた小林さんは、少し前に志穂が会ったときとは、別人のようにしょげかえっている。

「リド、解決したんですか。」

志穂が訪ねると、佐々木先生は、

「ああ、シャンパン1杯の値段だけで、すませてきた。だいぶあばれたよ。」

先生はおかしそうに答えたが、あばれたのは、リドではなく先生で、交渉がだいぶ難航したと思われた。

小林さんは、志穂の前にくるなり、

「山中さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。ご迷惑をおかけして、何とお詫びしていいか…。」

「えっ。そんな、別にいいですよ。無事で何よりでしたね。」

「メトロで、ひと駅ずつ探してくださったんですってね。」

「はあ」

では、小林さんは、私たちがリドに迎えに来たのを、いったいどう思っていたのだろうか。

「さ、話はあとで。夜も遅いんだから、さあ、帰ろう。」

タクシーに乗り込もうとする先生の背中に志穂は、声をかけた。

「先生が、戻っていらっしゃるのが遅かったんで、タクシー運転手が、だいぶつむじを曲げているんです。」

タクシー運転手の怒りは、頂点に達していた。佐々木先生が、ホテルに着いたら、タクシー料金の1・5倍払うといっても、耳に入らないようだった。志穂が渡したホテルの名刺も、こんなホテルは知らないと、放り投げそうな勢いだった。

志穂がタクシーで待っているあいだ、先生は小林さんから、事の次第をきいたようで、運転手の怒りにまかせた乱暴な運転に揺られながら、説明は先生からきくことになった。

「小林さんは、ジョルジュ・サンクの次の駅で、眼をさましたんだって。戻ろうと思ったけど、地下鉄の回転扉がどうしても逆に動いて、戻れなかったんだって。仕方がないから、歩いてリドに行ったそうだ。」

「リドに行くというのは、わかっていたんですか。」志穂がたずねると、

小林さんがうなずいた。

通行人に「リド?」「リド?」とたずねて、指をさしてくれた方向に歩いていったら、着いたという。しばらくロビーでうろうろしていたら、係員の人がきたので、ショウイチロウ・ササキの名前を告げると、席に案内されたので、てっきり、先生たちも後から来るものと思っていたという。

「それで、ホテルの住所とか電話番号はもっていたんですか。」

小林さんは、首を横に振った。

「では、われわれが行かなかったら、ホテルには帰れなかったんだ。」

先生は、うなるように言った。

「ぼくらが、ホテルに電話したとき、小林さんからも電話がきていた。それはどうしたの?」

「リドの人が『ここに連絡するように』と、紙をもってきたんです。」

「ふーん。実は、リドに電話したときに、小林さんらしい人がいるっていうから、すぐ電話口に出してくれるように、頼んだんだよ。でも、そのときは断られた。結局そのあとで、探してくれたってわけか。」

「リドって親切。」志穂がつぶやいた。

「ショーがはじまったら、飲み物の注文をとりにきて、いらないって手をふって言ったのに、しつこくてしょうがないので、一番安いシャンパンを頼みました。」

「それで、シャンパン代のことを言っていたんだね。」

「でも、私たちショーをみていないのに、全員分の代金を払えなんてひどいですよね」

「そうだよ、われわれのだれひとりとして、ショーを楽しんだわけじゃないのに、いいがかりだよ。シャンパン代しか払わないって、強く抗議したんだ」佐々木先生が、言うのをさえぎって、小林さんは、

「でも、私半分くらい見ましたから」

志穂と佐々木先生が、びっくりして小林さんの顔をみた。志穂は何も言うまい、と心に決めた。

曲がり角を運転手が、減速もせずに曲がるので、胃のあたりの調子が重苦しいものに変わったせいもあった。

佐々木先生が、

「えつ、小林さん、ショー見たの? ぼくはてっきり、ショーがはじまってすぐ、シャンパンの注文をしたときに、ぼくらが迎えに行ったんだと思って、猛烈に抗議したのに。」

志穂は、小林さんがおりそこなったメトロの時刻に、みんなで戻ってくるのを待っていた時間、終電で最後の駅に着き、電話をし、タクシーでかけつける時間、すべてを足すと、小林さんがショーの最初から終わり近くまで十分堪能できたと、推測した。

「そうかあ、見ちゃったのか。鶴田さんも、松本さんも、『人がいなくなった大事なときに、そんなショーなんて見に行けない』って、ホテルに帰っていったんだよ。このことをふたりには、内緒にしておこうよ。」

志穂は黙ったまま、首を縦にふりたかったのだが、頭を動かしたら、胃のあたりがますます苦しくなりそうになって、やめた。運転手の暴走は続いていた。

ところが小林さんは、申し訳なさそうに、

「私、リドの人が、ここに電話するようにって、紙をもってきたときに、どうして電話するのかわからなくて、佐々木先生に何かあったのかと思って、電話口で鶴田さんに言っちゃったんです。そしたら、鶴田さんが、すべてを佐々木先生におまかせしたんだから、私たちとはもう関係ないって、怒って電話を切ったんです。」

「鶴田さんに、ショーを見たことを言ったの?」

「ええ、まあ」

佐々木先生は、しまったというように、片手で顔をおおうと、深く息をはいて、うずくまるように体を二つに折った。先生の頭が前のシートにぶつかりそうになるくらい、運転手は夜のパリの街を、一段とスピードをあげて走りぬけた。


ホテルに着くやいなや、佐々木先生と運転手の丁々発止のやりとりが始まった。スピードをあげて走っていたときは、おとなしかった運転手が、また怒鳴りだした。佐々木先生がメーターの金額に上乗せしたらしいのに、まだ抗議している。

乱暴な運転のおかげで、すっかり乗り物酔いをしてしまった志穂が、小林さんと202号室に行こうとすると、階段の踊り場に鶴田さんが仁王だちになっていた。いつもは温厚な松本さんまでが、こわばった顔をしている。

「小林さん、わてら、あんたに話があるんや。」

志穂は、小林さんがどうして謝らないのか、不思議に思った。さっき、志穂に会ったときは、ちゃんと謝っていたのに。

いつのまにか、佐々木先生が志穂の後ろに立っていた。

「鶴田さん、今回のことは、小林さんも悪かったけど、事故だど思ってくれないか。こうして無事に帰ってきたんだから、もういいじゃないか。」

「いいえ、この人わたしらが、心配してるところに、電話かけよってきて、なんていいはったと思います。『みんな何してるのー。私見てるのよー』わたし、こんな失礼な、人を馬鹿にしたセリフきいたことないわ。」

「まあまあ」

とりなす佐々木先生も加わって、102号室で何やら話し合いが始まってしまった。

志穂は、自分は関係ないだろうと思い、部屋で休もうと思った。時計を見ると2時だった。

タクシーに酔った気持ち悪さは、薄れていたが、今度は緊張したあとの疲労感が志穂を襲った。


志穂がシャワーを浴び終わっても、同室の小林さんは帰ってこなかった。明日は出発なので、軽く荷物をまとめていると、ドアをノックする音がきこえた。

志穂がチェーンをかけたまま、ドアをあけると、佐々木先生が立っていた。

「山中さん、今日はごくろうだったね。」

志穂はチェーンをはずしながら、気になっていたことをたずねた。

「先生、話し合いはどうなったんですか。」

「まだ続いている。今度のことは、ぼくにも責任があるから、とことんつきあうよ。

ひと言お礼をいいたくって。ルームキーもらえるかな、山中さんが寝てても小林さんが入れるようにね。今日は本当にお疲れ様。それじゃ、おやすみ。」

佐々木先生が帰ってから、志穂はベッドに腰かけて、ため息をついた。せっかくのパリの最後の夜だというのに、大変な目にあってしまった。でも、リドの前で見た凱旋門とパリの街はきれいだった。 パリの夜もこれで、みおさめ…。志穂は窓に近づいて、外を見た。

窓の外にはサンジェルマンデュプレ教会が、ライトアップされて見えた。

ちょうど、志穂がスティーブに売ったあの絵のようだった。あれ以来、志穂は教会のたぐいを目にするだけで、涙が出そうだった。今日、ルーブル美術館に行く途中で、ノートルダム聖堂を見たときでさえ、辛かった。なのに今は、佐々木先生と、夢中で小林さんを探し回った大冒険のあとでは、自分でも驚くほど冷静に見ていられる。

「 あと天使がいれば、あの絵にぴったりなのにね。」

志穂はひとり言をいうと、あっと思った。

天使は小林さんなのかもしれない。志穂にスティーブを忘れさせてくれるために、小林さんは消えてくれたのかもしれない。なぜなら、つい今しがたまで、志穂はスティーブのことなどきれいさっぱり忘れていたのだから。

「小林さんが天使ねぇ。おばさんの天使なのね。」

志穂はひとりで声をたてて笑うと、ベッドに入って眠りについた。

失恋してから、はじめての熟睡だった。


翌日、志穂と佐々木先生は、エールフランスのエコノミークラスに、並んで腰掛けていた。

通路側の志穂の座席から、前のほうの座席に、鶴田さん、小林さん、松本さんが3人1列に並んで、仲よさそうに、おしゃべりをしているのが見えた。

食事がすみ、機内映画が終わると、隣の佐々木先生が軽い寝息をたてはじめた。他の乗客も睡眠をとっているのだろう。暗く静まりかえった客席のなかで、ひとつだけ明かりをつけて、雑誌を読んでいるのは、志穂だけだった。

トイレからの帰りに通路を歩いてきたビジネスマン風の若い日本人男性が、志穂の読んでいる雑誌に目をとめて、読み終わったら貸してほしいと言った。

「眠れなくて。」と頭をかく、その青年のしぐさがおかしくて、志穂はつい笑ってしまいながら、「私もなんです。」そう答えた。

(完)

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天使が舞い降りた夜 @39mydream

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