第2話

志穂がスティーブにはじめてあったのは、梅雨だというのに蒸し暑い6月の日のことだった。志穂が勤め先の画廊で所在なげに店番をしていたとき、ふらっとひとりの外国人がはいってきた。白っぽい背広の上下に、金髪がよく映え、 午前中の日の光に照らされた横顔は端正で美しかった。

「絵を見せてください。」

流暢な日本語で志穂に声をかけると、男は、画廊に飾られている絵をみながら歩いていたが、やがて1枚の絵の前で立ち止まるとしばらく見つめていた。

志穂が「こちらはテオドア・マッケンジーといって新進作家の作品です。リトグラフですから、手ごろなお値段で購入することができます。」と説明した。

絵はアーリーアメリカン調の教会が星の光に照らされ、尖塔の先の十字架のあたりに、天使がふたり、宙を舞っている構図であった。

「この教会がぼくの故郷の教会を思わせるんです。」

「ご出身はどちらですか。」

「アメリカのワイオミング州です。」

スティーブ・ブランと名乗った男は、その「天使が舞い下りた夜」というリトグラフを購入したいといった。38万円という代金をローンで支払うこととしたが、志穂の画廊は日本発行のクレジットカード以外受け付けなかったので、スティーブのクレジットカードは、使うことができなかった。

申し訳なさそうに謝る志穂に、彼は来月にボーナスがでるので、一括払いにしてもよいだろうかと告げた。そういう場合、経理を通さねばならなかったのだが、志穂は、

「天使を好きな人に悪い人はいないわ。」

簡単な書類にサインをもらっただけで、契約の手続きをすすめてしまった。

94年の夏は、バブルが崩壊したとはいえ、景気の冷え込みにはまだ間があった。こんな商売もまだ成り立っていたのである。

頭金の10万円が振り込まれて、「天使の舞い下りた夜」はスティーブの自宅に送られた。

38万円の「教会と天使の絵」を買っていった美しい外国人のことは、同じ画廊の女性社員のあいだで、話題になった。

その数日後、スティーブから志穂の画廊あてに電話が入ったとき、志穂は同僚たちに気づかれないかと小声になってしまった。それは、志穂に世話になったことのお礼をつたえる電話だった。

「よかったら、ぼくのうちでパーティがあるのですが、絵を見るついでにでも、いらっしゃいませんか。」

きくと、スティーブは英語学校の講師で、教え子と同僚の先生たちが集まってパーティーをするのだという。志穂は日本人も参加するという、そのパーティに興味をそそられたのと、自分が売った絵が、アメリカ人のスティーブの自宅にどのように飾られているのか、見てみたい気がして、行くことにした。

志穂がスティーブと恋におちるのに、そう時間はかからなかった。


8月になったある日、志穂は朝おきて、何気なくつけたテレビのニュースに愕然とした。

それは、スティーブの勤める英会話学校が多額の負債を抱えて、倒産したことを伝えるものだった。2日前に会ったときは、普段と変わらなかったのに。

ふるえる指でスティーブの電話番号をプッシュした。

ところが、電話の向こうからは「この電話番号は現在使われておりません」という乾いた機械の声がひびくだけであった。

画廊が閉まってから、志穂はスティーブのマンションに行ってみたが、彼はすでに住居を引き払ったあとだった。

スティーブの購入した絵画は、彼が引越してしまった以上、取り戻すことはできなかった。絵の代金だけが、未収金として、画廊の帳簿に記入された。

「あの人本当にきれいだったのにね」

「今ごろ何をしているのかしら」

同僚たちの噂話がその美しい外国人と未収金の話になるたび、自分の顔がひきつりはしないか、志穂は心配した。

志穂は自分がだまされたとは、思いたくなかった。スティーブのことなんて、忘れればいいのに、その簡単なことがどうしてできないのか、いくら自問自答しても答えは見付からなかった。とにかく、何もする気が起きないことだけは確かだった。

ボーナスがでて、1か月もしないうちに、結局志穂は仕事を辞めてしまった。退職金は志穂が売った「天使が舞い下りた夜」の未収金をひき、すずめの涙の額で支給された。普段の志穂だったら、社長や経理に、納得できません、と怒鳴りこんでいっただろうに、その気もおきないというのは、よほど心の傷が大きかったためとみえる。 志穂はいつもの志穂ではなかった。

あてどもなく、空虚な日々をすごしているところに、佐々木先生から、パリ旅行の添乗員アシスタントの話を頼まれたのであった。


「オニクにナサイマスカ、サカナニナサイマスカ」。

スティーブに背格好のよく似た、客室乗務員にきかれて、志穂はわれに帰った。

「フィッシュ・プリーズ」ととりあえず答えて、シートに深く沈み、志穂はつぶやいた。「向こうに行ったらきっと忘れられる。」

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