天使が舞い降りた夜

@39mydream

第1話

「はい、わかりました。では、1994年10月6日からですね。こちらこそよろしくお願いします。」

そういって、山中志穂は、佐々木先生からの電話を切った。佐々木先生というのは、志穂が大学時代にお世話になった先生で、今はカルチャーセンターの講師をしている。先生は美術史が専攻で、カルチャーセンターの生徒を対象に、「フランス美術の真髄を探る旅」を公募したところ、参加者が少ないので、、志穂にも参加してくれないか、と電話をしてきたのだった。

「旅行代金を割り引くから」と先生は言った。

が、本当のところ、先生はイタリア美術が専門なので、イタリア語はお手のものだが、フランス語に弱い。志穂もフランス語はできない。

旅行の話をきいたときに、今回頼まれた仕事は添乗員アシスタントであると思い、その不安を強調したが、先生は、

「山中さんは、絵の買い付けに海外に行ったりもしていたので旅行にはなれているのじゃないか。頼むよ。」と何度も念をおした。

志穂はちょうど、勤め先の画廊を辞めて1か月ほどがたち、暇をもてあましていた。

秋のパリと想像しただけで、心が踊る。

マロニエの並木道、ルーブル美術館のガラスのピラミッド、セーヌ川のほとりを歩く恋人たち。と、そこで、心の奥底に、深い黒い染みがにじんだような気になって、想像をやめた。

まだ、心がうずく。このあいだまでつきあっていた男が忘れられないのだ。ずぶずぶと沈むような思いで、この憂いを明るいパリの空に捨てに行こう、ちょうどいい気分転換になる、そう思って、志穂はパリ行きを決意した。


10月の成田空港は、夏休みを海外ですごす利用客の喧騒が去って、落ち着きを取り戻していた。待ち合わせのエール・フランスのDカウンターに、よく知った小柄な佐々木先生の姿を見てとると、志穂はキャリーケースをひきずりながら、近づいていった。

「やあ、久しぶり、元気そうじゃないか」

「先生も、お元気そうで何よりです」。

ひととおりの挨拶をすますと、志穂は先生のかたわらで、中年女性が3人、がやがやとおしゃべりをしているのが、目に入った。

「あんた、スーツケースのなかにお金入れとりやせんね。」

「わたし、パスポートはどこに入れたかしら」

「ほんまに羽田から、スーツケースもって乗り換えるなんてしんどいわ」

「関西空港からにしてくれたら、なんぼ助かったかもしれへんのに」

いきなりの関西弁に、志穂はとまどった。先生のカルチャーセンターは東京ではなかったのかしら。先生は関西でも教えていらっしゃったのかしら。

不思議に思う志穂の顔色を読んだのか先生は、

「まず、荷物のチェックインを済ませてしまいましょう。ご紹介はそれからにしましょう」

そういって、おばさんたちのスーツケースを、てきぱきと、荷物検査の台に乗せていく。

エール・フランスの係員が、チェック・インの手続きをすませ、搭乗券をわたしてくれた。

スーツケースが、ベルトコンベアにのって視界から消えると、佐々木先生は、空港のあいたベンチに志穂たちを呼んで、座らせた。

「これから6日間、いっしょに旅をするメンバーを紹介します」

メンバーは先生を含んで5人。先生は、ひとりひとりに搭乗券をわたした後、順番に紹介した。 まずは鶴田さん、眼の細いふくよかな顔だちで、関西の落語家に似ている。みなのなかで一番力がありそうなのに、スーツケースが重いと文句を言っていた女性だ。

小林さんは、おとなしそうだが、一本芯のとおった強さを感じさせる、きっと家庭ではいい母親なのだろうと、志穂はそんな印象をもった。

最後に松本さん、メンバーのなかでは一番年が上、ものごしが穏やかで、上品な老婦人だ。

鶴田さんと松本さんは友人で、小林さんは、東京在住、ご主人とお子さんをおいて、今回の旅行に参加したという。

もともとは、東京のカルチャーセンターで旅行の募集をしたのだが、参加人数が少ないので、

支部のある大阪でも同様の募集をしたということであった。

志穂は、自分が一番年下であることを考え、仕事で身につけてしまった、初対面でイニシアティブをとるくせをださないようにと、いささか緊張した面持ちで挨拶をした。

「山中志穂です。この前まで画廊に勤めていましたが、今は自由の身です。どうぞ、よろしくお願いします。」

佐々木先生がニコニコしながら、

「山中さんはね、海外旅行には詳しいので、頼りにしてます。」

「まあ、それは心強いわ。」

まっさきに、声をあげたのは、松本さんだった。

志穂は顔を少し赤らめて、

「いえ仕事でしたから、無我夢中で…。」

というのがうわの空になってしまった。というのも、空港のベンチの下に、紺色のパスポートを見つけてしまったのだ。日本人のものだということは、一目瞭然だ。海外に出たら、自らを日本人と証明するものは、このパスポートだけ。まさか旅のはじまりの空港で、命の次に大事なパスポートを落す人などいるのか、と志穂は驚いたのだが、実際それは、鶴田さんのだった。

「まあ、なんでこないなところに私のパスポートが。」

そう笑って、鶴田さんは、大きなおなかでかがみこむのがつらそうだったが、パスポートを拾ってチョッキのポケットにしまった。

次に一行が、空港施設使用料の2000円券を買って、出国ターミナルに移動しようとしたとき、志穂は、小林さんが、搭乗券を落すのをみた。搭乗券は、特急の指定席券のようなもので、一度チェックインし、名前の座席シートの番号も刷り込まれた券を受け取ってしまったら、キャンセルできなくなる。

「小林さん、小林さん、搭乗券が落ちましたよ。」

あわてて、拾い上げると「飛行機のなかに入るまでは、これは大事なものですから」といって差し出した志穂に、小林さんは

「そう、飛行機のなかに入ってしまえば、もういらないってことね。」

志穂の手から、搭乗券をひったくると、スタスタと歩いていってしまった。

エールフランスの機内で、志穂はミシュランのガイドブックを読んでいた。正確にいうと「読んでいたふりをしていた」のだ。日本からパリへの直行便は12時間半かかる。途中乗り換えのない直行便は、それで便利なのかもしれないが、志穂はさっきから、泣き出しそうな気持ちになるのをおさえるため、ガイドブックを読むことはできずに、本の上を眼でなぞっていた。

機内で 飲み物を配るフランス人のキャビンアテンダント(客室乗務員)をみたとき、肩のあたりがスティーブに似ていて、志穂の気持ちは、はりさけそうだった。

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